ひだまりの隣

 金曜日の放課後。
 黒板の隅に「日直:影浦・東雲」とチョークで書かれた文字が、傾きはじめた陽射しを浴びて輝いている。
 ――今日で、一週間の日直が終わる。

 この一週間で、影浦は飛鳥とずいぶん気安く話すようになった。
 彼女が物怖じせずに話しかけてくるところも、柔らかく優しげに笑うところも、飾らない自然体な雰囲気も――一緒にいると、不思議と距離を感じさせない。クラスの視線がやけに飛鳥に集まる理由がわかる気がした。
 それもあって、影浦が飛鳥と話していると周囲のひそひそとした声や奇異な視線が不快なものとして刺さってくることがある。だからといって関わるのをやめたくないと思うくらい、彼女のそばは居心地がよかった。


「……お腹空いた」

 西日が差し込む教室で、飛鳥が日誌を書く手を止めて力なくつぶやいた。
 前の席の椅子に座っている影浦は、その様子を頬杖をつきながら見ていた。

「ねぇ、影浦くんの家は今日の晩ごはんなに?」
「は? 知らねえよ」
「えー? じゃあ、昨日はなに食べた?」
「昨日……あー、お好み焼きだったな」
「お好み焼き! いいなぁ〜」

 飛鳥がぱっと顔を輝かせる。
 その反応に、影浦は片眉を上げた。

「別に喜ばれるようなもんじゃねえよ。家が店だから、いつでも食えるし」
「え、影浦くんの実家ってお好み焼き屋さんなの?」
「おー」
「……じゃあさ、日直のお疲れ様会ってことで今から食べに行っちゃだめ?」

 お願い、と手を合わせる飛鳥。
 彼女からワクワクとした期待の感情が伝わってくる。影浦は少し躊躇した後に、頭をガシガシと掻きながらぼそっと答えた。

「…………別に、いいけどよ」


 ***


 夕方の光と空が混ざりはじめた道を、二人で並んで歩く。
 駅の方へ伸びる商店街の外れに、暖簾のかかった古い店が見えてきた。暖簾には“お好み焼 かげうら”と書いてある。

「ほんとにやってるんだ……!」
「うっせ。そんな珍しくもねえだろ」

 照れくさそうに言う影浦を横目に、飛鳥が小さく笑った。
 暖簾をくぐると、ソースの香ばしい匂いと鉄板のジュウジュウという音が迎えてくれる。店内は客が少なく、夕飯時にはまだ早い時間だからか静かだ。

「いらっしゃいませ――って、あら?」

 レジカウンターの向こうにいた女性――影浦の母親が、目を丸くした。
 息子と飛鳥を交互に見て「あらあら、まあまあ」と意味ありげな顔でにっこり。

「初めてじゃない? あんたが人を連れてくるなんて」
「うるせー。普通にしろよ、ババア」
「はいはい、わかってるわよ」

 そう言いながらも、母親の顔が緩んでいるのが見て取れる。
 
「初めまして、同じクラスの東雲飛鳥です。影浦くんにはいつもお世話になってます。今日はお邪魔します!」

 飛鳥がぺこりと頭を下げると、母親は嬉しそうに「まぁ、礼儀正しくて可愛い子」と声を弾ませた。そして、影浦に耳打ちするのだ。

「――彼女?」
「ちげえ!」

 これだから連れてくるのを躊躇したのだ。
 影浦は母親に鋭い視線を送り、飛鳥を席へ案内した。「ごゆっくり〜」と言う母親の楽しそうな声を背中に受けながら。

「お母さん、楽しそうな人だね」
「うるせえだけだ」
「もう、そんなこと言って」

 飛鳥がくすくすと笑う。
 影浦は視線を逸らしながら、鉄板を挟んで向かい合わせに座った。

「ねぇねぇ、なにがおすすめ?」
「とりあえず定番のでいいだろ。豚玉でいいか?」
「うん、楽しみ!」

 影浦は母親に声をかけ、材料を二つ持ってきてもらう。
 慣れた手つきで鉄板の上に油を引き、生地を流し込む。ジュウっと音を立てて生地が広がっていき、その上に豚肉を乗せる。肉の白い脂が熱で透明になっていく様子を、飛鳥が目をキラキラとさせながら見ている。
 影浦は、豚玉の隣にもう一つ生地を流し、さらに麺を炒めていく。

「ほらよ」

 影浦は飛鳥にヘラを手渡した。
 大人しく受け取った飛鳥は、両手に持ったヘラと影浦を交互に見て不思議そうな表情をしている。
 
「そっちの豚玉、もうひっくり返していいぞ」
「……え!? 私がひっくり返すの?」
「おめーの分だろーが」
「そうなんだけど……いや、うん。私が食べたいって言ったんだもんね、やればできる!」

