この日、降谷零は〈安室透〉として喫茶ポアロのカウンターに立っていた。
昼下がりのランチタイムが落ち着いた時間帯。
もう一人の店員の榎本梓は休憩に行っており、今は降谷一人でお店を回している。
降谷の視線の先では、学生服を着た高校生くらいの男女三名がテーブルに座って楽しそうにメニューを見ていた。
「ここのハムサンドが美味しいって有名なのよ」
「へぇー。あ、カラスミパスタうまそう!」
「ハムサンドだっつってんでしょ!」
薄いピンクの髪色をした少年の言葉に、少女が反論する。それに、ツンツンした黒髪の少年がポツリと言葉をこぼした。
「この間、世那さんのお土産で食べただろ」
「はぁ? 伏黒それどういうことよ。私食べてないんだけど!」
「……」
「…………ごじょーせんせいがたべてた」
「お前か虎杖!」
「ちがっ、いや違わないけど! でも五条先生も食べてたから!」
少女が、薄いピンクの髪色をした少年――虎杖の胸ぐらを掴んで揺らしている。
降谷は学生たちのやり取りを楽しそうだなとは思いつつも、だいぶパワー関係がはっきりしているグループだなとも思った。
「あんた今日奢りなさいよね!」
「え、まじで……あ、俺財布ねぇじゃん!」
「はぁー? 何やってんのよアンタ! あ、こんなときに丁度いい人がいるじゃん。虎杖、電話!」
「え、俺がかけんの?」
「当たり前でしょ! 二人で責任を取りなさいよね」
少女に言われ、虎杖が携帯を取り出してどこかへ電話を掛け始めた。
「俺は先に頼んどくぞ」
「伏黒は五条先生に奢ってもらわなくていいわけ?」
「本人いるならまだしも、いないのに呼び出して財布にするのはさすがに後が怖いだろ。面倒なこと言ってきそうで」
「確かに一理あるわ」
「え、もう電話しちゃったんだけど……」
電話が繋がったのか、そのまま虎杖がやり取りをする。
その間の降谷は、伏黒と呼ばれた少年からコーヒーのオーダーを受けて準備をしていた。
オーダーのコーヒーをテーブルに持って行くと、少女の方から「もうすぐ財布が来るから私たちの注文は待って欲しい」と、なんとも返答しにくいことを言われた。高校生くらいの少女に“財布”と言われている人が気の毒だが、先ほどのやり取りからして自業自得の可能性がある。ポアロは後払いのため会計時に間に合えばそれでいいのだが、先に注文をしない辺り律儀な少女なのかもしれない。幸い店内は彼らしかおらず空いているため、「ごゆっくりで大丈夫ですよ」と柔和な笑顔で返しておいた。
オーダーがないため、降谷は皿洗いや在庫のチェックをする。ゆったりとした時間が流れると、降谷の思考はつい事件のことを考えてしまう。
数日前の、杯戸町の杯戸港にある倉庫での変死体事件。
組織内の密売人の情報を掴み、バーボンとして接触し逮捕に向けて動いていた。にもかかわらず、その人は死体となって発見された。しかも呪術師を名乗る人物の介入。犯人を知る彼女らに情報を開示させようとしたが、こちらが捜査停止命令を出された。
到底、納得などできるはずがない。あの後、直接裏理事官に会って説明を求めたが、わかったことは『東京都立呪術高等専門学校』は呪術教育機関であり、任務の斡旋やサポートを行う機関でもあるということ。
――そもそも、呪術とは何なんだ!?
