春のともしび

 自分の部屋に案内するため、影浦が先頭になって店の奥へ進む。
 家族しか使わない階段を上るたびに、店のざわめきが少しずつ遠ざかっていった。ソースの匂いも人の気配も薄れて、代わりに後ろを歩く飛鳥の存在だけがやけに近く感じられる。

 小学生の頃、仲の良かった友達に自分の変な体質について話したことがある。嘘つきや気持ち悪いなどと言われて以降、家族以外の誰も入らなかった部屋。そこに、今――飛鳥が足を踏み入れようとしている。
 自分で「上がれよ」とは言ったものの、その事実に胸の奥で妙な緊張感が広がる。
 廊下を抜けて、部屋の扉を開けた。

「お邪魔しまーす」

 飛鳥が部屋に入り、きょろきょろと落ち着きなく視線を動かす。
 影浦にとっては見慣れた自分の部屋だ。漫画で埋まった本棚に、机の上に無造作に置かれた読みかけの今週のジャンプ。そして、ベッドの上に脱ぎ散らかされたパジャマ代わりのスウェット。

 影浦にとっては、今さら気にするようなものはなにもない――いや、スウェットだけは「回収して洗濯しとけよ」と、ここにはいない母親に恨み言を零したくなる。だが、言えば「自分でやれ」と返されるだろうし、気を利かせてやってくれていたとしても、そもそも「勝手に部屋に入るな」とケンカになるのが目に見えている。
 けれど、今日に限っては――と、理不尽な気持ちが込み上げる。

 影浦がそんなことを考えているとは気づく様子もない飛鳥は、なおも興味深そうに部屋を眺めていた。

「思ったより片付いてるね」
「あ? 『思ったより』ってなんだよ」

 そんなふうに感想を持たれて、少しだけ居心地が悪いような、でも妙にくすぐったい気持ちになる。
 
「ごめん、なんとなくもっと散らかってるイメージだったから。学校の机の中はプリントが化石になってそうだったし」

 飛鳥がくすっと笑う。
 影浦は図星を突かれて、さっと彼女から視線を逸らした。
 実際、以前飛鳥に宿題を手伝ってもらったプリントは机の奥でしわくちゃになって眠っていたのだ。あのしわくちゃ具合を知っての発言なのだろう。

 影浦は気まずさを誤魔化すようにベッドの上のスウェットを引っ掴むと、雑に丸めてクローゼットに押し込んだ。そして、代わりに折りたたみのテーブルを取り出して広げる。鞄から筆記用具を取り出していると、飛鳥が隣に座った。

「じゃあ、やろうか。どこまでやったの?」
「……なんもやってねー」
「やっぱり!」
「つーか、なんの宿題なのかも覚えてねえ」
「ふふ、なにそれ! っていうか、今さらだけど宿題持って帰ってきてるの?」

 影浦が鞄を漁っていると、飛鳥は横から覗き込んで手を伸ばしてくる。近い距離にいるせいで、彼女からふわっとお好み焼きのソースの匂いがしてきた。きっと今、自分も同じ匂いがしているはずだ。そんなことまで考えてしまって、自分で自分にむず痒さを覚えた。鞄を漁る手に少しだけ余計な力が入る。

「あ! あったよ影浦くん。置き勉してなくてよかった〜」
 
 飛鳥は影浦の鞄から目的のプリントを見つけ出し、無邪気な笑顔を向けた。
 影浦は胸のざわつきを隠すように、そっけない仕草でプリントを広げて問題を解き始める。時折、わからないところを指さすと飛鳥は迷いなく説明を始めた。影浦の手が途中で止まっても急かされることはなく、やりやすかった。
 お互いに言葉を交わさない沈黙の時間が、不思議と苦痛に感じない。

 シャーペンの音と、外から聞こえる客の声。
 影浦が最後の問題を解き終えると、飛鳥が「お疲れ様!」と笑顔で言った。
 飛鳥はプリントを覗き込み、答えを一つずつ確認すると「うん、合ってるよ」と言ってプリントを返した。その拍子に、彼女の視線がふと部屋の奥へと移った。

「あ! あの漫画……」
「あ? おめーも読んでんのかよ」
「うん、面白いよね。続き読もうとしてまだ買ってないんだけどね」
「……あー、借りてってもいーぜ」
「え、いいの?」

