奴隷が仕えるべき人となったのは、ある何でもない日のことだった。ここの地下に長く収監されていた人間がいた。執事たちの間では、あれはまだ二十にも届かない女であり、不気味な程の空間を具現化する能力を有していたために、イルミ様が連れ帰ってきたのだという、真偽もうたがわしい情報だけが囁かれた。
もしそのいきさつが真であれば、幽閉され、その能力を一滴の血も残さず干上がるまで利用され尽くすかと思われていた。事実ゾルディック家にはそうした人間が(ご家族のうち一人も含めて)何人か存在していた。しかしその女は前触れもなくイルミ様とご結婚され、私の主人となった。数年前のことだった。ご婚姻の理由は、いわく持ち合わせていた資産があまりにも莫大であり、またその能力がゾルディック家にまつわるありとあらゆる機密を仕舞い込むのに最適だったからだという。
しばらくはごく大人しく無音の日々を過ごしていた厭世的なこの娘は、しかし近頃夫に対して、時に理由なく──私たちがはらはらするほど冷ややかさのこもった表情を見せた。それは夫婦の互いが対等な力を持っている時にだけ許される態度だった。二人はどこか別々の部分で軽蔑し合っているように見えた。おそらくイルミ様は妻の身体の弱さを、ナマエ様は夫の芸術一般──つまりご自分が生まれてから今日まで護ってきた品々に対する不敬、機械的な金勘定やコネクション作りに利用する餌以上の関心を持たない無感動を。しかしイルミ様は当然、ナマエ様のご心情など理解の範疇を超えていると唾棄し、先に述べたように無礼な態度を許さなかった。どちらの立場が上なのか歴然とわからせるために主人が取ったのは、このような方法だった。
「妻としての自覚を持って欲しいんだよね」
「妻というより娼婦では」
我々がいたのは広大なリビングだった。イルミ様とナマエ様は何組も並ぶソファーセットのうち窓に近いところを選んで座り、我々は歩哨のように壁に並んでいた。
「そうでもあるだろ」
わざわざ城下に出向いてまでテイクアウトしたマイブームのミルクシェイクを啜りながら、イルミ様は妻を見やった。ナマエ様の前にも同じものが供されていたが、彼女はそれに口をつけなかった。
「結婚した以上、オレはお前以外とセックスしないんだから。趣向を凝らせば長続きする」
「あなたに趣向なんて、あるものですか」
その声には明らかにラインを超えた軽蔑がこもっていた。そして驚くことにイルミ様は、その言葉を聞くやいなや、どこか力の抜けた動きでソファーセットの向かいに座す妻の顔にミルクシェイクを投げつけた。私を含む執事たちは主人の不機嫌に身を固め、部屋には残響と沈黙が訪れた。
イルミ様は全く平静な表情でナマエ様を眺めた。こちらは衝撃によって声も出ないご様子だ。普段ならすぐさま誰かが拭くものを持ってくるのだが、今この時はイルミ様から命じられない限り誰も動けなかった。それにしてもあのイルミ様にあのような口を利くなんて何と命知らずの人だろう。ナマエ様は、彼がどれほど残酷になれるか知らないのだ。馬鹿馬鹿しいと思った。彼女を拷問部屋にでも連れて行って、三時間ほど締め上げればそこで終わる話なんだ。
しかし考えてみれば、嫁いでからもう二年になるにも関わらず、ナマエ様が平気で夫にあのような態度を取るというのも不可解な話ではある。ここの不自由さに気づき、殺されることでも望んでいるのだろうか。それとも、もしかすればイルミ様は、彼自身ではなくこの一族にとっての必要から娶ることになったこの娘を、相当にやさしく愛でておられるのでは無いだろうか。金籠の中の小鳥のように。もっと洒落た表現を探してもいい。そうだ、言ってみれば、彼女が彼の安息なのではないだろうか?
「わたし……娼婦の手ほどきなんて……」
白濁で髪と顔を濡らしたままナマエ様はうつむいて呟いた。普段はすんなりした花のような顔と、肉欲をそそるには薄過ぎるからだつきの女であるのに、今の彼女は魔的なオーラすら感じさせる。私は僅かに嘆息する。この家に嫁いだ人なのだ。
「決めたことだから。今夜は八時までに北の寝室へ行って。真面目にやってね。教わった技でオレを楽しませてよ」
ナマエ様は黙ったまま立ち上がった。シャワーを浴びにいくのだろう。承知しているとばかりに彼女の世話にあたっている執事が一歩踏み出した瞬間、イルミ様も立ち上がって妻の二の腕を掴んだ。そして拒絶を隠さない彼女を引きずるようにしてリビングを横切り、そのままお二人とも出て行かれた。私たちは一様に気を緩めた。
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