春風
翌週の月曜日。始業のチャイムが鳴る数分前に教室に入った影浦は、いつものように腕を枕にして机に突っ伏した。腕の中で大きな欠伸をしていると、おでこの辺りをふわりとした感情がかすめた。
少し顔を上げると、机の縁に置かれた白くて細い指が目に映った。
「おはよう、影浦くん」
優しくて柔らかい声。
相手の顔を見なくても、声の持ち主が誰なのかわかる。影浦に、こんな風に話しかけるのは一人しかいないからだ。
影浦が上体を起こすと、予想通り飛鳥がいた。
彼女は机の前にしゃがみ込み、下から影浦を見ている。目が合うと、それだけで嬉しそうに笑って、もう一度「おはよう」と言ってきた。
「……おー」
「えへへ、挨拶返してくれるの嬉しい」
飛鳥は軽く笑って、自身の顔の横に学級日誌を掲げた。
「実は、今日から私たち日直のペアです。逃さないよ〜、サボらせないよ〜。しっかり働いてもらうからね!」
「はァ!? なんでおめーと……」
日直は席が隣同士の男女ペアで一週間交代で行っている。
席順は新学期が始まってまだ数週間しか経っていないこともあり、出席番号順だ。そして、影浦と飛鳥は隣の席ではない。
「本当はね、影浦くんと私の友達が日直だったの。でもその子がインフルでお休みになっちゃって、代役をお願いされたんだよね」
「マジか。……ってか、日直かよ。めんどくせー」
影浦は文句を言いつつも、代役の飛鳥が自分との日直に困った顔をしていないのが救いだった。
正直、よく知らない女子と組まされるより飛鳥の方が気が楽だ――そんなことを思った自分に気恥ずかしくなり、にこにこしている彼女から視線を逸らした。
***
午前の授業が終わり、昼休み。
教室では友人同士が弁当を広げる中、黒板の前では飛鳥がチョークの文字と奮闘していた。
飛鳥は黒板消しを持ったまま、つま先立ちをして腕を伸ばす。けれど、背伸びをしても上の方にある白いチョークの文字は消えない。
「どけ。俺がやる」
「わっ! ありがとう影浦くん」
影浦は飛鳥から黒板消しを受け取り、長身を活かして上部をサッと拭き取る。その動作ひとつで、彼女からほわほわとした感情が伝わってきて、背中がむず痒くなった。
「……別に、たいしたことじゃねえだろ」
「ううん、ちゃんとお礼言いたかったの。ありがとう」
日直としての仕事をしただけなのに律儀にお礼を言われ、照れくさくなる。
居心地が悪くなった影浦は、「……飯、行ってくる」と言ってその場を去ろうとした。
「あ。影浦くん、待って」
影浦が振り返ってなにかを言うより先に、飛鳥の手が伸びて自身の前髪に触れてきた。
優しい手つきで、影浦の髪を撫でる。
「チョークの粉がついてたよ」
そう言って微笑む飛鳥。
影浦は足早に教室を出てドアを閉めると、そのままドアに背を預けた。少し俯いて、片手で首の後ろをさすりながら言葉を漏らす。
「くそッ……マジで調子狂う」
彼女の笑顔が眩しくて、それになんて返答したのかすら、もう思い出せない。
あの笑みが頭から離れず、なぜか胸の奥がざわついて落ち着かなかった。
昼休みが明けて午後の授業が始まっても、影浦の脳裏には飛鳥の笑顔がチラついていた。
それを追い払うように机にうつ伏せになり、寝る体勢に入った。ちょうど国語の授業で、先生が読み上げる万葉集の和歌が眠りを誘う。もうすぐで寝入りそうだというのに、急に頭へチリッとした鋭い感覚が走った。
影浦が咄嗟に頭を横にずらすと、机に「パンッ!」と勢いよく丸められた教科書が叩きつけられた。
「おい影浦、避けんなよ!」
先生が呆れたような声を上げ、クラスのあちこちから笑いが起きた。
「ちゃんと起きとけよ。入試にも出るやつだぞ」
たいして怒ってなさそうな先生は授業を再開する。
この変な体質もたまには役に立つな――影浦は頭をガシガシと掻きながら、そんなことを思った。
放課後になり、影浦は焼却炉にゴミを捨てに行く。飛鳥はその間、教室で黒板消しと日誌を書いている。
影浦がゴミ捨てを終えて教室に戻ると、舞い上がったチョークの粉が窓から差し込む光を受けてキラキラとしていた。そんな光の中で、飛鳥が日誌を開いてシャーペンを走らせている。
「あ、おかえり影浦くん。ゴミ捨て、ありがとね」
「……おう」
影浦は飛鳥の前の席の椅子にどかっと腰を落とすと、背もたれに片肘を突いて日誌を覗き込む。
日誌の日直の欄に、飛鳥の字で“影浦”と書いてある。女子に多い丸文字でもなければ美しい文字でもない。だが、その柔らかな筆致に彼女らしい親しみや飾らない個性が表れているようで読みやすかった。