 ――たかがお好み焼きをひっくり返すくらいで気合い入れすぎだろ。
 影浦は、内心でそう思いながら飛鳥の様子を窺う。
 
 飛鳥は、お好み焼きに向けるにしては真剣すぎる眼差しで生地の下にヘラを差し込んだ。生地を持ち上げ、綺麗に返そうとタイミングを計っているのかしばらく静止する。
 だが、そのせいで重力に逆らえない生地に亀裂が入った。それに気づいた飛鳥が慌ててひっくり返すも、それは後の祭り。ひっくり返された生地は半分折れ曲がっていた。しかも、返す際にちぎれた生地の欠片が鉄板の端へ飛んでいき、油と混ざってジュウっと音を立てているのがなんともむなしい。

「……あっ」

 飛鳥は折れ曲がったお好み焼きの前で、間の抜けた声を漏らして固まった。
 影浦は、その無様な仕上がりと飛鳥の声に思わず息を詰めた。そして吹き出した。
 
「ははッ……おめー、下手くそだな!」

 影浦は涙が出てくるんじゃないかと思うくらい腹を抱えて笑った。
 当の飛鳥は、失敗したことにより見るからにしょんぼりとしている。
 
「また下手って言われた……」

 影浦が飛鳥に『下手』だと言うのは、これで二回目だ。
 前回の似顔絵のときといい今回といい、一生懸命で真面目に取り組む割に微妙に抜けている。だが、それが余計に愛嬌を誘う。
 
「……せっかく影浦くんが作ってくれてたのに、ごめんね」
「別にお好み焼きくれーで、んな深刻になることねーだろ」

 そう言いながら飛鳥からヘラをもらうと、崩れた生地の形を整え直した。

「見た目が微妙でもソースかけときゃわかんねえよ」

 影浦はソースによって修復したお好み焼きをヘラで切り分けてお皿に乗せ、それを飛鳥の前に差し出した。
 立ちのぼる湯気とソースの匂い、かつお節がわさわさと泳いでいて生きているようだ。

「わっ、おいしそう! ありがとう、いただきます!」
 
 飛鳥は丁寧に手を合わせると、一口食べて目を輝かせた。

「おいしいっ!」
「……だろ?」
「なんか、外カリッてしてるのに中ふわふわ! すごい!」

 口いっぱいに頬張る飛鳥。
 その様子を見て、影浦はまた笑いが込み上げる。さっきまでしょぼくれていたのに今はこの笑顔だ。しかも、よほどお腹が空いていたのか飛鳥の箸が止まらない。
 影浦はくつくつと笑いながら、迷いのない動作でもう一つのお好み焼きの上に炒めていた麺を置く。ボウルに残しておいた生地を麺にかけて、焼き具合を確認した後にひっくり返した。

「わぁ、影浦くん上手だね!」
「……こんくらい、できて当たり前だろ」

 照れくさそうに言いながらも、影浦の手は止まらない。できあがったモダン焼きを半分、飛鳥の方に寄せる。
 
「ほらよ」
「え、そっちも食べていいの? てっきり影浦くんの分だと思ってたのに」
「おめー、一枚で足りるのかよ」

 飛鳥のお皿も鉄板の豚玉も、もうなくなろうとしている。

「それは……まだ全然入るね」
「じゃあ、問題ねえじゃねーか」
「影浦くんは食べないの?」
「夕方からこんな入んねーよ、半分くらいで足りる。そもそも昨日も食ってんだよ」
「そっか、それなら遠慮なくもらうね」
 
 焼き上がったモダン焼きを飛鳥の皿に足すと、彼女は嬉しそうに笑った後、大きく一口頬張った。「こっちもおいしい!」と絶賛する飛鳥は、さらに食べるペースを上げた。
 それを見ていた影浦の口から、意地悪な言葉がこぼれた。
 
「……おめーが食い意地張ってるってのは本当だったんだな」

 その言葉が完全に図星だったのだろう。
 お好み焼きが喉に詰まったのか、飛鳥が「ごほっ、ごほっ」と小さく咳き込んだ。
 
「えっ、その噂、影浦くんまで知ってるの!?」

 咳き込んだせいで少し涙目になっている飛鳥が、驚いたような表情で影浦を見ている。
 影浦は噂として聞いたわけではない。初めて飛鳥を知った日――彼女が、『影浦くんは優しい人だと思う』と言ったあの日、本人と友人の会話がたまたま聞こえただけだ。

「……この間、ちょっと耳にしただけだ」
「いや、あれはねっ――!」

 飛鳥は少し頬を赤くさせながら、勢いよく箸を持ち直した。そして神妙な面持ちで語り出す。

「……“マウンテンパフェ”って知ってる? あの五人前くらいの大きさのやつ」
「……名前からしてやべーな」
「でしょ!? でもね、その日で無料券の期限が切れるから食べないともったいないと思って頑張ったの!」
「一人でか?」
「うん。友達もいたけど、見てるだけで胸焼けして気持ち悪いって言われちゃったから。私、最後まで完食したんだよ! そしたら、それを去年同じクラスだった男子に偶然見られてて、『東雲は食い意地張ってる説』とか流されて……でも、さすがにお腹いっぱいになって、その日の晩ごはんは豚骨ラーメン一杯しか食べられなかったの! 替え玉もできなかったもん!」

