落花流水の情

 恋バナや緑谷と死柄木の接触など様々なことがあった日の翌朝、莉緒はいつものように轟と登校していた。

 口数の少ない轟との会話は多くはないが、彼との間に流れる沈黙が心地よい――そんなことを思いながら隣を歩く轟に視線を送ると、白い半袖ワイシャツから覗く引き締まった腕が目に入った。
 期末テスト前の衣替えで夏服になったのだが、当初は気にしていなかった轟のたくましい腕を意識してしまうのは昨日の恋バナの影響なのかもしれない。

「そういや、昨日クラスの奴らと買い物に行ったんだろ?」

 莉緒が平静さを装って歩いていると、轟が声を掛けてきた。彼は母親のお見舞いのため、昨日の買い物は欠席している。

「うん。キャリーバッグとか持ってなかったし、そういった旅行用品を買ったの。轟くんは合宿の準備できてる?」
「ああ、大体はな」
「そっか、昨日は色々あって準備できてないから私も急がないとなぁ」

 死柄木の件でモヤモヤし、轟のことでは心を乱されて落ち着かず、合宿の準備まで手が回らなかったのだ。
 莉緒が何気なく口にした言葉を拾った轟は、「……色々?」と不思議そうな声で聞き返してくる。

「あ、えっと……」

 口を滑らせてしまったことに気付いた莉緒は、言葉を探すように目を泳がせた。まさか、恋バナのことを本人に話すわけにはいかない。そんな彼女に轟が訝しげな目を向ける。
 視線の圧に屈した莉緒は、「たぶん、相澤先生から説明があると思うんだけど……」と前置きをしてから、“恋バナではない方”を話すために口を開く。
 
「……実は、昨日ショッピングモールにUSJの時のヴィラン、死柄木が現れて――」
「怪我はないのか!?」

 すべてを言い終わる前に轟から両肩を力強く掴まれ、言葉が遮られた。
 莉緒は驚いて目を丸くし、至近距離にある轟の顔を見ながらゆっくりと頷く。

「う、うん。死柄木が接触してきたのは緑谷くんで、でも怪我もなかったし大丈夫だよ。私は別行動してたから死柄木には会ってないし」
「そうか、良かった……」

 轟は安心したように深く息を吐き、掴んでいた手を緩めた。その様子から、轟がどれだけ莉緒を心配してくれたのかが伝わってくる。
 
「轟くん、心配してくれてありがとう」

 歩きながら事件の詳細――といっても莉緒が知っていることなど些細なことだが、それを話していると次第に轟の機嫌が悪くなっていく。
 言葉を切ってそっと窺い見ると、轟の足が止まり、釣られて莉緒も立ち止まった。

「……連絡があれば迎えに行った」

 轟が不服そうな声をもらす。

「轟くんはお見舞いに行くって言ってたから、邪魔したくなくて……」
「今度からは、どんなことでもいいから連絡をくれ。今回は大丈夫だったかも知れねえが、おまえはまだヴィランに狙われている可能性だってあるんだぞ」
「……ごめんなさい」

 塚内の提案を断ったのは軽率だった。莉緒を送るための人員は割いてしまうが、一人で帰って何かあれば余計な迷惑をかけてしまうし、塚内の責任問題にもなり兼ねない。
 轟の言葉を受けて、自分の考えが足りなかったことを自覚した莉緒はしゅんと肩を落とす。

「……俺は頼りないか?」
「――え?」

 その言葉に思わず顔を上げて目を瞬かせる。
 莉緒よりも20cmほど高いところにある轟の顔には、懸念や危惧、寂しさといった複雑な感情が浮かんでいるように見えた。

「望月は強えーし、一人で何でもこなしてきたんだろ……祖母さんに心配かけねえようにとか。俺は、おまえが一人で頑張りすぎてんじゃないかって心配なんだ」

 確かに、高齢の祖母に負担をかけないように自分でできることは何でもしてきた。それが、いずれ永別してしまうことを見越した祖母の意向であり、莉緒も理解していた。未だ両親が目を覚まさないなか、祖母が亡くなり独りになった。
 今は相澤という保護者もいるが、担任である相澤は莉緒だけではなく、A組全体を見ないといけない。

「……私は、大丈夫だよ。こうやって轟くんが気に掛けてくれてるから」

 莉緒は轟の瞳を見つめながら続ける。

「いつも満員電車で私が潰れないように守ってくれたり、怪我を心配してくれたり……もう充分過ぎるくらいだよ」

 轟には何も返せていないのに、彼は莉緒にたくさんのことを与えてくれる。もう、それだけで充分だと――。

「それは俺がやりてえからやってることだ、望月が気にする必要はない。俺は頼ってもらいたいし、望月はもっと甘えていいと思う」

 充分だと、そう思っていたのに――。
 頼っていい、甘えていいのだと。無条件で自分のすべてを受け入れ、寄り添い、支えてくれそうなその甘美な言葉の響きと轟の優しさが身に沁みる。
 莉緒を見つめ返す惹き込まれるようなアイスグリーンの瞳の奥には熱がこもっており、その熱に浮かされてしまいそうだ。

「……ありがとう」

 目頭が熱くなり涙が零れそうになって、莉緒は慌てて俯いた。
 どうしてこんなにも彼の言葉に心が揺さぶられるのだろう。一人で抱え込み過ぎていたのだろうか――自分には前世の記憶があるのだから、どんなことがあろうと耐え忍ばなくては、と。

 ――あぁ、どうしよう。
 彼に惹かれてしまう心を抑えることができない。元々、意識をしていたのだ。落ちてしまうのは簡単だ。

「……これからは何かあったら轟くんを頼らせてもらうね!」
「ああ、そうしてくれ」

 声が震えないように努めて明るく振舞うと、その言葉に轟は満足したのかポンポンと頭に触れて撫で始める。あまりにも優しい触れ方に、せっかく我慢している涙腺が決壊してしまいそうだ。

「どうかしたのか?」
「ううん、何でもないよ! 何でもないけど……ふふ」
「?」
「こんなに頼もしいヒーローがそばにいるんだから、私は大丈夫だなって思って!」

 笑みを浮かべながら轟にそう言うと、彼の手が不自然に止まる。不思議に思いながら轟を見ていると、顔を逸らされてしまった。「行くぞ」と声を掛けられ、それ以上は聞けずじまいだ。

 並んで歩く二人は、腕が触れ合いそうなくらい近い。今はまだこの距離感が心地よく感じる。
 昨日、耳郎と八百万から言われたように、芽生えたばかりのこの気持ちを焦らずゆっくり育てていこう――そう考えていた莉緒は、轟の耳が赤く染まっているのに気付かなかった。




 朝のHRの時間、相澤から昨日のヴィラン遭遇についての話があった。
 例年使っている合宿先をキャンセルし、行き先は当日まで明かされないそうだ。合宿の詳細が誰にどう伝わっているのか学校側が把握できないため、ヴィランの動きを警戒して取られた対策だった。

 こうして、あまりに濃密だった前期は幕を閉じた。そして夏休み、林間合宿当日を迎える――。