 飛鳥は嬉しそうに本棚の方へと向かって、漫画を手に取った。

「いつの間にか休載してて、それから追えてなかったんだよね」
「そういや、なんかちょいちょい休んでんな」
「だよね。キメラアントとの戦い気になってたの。ありがたく借りていくね」

 宿題が終わって、二人の間の空気はほんの少し柔らかくなっていた。というよりも、今までは影浦が一方的に緊張していただけだ。
 飛鳥が部屋にいるのに慣れたのか、自分の本棚の前に立つ彼女の後ろ姿が驚くほど自然に感じる。母親からの気に入られ方といい、飛鳥は相手の懐にするりと入り込むのがうまい気がする。
 そんなことを考えていると、飛鳥は借りた漫画を丁寧に鞄にしまい、思い出したようにその奥から財布を取り出した。

「ごめん! 宿題の話になってお好み焼きのお代忘れてた!」
「……今さらかよ。つーか、いらねえよ」
「え、でも――」
 
 飛鳥が言い終わる前に、影浦が言葉を遮った。
 
「いいって言ってんだろ。あー、あれだ……」
「え、どれ……?」
「ッだから! 宿題の礼だって言ってんだよ!」
「っふ、ふふ。それならごちそうになろうかな。ありがとう影浦くん」

 屈託のない笑顔を向けられ、視線を合わせるのが気恥ずかしくなった影浦は頭をガシガシと掻きながら目を逸らす。
 
 ――だから、そういう顔すんなっての……。
 飛鳥から伝わるふわふわとした感情が、影浦をくすぐってきて落ち着かない気持ちにさせる。
 
「あ、そろそろ帰らないと」
「……送ってく」
「え、いいよいいよ。これくらいの時間なら平気だし。それより明後日提出の宿題、そっちもやってないでしょ?」

 立ち上がりかけた影浦の動きが『宿題』という響きで止まった。
 明後日の宿題――もちろん、そんなものは存在すら知らなかった。

「つーか、宿題多すぎだろ……」
「だって、もう三年生だもん。ってことで、送るのは本当に大丈夫だから。むしろ宿題の方をお願いします」
「つってもなぁ……」

 影浦は窓の外をチラッと見る。宿題を見てもらったのもあって、日はすっかり落ちている。

「ね、またお好み焼き食べに来ていい?」
「……好きにしろよ」
「やった! 絶対また近いうちに来るね。だから、もし影浦くんの都合がよければ、そのときはお家まで送って欲しいな」

 影浦に送られること自体は嫌ではない、と。その言葉ではっきりと伝わってくる。
 飛鳥が鞄を肩に掛けるのを見て、影浦は先に立って部屋を出た。
 二人で階段を下り、一階の店舗スペースへ戻る。

 夕飯時というのもあり、店内はすっかり賑わっていた。
 鉄板の焼ける音と客の声が重なり、ソースの匂いが漂っている。カウンターの向こうでは、母親が忙しなく動いていた。影浦が軽く声をかけると、母親は一瞬こちらを見て笑う。

「今日はありがとね、雅人の宿題まで見てもらって。また来てね」
「こちらこそ、ごちそうさまでした。またお邪魔しますね」

 飛鳥が丁寧に頭を下げるのを、影浦は横で見ていた。
 母親は満足そうに頷いて、すぐまた仕事へ戻る。
 暖簾をくぐって外へ出ると、夜の空気が肌に触れた。街灯に照らされた空はもう暗く、影浦はなんとはなしにそれを見上げる。

「今日は楽しかった。ありがとう、影浦くん。それに、ごちそうさまです」
「……別に」

 お礼を言うのは宿題を手伝ってもらった影浦の方だというのに、飛鳥は気にした様子もなく笑っている。
 
「一週間、日直お疲れ様。また月曜日にね」

 そう言って、飛鳥は背を向けて歩き出した。
 その後ろ姿を見送り、彼女の背中が遠くなるにつれて、影浦の心にぽっかりと穴が空いたような名残惜しさが燻っていく。まるで、この一週間の柔らかな温もりが急に引いていったような、そんな感覚だ。
 
 飛鳥が道路の角を曲がる直前で、ふと影浦の方へ振り返った。
 影浦がまだ見ているとは思っていなかったのだろう。彼女は、目を丸くさせた後に満面の笑みで大きく手を振った。その笑顔が街灯の光を受けて余計に眩しく見え、影浦は遅れて片手を上げた。
 
 ――また月曜日にね、か。
 月曜日がこんなに待ち遠しいなんて、飛鳥に出会う前は想像すらしたことがなかった。