円卓の上に載せられた体を見てナマエはつぶやいた。

「罪悪感はないのですか」

伝書鳩というものを試していた。その存在を知ってはいたものの手懐け方はネットで検索してたまたま見つけたというきっかけもナマエには新鮮で、二ヶ月かけてバルコニーに来る黒い烏を触れさせてくれるまでに調教したのだ。そしてそれが叶う頃、細い脚に手紙をつけて放った。ある種の書籍の真贋を見分ける事で有名な本屋へ、自分の中に収蔵されたものの中から、ひとつ贋物かどうか疑わしい本を送るために。餌とやさしい声を与えられて自分に甘える黒く賢い鳥は愛らしかった。執事には秘密にしてと固く約束していた。


黒曜の円卓の上、暗い血にまみれた白布の上に置かれた烏の死体はひとつの美しい作りもののようで、いつもそこに鎮座している重い生け花よりも軽く、そして花とはかけ離れて痙攣していた。手に懐き名前をつけた鳥の死が、自分に見せつけるためだけにそこへ飾られていることがどうしようもなく苦しかった。
夫がこんなやり方でもって試みを阻止すると思わなかった自らの浅慮を悔いた。失ったことを嘆いた。イルミは、小さく確かに届いた妻の──罪悪感はないのですか──ということばに目を細め、口を開いた。

「ナマエは本当に世間知らず過ぎるね。オレもお前も特殊な育ちの人間だってわかってるから、普段はお前の奇行を大目に見てあげてるつもり。でも今回の行為は到底無視できない。わかる?うん、わかるよね。危険だからだ。お前はそれをわかっていてこいつを手懐けた。だからこれはお前が起こした結果。これはお前が殺した烏。
それに知らないみたいだから教えてあげるけど、この家には善も悪もない。あったとしても善悪なんてオレたちには関係ない。ていうか、それ以前に社会はあらゆる欲望と利権が密に絡み合いながら動いてる生物みたいなものなんだ。オレたちはその中で持てる技能をもって商売してるだけ。この世は全てがあらゆる人間のあらゆる利害で成り立ってるんだよ。それ以外のものは装飾された別の表現にすぎない。愛情以外はね」
「愛情は存在する?」
「もちろん存在する。オレは家族を愛してる」
「……私を愛してる」
「そう。お前を愛してる。わかってるじゃない」

──私をここに迎えたこと自体、打算ではありませんか。打算は私が思う愛のうちには入らない。

そう言いたかったのだけれど、ナマエはただ頷いて床に目を落としただけだった。諦めはやがて人からことばを奪うようになる。イルミは妻の態度に機嫌を直したのか、場を支配していた迫るようなオーラをゆるめた。
そのうち彼女が痙攣をやめた烏を見つめて泣いていることに気づくと、自分より弱いものの世話には慣れていると言わんばかりにそっとソファーへいざない、柔らかいそこへ座らせ、押し黙ったままでいる彼女の髪に長い指をからませて繰り返し梳いてやった。そして静かな唄をうたってやった。それはきっと子守唄なのだろうけれど、深い河の底にあるような長く陰鬱な唄だった。失った烏の濡羽にも似ていた。彼の唄を聴きながらナマエはしゃくりあげ、子供のように泣いた。無音の目つき。声に反応するぎこちないくちばし。手のひらに顔を寄せるしぐさ。少し頑固な性格。この子はどこか夫に似ていると思ったことが数度あった。
いつか夫も失われてしまうだろうか。
一度そう考え始めてしまえば涙は止まらなかった。大切なものや失いたいものなどない遠い国へ独りでどこかに行ってしまいたいと思った。でも自分の意思ではどこにも行けない。ここではいつも理由を求められ、許可を得る必要がある。そして許可されうる理由など、どこにもなかった。殺された烏の命と同じように、無いものは無いのだし、失われたものは戻ってこない。泣き疲れた彼女は夫の胸に寄りかかり、眠りについた。ゆっくりと時間をかけて。どこでもない闇の底へ。

prev list next


return to bookshelf