「えっと、今日の五限って国語だったよね? なにやったっけ……思い出せないなぁ」
「万葉集だろ。『入試に出るぞ』って言ってたじゃねえか」
「えっ、影浦くん寝てたわりによく覚えてるね」
「むしろ、なんでおめーの方が覚えてねーんだよ」
「ふふふ、それは――私も寝てたからだね」
「……は?」
影浦は思わず間抜けな声を出した。
飛鳥は悪びれるような様子もなく、茶目っ気のある笑みを浮かべている。
「意外? 昼休み明けって眠くなるんだもん。昨日ちょっと寝るの遅かったし」
「おめー、優等生みてえな面してるくせに」
「影浦くんは突っ伏して寝てるからバレバレなんだよ。私はね、『授業ちゃんと聞いてます!』って顔で寝てるから」
「なんだよそれ、器用だな」
「でしょ?」
影浦は褒めたつもりはなかったのだが、褒められたと感じたのか飛鳥は得意げになっている。
「そういえば国語の授業のとき、先生に教科書で叩かれそうになったんでしょ? 見てなかったけど避けたんだよね? すごい! あの騒ぎで目が覚めたんだよね。起こしてくれてありがとう」
大層なことをしたわけではないのに、飛鳥からは感謝の気持ちがこもった穏やかな感情が流れ込んでくる。
「……あー、なんかそういう気配がわかんだよ」
影浦は、変な体質について話すわけにもいかず、言いにくそうに飛鳥から視線を逸らした。
「へぇ、そうなんだ! じゃあ、今度また眠たくなったら影浦くんの方を見てみようかな。影浦くん気づくかな〜って念を送ってたら起きれそう!」
飛鳥の声は、純粋な好奇心で弾んでいた。嘘も裏もない、真っ直ぐな感情が影浦の肌に触れる。
「そんなことするくらいなら授業聞けよ。……まぁ、俺が言えたこっちゃねえけどな」
「たしかに! ふふっ」
飛鳥は屈託のない笑みを浮かべた。
その陽だまりのような笑顔を見ていると、胸の奥が温かくなって妙にこそばゆい気持ちになる。
こんな笑顔を向けられる理由がわからない。だから、思わず聞いてしまった。
「……おめー、俺なんかと一緒にいてよく笑えんな」
零れた言葉に、飛鳥は瞬きをしてから静かに微笑んだ。
「私はね、影浦くんと一緒にいるの楽しいよ。もう、影浦くんが優しい人って知ってるから」
「……」
「『俺なんか』って言い方しないでよ。もっと、自分を大事にして。……影浦くんって態度は偉そうなのに自己肯定感低いよね」
「ははっ、偉そうってなんだよ!」
言われた言葉に、影浦は吹き出して笑ってしまった。
飛鳥もつられたように笑い、二人の笑い声が重なって静かな教室に柔らかく響く。
「だからさ――」
飛鳥は少しだけ背筋を伸ばし、冗談めかしながらもどこか真剣な目で影浦を見る。
「私がこれから影浦くんのいいところ、いっぱい言ってくからね」
「……勝手にしろよ」
影浦はぶっきらぼうに返しながらも、耳の先はほんのり赤い。その反応に気づいたのか、飛鳥は小さく笑った。
春の光の中で、二人の影が楽しそうに揺れて重なる。
「あ〜、やっと終わった! 影浦くん、お待たせ。お疲れ様」
日誌を書き終えた飛鳥が、シャーペンを置いて伸びをする。
「おう、お疲れ」
影浦は立ち上がり、鞄を掴んだ。
飛鳥も日誌を職員室に提出するため立ち上がる。そのとき、窓の外から強い風が吹き込んできて、飛鳥の髪がふわりと舞い上がった。
「わっ!」
慌てて髪を押さえる飛鳥。
教室の中を風が駆け抜け、窓際の桜の木から残り少ない花びらが数枚、舞い落ちてくる。
「もうすっかり葉桜だね。桜ももう終わりかぁ」
飛鳥が窓の外を見ながら、少し寂しそうに呟いた。
影浦も同じように外に視線を向ける。いつの間にか傾いた陽が、校舎を赤く染めようとしている。
「……帰る」
「あ、待って。一緒に帰ろうよ! 日誌、職員室に出してくるから影浦くんは閉め忘れた窓の鍵よろしくね。下駄箱集合で!」
影浦の返事を待たずに、飛鳥は日誌を抱えて走って教室を出ていく。
「……あいつ、ほんっと自由人だな」
彼女の後ろ姿を見送りながら呟く。その顔には、少し笑みが浮かんでいた。
影浦は窓に近づき、鍵を閉めようと窓枠に手をかける。教室へ吹き込む風に、思わず目を細めた。
その風は、ただ過ぎていくだけの代わり映えのしない日々を終わらせ、新しい季節へと変わっていく合図のようだった。
――影浦の心の中にも、東雲飛鳥という存在が春風のようにそっと吹き込んでいた。
それは、これまでとは違う。特別な春を呼び寄せるような、そんな予感をさせる不思議な風だった。