もし、鏡が割れたなら


 経緯を陸奥守の口から聞いて、圧し掛かる事はしなくなったが、胸元にギュウと抱き着いて離れなくなってしまった肥前の頭を再度撫でる。寝坊し、仕事でトラブルが起きて残業したことで、いつもの時間帯に顔を出せなかった事で、不安を抱かせてしまったらしい。ごめんね、という気持ちを込めて蓬髪を梳くように撫でれば、ぐりぐりと頭を擦りつけられた。ちょっと痛い。

 「ほんで。主が遅うなった理由は何でやか?」
 「急なトラブルで仕事が立て込んでね。さっきまでずっと仕事していたんだ。」
 「朝に来られざった理由は?」
 「…寝坊しまして。」
 「寝坊。」

 何やらやんごとなき事情、やむにやまれぬ事情があったんじゃないか、と心配している陸奥守へは大変申し訳ないのだが、朝に関しては完全に私のやらかしが原因である。キョトン、と固まってしまった陸奥守と、段々と背に回る腕力が強まっていく肥前。陸奥守はともかくとして、肥前のこれは完全に怒っていらっしゃる。ごめんて。今度は謝罪の意味も込めて頭を撫でてみたが、どうやらそんなことでは赦してくれないようだ。
 暫しの沈黙が流れたところで、トーストアラームがチンと小高く鳴った。油揚げと餃子の皮で作ったなんちゃってピザが完成した証である。カップラーメンを食べたとはいえ、物足りなくて用意したそれは、先程から芳ばしいいい匂いを漂わせている事もあり、空腹感を刺激してくる。取り合えず、一旦食べて落ち着きませんか。駄目元の提案は、食いしん坊くんには効果覿面であった。


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 ダイニングテーブルは二人掛けのため、ソファの前のローテーブルを囲うように腰を降ろし、相変わらず距離の近い肥前に可愛さ半分、窮屈さ半分といった気持ちでクッションを勧めれば、何も言わずにギュッとそれを胸元に抱きかかえた。黒猫の顔のクッションだった所為で、可哀想にネコチャンの顔がひしゃげてしまった。
 陸奥守へ柴犬の顔のクッションを手渡せば、不思議そうにそれを受け取り、柴犬の顔をじっと見つめながら、ムニムニと手触りを確かめるように捏ね始めた。リラックスしたネコチャンの踏み踏みみたい、とちょっと癒されつつ、メインディッシュである、おつまみピザをワインと共にテーブルへ並べれば、簡単ながらも美味しい夜食パーティーの始まりである。

 「さっきからえい匂いがする、これは何ぜよ?」
 「油揚げと餃子の皮で作った、お手軽ピザだよ。」
 「ぴざ?」
 「お好み焼きの南蛮風みたいな。」
 「わしも食うてえいがじゃき?」
 「いいよ。ワインも飲む?」
 「飲む!」

 ぱあっと人懐こい笑みを浮かべる陸奥守が可愛い。グラスにワインを注いでやり、何も言わないけど食べる気満々の肥前にも同じくグラスを渡して三人で乾杯。酒はよく飲んでも洋酒の経験はないらしい二口は、恐る恐ると言った様子でワインを傾けていたが、葡萄酒のその味はお眼鏡に適ったようで、口許を緩めていた。陸奥守に至っては、ごくごくと一気飲みするほどに。
 葡萄の甘みと酸味がえい具合に混ざっちゅう。お代わりを注ぐ彼を他所に、餃子の皮で作った明太ソースの乗るピザを一口で頬張った肥前は、パリパリとした食感のそれに驚きつつも好みの味だったようで、早々に二つ目へと手を伸ばしていた。

 「というか、むっちゃんのさっきの話を聞くに、もしかして早くそっちに行かなきゃだった?」
 「……食ってからでも良いだろ。」
 「ほうじゃ、ほうじゃ。こがに美味いもんを前に、先を急ぐ必要はないぜよ。」

 本丸より夜食が勝った瞬間である。大丈夫なのか、と心配になりつつも、そもそも先に食べませんか、と誘ったのは私だ。二口が良いというのだから、いいだろう、と納得して、油揚げの照り焼きピザを頬張ったところで、手元のスマホから通知を知らせるピコンという音が鳴る。ついいつもの癖で、通知欄をタップしたところ、画面が切り替わって真白の中にポンと音を立てるように一匹の狐が姿を現した。ここ数年ですっかり見覚えのある、こんのすけである。
 こんな演出は初めてだな、と首を傾げつつも新たなイベントの通知か何かか、とタップして待っていれば、ボイス設定が無いはずのこんのすけの声がスピーカーから聞こえてきた。あるじさま、と子供のような大人のような、女の子のような男の子のような、不思議な声に呼びかけられる。

 『やや!?あるじさま、いまお召し上がりのそれは、もしや油揚げでは!?』
 「え。あ、はい…?」
 『なんと…っ!こんのすけが、みなさまに締め上げられている時に、あるじさまは一人抜け駆けして油揚げを…!』
 「…えぇ?」

 初めてのボイスだけでも十分に驚いたというのに、なんかこっちの行動を把握しているかのような物言いをしてきたんですが。え、怖すぎ。思わず両サイドに座る二口へ視線を向ければ、同じように画面を覗き込んで、バレてしもうたがや。と呑気に笑っている。もう一口に至っては、興味無さそうに飲食を再開させている。
 私のこの恐怖を分かち合ってくれる人がいない。そっと画面を閉じようかとスライドしてみるも、画面はうんともすんとも動かない。え、バグ?一旦電源を切るべきか、と電源ボタンに指をかけたところで、さめざめと泣く様子を見せていたこんのすけが、スンと居住まいを正して、ところで、と話を切り替えた。え、ウソ泣きだったの今の。