降谷は、表面上は笑顔で喫茶店内の在庫をチェックしているように見せているが、内心は大荒れだった。
呪術師や呪霊についても簡単な説明を受けたが、そんな非科学的なものが実在するはずがない。それを国が認めて公費で運営し、裏理事官までもが信じている口振りに降谷は眩暈がしそうだった。
そんなことを考えていると、ドアベルの音が鳴り響いてハッと我に返った。
「いらっしゃいませ」と声をかけようとしたが、そこから現れた人物に降谷は息を呑む。今、まさに降谷の頭を占め、かつ悩ませている相手だったからだ。
不意の再会に、緊張感が走る。しかし、彼女は降谷の存在に気付いておらず、カツカツとヒール音を鳴らしながら目的のテーブルに向かった。
「ちょっとあんたたち! 私を財布に使うってどういうこと? だいたい何で私なのよ、こういうのは悟でしょ!」
「あれ、世那先生じゃん」
虎杖が手を上げて世那を迎え入れる。
「いや、五条先生に連絡したら何でか世那先生が来たんだよ」
「悟のやつ!」
「何か言われたの?」
「『この間の借りを返したことにしてあげる』って、地図だけ送りつけてきたのよ!」
世那はプリプリした様子を隠しもせずに空いている席――少女の隣に座った。
「『この間の借り』って、何かあったの?」
虎杖の問いに、世那は伏黒のコーヒーを勝手にゴクゴク飲んで一息ついてから答えた。
「任務の後、呪霊の血でビッショリだったから気持ち悪くて悟にヘルプ頼んだのよ。一人で単独行動してたし、伊地知が来るまで時間かかるらしいからさ。だから、あいつの“蒼”で迎えに来させたの」
「五条先生タクシー代わりかよ!」
「五条先生をそんな扱い出来るのって世那先生くらいでしょ」
虎杖はケラケラと笑い、少女は納得顔だ。
「術式の無駄遣い」
「恵、何か言った? まぁ、いいや。私もお腹空いたし何か食べよ。悠仁はどれ頼むの?」
「あ、結局奢ってくれんのね」
「あんたたちに奢るのはいいのよ。悟に言われたのがムカつくだけで」
「じゃあ、俺はカラスミパスタ」
「野薔薇は?」
「私はハムサンドのセット!」
「恵は? 飲み物だけじゃなくて何か食べときなよ」
「……カツカレーで」
「でた米派!」
「そう言う釘崎はパン派でサンドイッチ頼んでんだろ。ってか世那さん任務終わったんすか? 時間かかりそうって聞いてたんで」
「瞬殺。めちゃくちゃ弱かったわ。あれが特級とかないわ」
降谷の視線に気付かずに、世那はころころと表情を変えていた。
『先生』と呼ばれているが、気安い関係なのだろう。事件のときの、あの畏怖さえ感じさせる強烈な存在感は鳴りを潜めている。どちらが本当の彼女なのか――。
当の世那は生徒たちの注文を聞き終え、自分は何にしようかとメニューを眺めている。
「あれ? ここ前に伊地知と来た店じゃん。メニューに見覚えがある」
「え、今気付いたの?」
「虎杖、世那さんを舐めんなよ。この人、いつも伊地知さん頼りだから、来た道も帰る道も覚えない人なんだよ」
「恵。それは舐めてるんじゃなくて、バカにしてんのよ。恵がね」
世那は、伏黒の鼻をつまんで引っ張る。
彼女に怒った様子はなく、むしろ痛がる伏黒の表情を楽しんでいるようだった。
「前に来たときは夜だったし、そもそも周りの建物とか見ないしね。野薔薇に教えてもらってテイクアウトもしたんだけど、食べた?」
「聞いてよ、世那先生! こいつ私の分まで全部食べてんの」
少女――釘崎が、虎杖を指さした。指をさされた虎杖は、“ごめん”と謝罪のポーズをしている。
「え、悠仁足んなかった? ごめん、成長期甘くみてたわ」
「いや、俺は一個食べたし残しとこうと思ったんだけど、五条先生が『遠慮無く食べていいよ! 僕も遠慮なく食べるから』って言うからつい……」
「はぁ? 悟、最低。やっぱ一回シめとかなきゃダメかな」
「やめてください。世那さんと五条先生が戦うと、日本が消えますから」
「そこはほら、一旦みんなには海外に避難してもらってさ」
「……それって、俺たちが帰る日本は残ってます?」
伏黒の問いに、世那はニヤッと口角を上げて笑った。
「新時代が始まってるかもね」
「……はぁ」
「それ、だめなやつじゃん」
「なにそれ、面白そうじゃない!」
三者三様の返答が返ってきたところで、世那が自身の注文を決めたのか店員を呼んだ。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「はい、オムライスと――はぁっ!?」
「こんにちは。また会いましたね、『世那先生』?」
「げっ、あんたこの間の……!」
「前は名乗りもせずに失礼しました。私立探偵をしている
彼女の表情を今日一番に崩せた降谷は、ここ数日のイライラもあり、ほんの少し胸がすく思いだった。