 頬をほんのり膨らませて身を乗り出す飛鳥。
 替え玉ができなかったことへの悔しさを隠さないその様子に、思わず笑いそうになる。

「つーか、そんだけ食って晩メシ食えたんかよ。しかも豚骨ってラーメンのなかでも重たい方だろ」
「あ、影浦くんって豚骨ラーメン好き? 割引券あるから今度一緒に行こうよ!」

 期待に満ちた眼差しで誘ってくる飛鳥。
 さっきまで赤くなったり、悔しそうに唇を尖らせていたのが嘘みたいにころころ変わる。その表情の移り変わりを見ていると、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
 誰かとご飯を食べて、こんな風に笑うなんて今までの影浦なら考えられなかった。けれど、飛鳥と一緒にいると楽しいと素直に思えた。
 
 ――こいつ、見てて飽きねえな。むしろ、もっと――。
 その先に、なんて言葉を続けようとしたのか。それに気づいた影浦は、気恥ずかしくなって飛鳥からそっと目を逸らした。
 
「玉狛一丁目のところにあるラーメン屋さんなんだけど、安いからいつもだいたい晩ごはんはそこで済ませてるの」
「……いつも?」

 その言葉に、影浦は少し引っかかりを覚えた。
 『いつもだいたい晩ごはんはそこで』という言葉が妙に気になる。けれど、飛鳥は気にした様子もなく「うん!」と明るく答えた。

 
 気づけば鉄板はすっかり空になっていた。一枚半のお好み焼きが消えるまで、それほど時間はかからなかった。
 食べ終わった後、タイミングよく店の奥から母親が顔を出した。

「空いたお皿下げるわね〜」
「すみません、ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「うちのお好み焼き、どうだった?」
「すごくおいしかったです! もう、毎日食べたいくらい!」
「そう言ってもらえて嬉しいわ、ありがとね。いつでも来てね。それと、雅人をよろしくね」
「もちろんです!」

 茶目っ気たっぷりに言う影浦の母親。
 その言葉の裏に隠れた真意など知らずに即答する飛鳥。そんな彼女に、母親は思わず吹き出した。

「あははは! 飛鳥ちゃんって面白いわね! 雅人って、ぶっきらぼうでデリカシーのない子だから、もしなにか嫌なこと言われたら教えてね」
「……おい」
「ふふ、了解です。でも、そんな日はこないと思いますよ。――だって、影浦くんは優しい人だから」

 飛鳥が影浦を見つめ、微笑みを浮かべながらそう告げる。
 母親はそれを唖然とした表情で見ていた。
 
「日直のときもいっぱい助けてくれました。黒板の高いところを消してくれたり、重たくて大変なゴミ捨てを率先して代わってくれたり。今日だって、私が失敗したお好み焼きをおいしく仕上げてくれました」
 
 飛鳥がさらに影浦にプリントを拾ってもらった話などをし始めると、母親の目はじわりと潤んでいった。飛鳥はそれに気づく様子もなく、言葉を重ねていく。

「私は、影浦くんと一緒にいると楽しいです」
「……そっか。そう言ってくれる子がいるなんてね。――これからも、雅人をよろしくね」
「はい!」
 
 最初に母親が『よろしくね』と言ったときとは声のトーンが違う。冗談めかした軽やかな『よろしくね』から、深く切実な『よろしくね』へと。
 そのやり取りを目の前で見ていた影浦は、耳を赤くさせながら「ババア、余計なこと言うな」と吐き捨てて睨む。母親はそんな息子の様子にケラケラと笑いながら、『ババア』と呼ばれた仕返しの一撃を放つ。
 
「そーいやあんた、宿題は?」
「あ?」

 影浦が気の抜けた声を出したところで、飛鳥が思い出したように言った。

「明日提出のやつあるよ? 終わった?」
「…………」
「……もしかして、忘れてた?」

 飛鳥の驚いた声に、母親が割って入る。

「飛鳥ちゃん。せっかく食べに来てくれたのにこんなの頼むのも申し訳ないんだけど、もし時間があれば雅人の宿題見てやってくれない?」
「はぁ!? 一人でできるわ!」
「ほんとに?」
「ほんとに?」

 母親と飛鳥は、同じ言葉を同じトーンで、同じ表情で言う。
 影浦は舌打ちをして目を逸らした。今日初めて会ったくせに、妙に息が合っているのがどうにも面白くない。

「私、時間あるよ? 結構難しかった気がするけどなぁ。ね、どうする?」

 飛鳥がにやにやと楽しそうに笑う。
 つい先日も似たようなやり取りがあったのを、影浦は思い出す。あのときも、こうやって飛鳥に助けてもらったのだ。

「……上がれよ」

 影浦はそれだけ言って、さっさと店の奥へと歩き出した。
 背後で飛鳥が「うん!」と明るく返事をする声が聞こえ、耳が熱くなる。

 彼女とのこの時間がまだ続くことに、少しだけ心臓の音がうるさくなった。