夏の盛りにさしかかった頃のことでした。私はある一人の執事に勧められ、五人の執事を召し抱えて、ククルーの山裾に設えられた避暑のための小さな家でこの二、三日を過ごしていました。
リラの花とオーガンジーの薄幕に囲まれた小さなすずしい部屋の中で、いつも気の利いた受けこたえをしてくれるこのひとと私は、かねてから制作に勤しんでいる未完成のカタログを眺めていました。
彼女は、嫁いだばかりで右も左もわからなかった私に、ゾルディック家にいてできるだけ快適に暮らすため必要なこまごまとした作法を優しく教えてくれました。私はそのひとをよく頼りにして、そして寂しい生活のなかで他の誰よりも無邪気に好いていました。彼女は優しいだけでなく、洗練された趣味と知的な意見を持っていて、私が知らない文化や、街で流行している書籍や洗練された着こなしなどを教えてくれました。また最新の映画やテレビや電脳ネットなどという刺激的なツールに初めて触れさせてくれたのも、そのひとでした。
つまり父の厭世とたった一人の世話係と古典、それのみによって育てられた私にとっては、生まれて初めて出来た、夢のように理想的な友人だったのです。
そんな彼女と私は、私自身の(そして今はゾルディック家のものとなった)巨大な金庫に収められた品々の全てを一緒に数え上げ、また吟味している最中でした。年内に完全なカタログを完成させようと二人で約束していました。それは結婚したときに伝えられた夫の要望つまり婉曲な命令でもありましたから、決まった日に呼ばれる専門家を除いてはほとんど誰の手も入ることなく、また遠慮をするでもなく、堂々と私たち二人きりで進められる計画でした。だからその時も私たちは同じカウチで子どものように向かい合って腰掛け、何気ない冗談にくすくす笑い合いながら、銀食器の章がとりあえずは形になったことを祝っていたところでした。
「お前」
呼び声に振り向くと、いつのまにか薄幕の内にイルミさんが来ていました。はれやかな空色の服を着て、それに似合わず不機嫌そうでした。先ほどまでごく安楽だった空気が一瞬でおぞましいほど凍てつきました。なぜだか分かる?という意味を込めて隣のひとに目配せをすると、彼女はそれを無視して立ち上がり、最敬礼の姿勢をとって言いました。
「どのような処罰も謹んで……」
「下がれ」
イルミさんはいつもの冷めた声で命じました。私はとっさに彼女の名前を呼び、この場に留めようとしましたが、返事などすることもなく姿を消してしまいました。イルミさんは苛立ちもあらわに近づいてきて、テーブルの上に広げられたカタログ用の資料と彼女のいたあとが残るカウチに目をやり、彼のオーラに当てられて動けなくなった私の前にひざまずきました。そして私の片手を大きく勁い自分の両手で包み、首をかしげながらこう言いました。
「あれと何をしてた?」
「……カタログを作っていたんです。あのひとは」
「そう。あれ、はお前の何?」
質問ではなかった。そして私は彼女が自分にとって何なのかとっさに答えられませんでした。嘘をつけばよかったのです。もしとてもうまく嘘をついていれば、また彼女に会えたかもしれない。あの時ほど自分の沈黙を後悔したことはありません。
夫は最初で最後の警告をしたのだと思います。美しい夏の陰が彼の暗い眼に映っている様子がはっきりと見えました。そして彼はこれでわかっただろうとでも言いたげに、少しだけほほえみました。
「お前の側にいていいのは、家族と執事だけだからね」
あのひとが今どうしているか分からないけれど、私はその後もう誰に尋ねても彼女の所在、生死を知ることはありませんでした。
彼女が私の側からいなくなって二年経ちました。今年も夏が来てしまいます。そのたびに初めて友人として愛し、それ以上に憧れた彼女を思い出します。避暑の家にはもう二度と行かないつもりです。
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