 『あるじさまの濃い霊力を感じ、政府へ事情説明と状況確認を行ってきたのですが、もしやこちら本丸にお越しになられましたか?』
 「あ、はい。えっと、二回ばかり…?」
 『やはりそうでございましたか!そしてお見受けするところ、陸奥守吉行様と、肥前忠広様もご一緒のようですね。一度、本丸へお越しいただけますでしょうか?皆様へ今後の事も含め、お話しさせていただきたく存じます。』
 「はぁ。ご丁寧にどうも…?」

 それって今すぐでしょうか。食べてからでもいいでしょうか、とは聞きづらく、再度二口へ視線を向け、なんか本丸に来いって言ってる、と伝えれば、しゃあねぇな、とピザのお皿とまだ半分ほど残るボトルワインをトレーに乗せて、肥前が立ち上がる。面倒くさいことこの上ない、みたいな態度なんだけど、さっきまでのしょんぼり甘えん坊くんはどこに行ったの。
 早う戻らんと、加州に怒られるぜよ。陸奥守も後に続いたので、私も渋々後を追おうとしたが、ドアに手を掛ける手前でふと思い出す。もしかしなくても私、今とってもすっぴん。ピタッと止まった私に、どういたがや?と首を傾げる陸奥守へ、先へ行ってて、とだけ伝えて踵を返す。洗面所はリビングのドアの向こうだけど、メイク道具は寝室のドレッサーにまとめてあるので問題ない。ついでに部屋着感満載の格好も着替えねば。
 突然踵を返した私に、何か勘違いしたらしい肥前が、引き留めるように腕を掴んでくる。何処に行く気だ、と言わずともわかる眼を向けてくる彼へ、すっぴんだし部屋着だから身形を整えてから行く事を伝えるも、まだ納得しない様子。

 「そう言って、本丸との道を閉じるつもりじゃねぇだろうな。」
 「違うって。」
 「…、」
 「分かったよ。準備するからここで待ってて。ね?」
 「ん。」

 一緒に行くという選択肢以外認めない、とありありと解る態度にこちらが白旗を降れば、満足そうにトレーをテーブルに戻してソファに悠々と腰を降ろす肥前。こじゃんと甘えたになったがや。そう言って肥前の態度に肩を竦める陸奥守も、先に戻る気は更々ないようで、肥前の隣に同じく腰を降ろした。結局どっちもさきに行かないんじゃん、というツッコミは、肥前の、はやくしろ、という催促の前では無に帰したのである。


******

 帰還したこんのすけから事情を聴いた加州清光は、それまでの不安や少しの懐疑心は無くなり、期待の二文字に満ち溢れていた。
 こんのすけ曰く、二日ほど前からこの本丸を形成する審神者の霊力が強くなる現象が起こり、それがまるで審神者が此処にいるような増え方をしたため、こんのすけは担当役員の下へ朝一番に確認しに行ったのだという。政府の方でも改めて調査してもらった結果、こんのすけの感知通り、審神者が来た形跡を示す霊力数値が確認され、もしかしたら審神者が住まう二〇〇〇年代と二二〇〇年代の本丸が何かしらの理由で一時的に繋がった可能性がある事を示唆していた。
 より細かな調査を行ったところ、普段審神者が本丸運営する際に用いる端末から、この数年多量の霊力が注がれた事により、端末を通じて審神者の拠点と本丸に強固な繋がりができ、その結果、時空を超えて道が繋がったのだという事が分かったらしい。前例のない出来事に、担当役員も驚きを隠せない様子だったようだが、加州はじめ、刀剣たちからしてみればこんなに好都合な事は無い。

 「つまり、これからは主や俺達が、主のいる時代と本丸を行き来できるってことだよね?」
 「そういうことになりますね。」
 「…けどよ。あまり同じ時間?時代?に居過ぎたら、例の検非違使とやらが出しゃばって来るんじゃねぇのか?」
 「それについては問題ございません。繋がったも含め、この本丸のあるじさまの霊力に護られております。言うなれば、時空を超えた本丸の離れが新たに創られた、ということですね。」

 こんのすけの説明に、検非違使や歴史修正主義と言った、敵方に所在がバレることを警戒していた薬研藤四郎は、それなら安心だな、と納得した様子で頷く。思えば、この本丸を形作っているのはすべて主である審神者の霊力なのだ。その霊力一つで、敷地を広げる事も、新たに建物を建設する事も出来る。
 現在の本丸は、百口を超える刀剣男士の各個室に加え、十数頭の厩や大きな鍛錬場、そして全員分の毎食を賄えるほどの作物が収穫できるだけの畑が広がるほどの広大な土地だ。それもすべて審神者の霊力によって成り立っているともなれば、時空を超えた離れが出来ても不思議ではないのかもしれない。なんせ、それだけ規格外な霊力の持ち主なのだから。

 「先程、端末を通じてあるじさまにお越しいただくようお願いいたしました。もうしばらくすれば、お姿をみせてくださると思いますよ。」
 「え、今から主が来るの!?やば、こんな格好じゃ嫌われちゃうじゃん!」
 「僕達も着替えないとね。」

 時間も時間という事もあり、みな寝間着などの過ごしやすい格好である。初めて顔合わせする主に対して、だらしない格好は見せられないと、身形を気にする刀たちを中心に、一斉に着替えやら片付けやらの準備が始まった。
 最初は、肥前忠広の夢物語のようなものだと思っていた出来事が、こうして現実味を帯びてきている。この本丸が発足して数年。皆がずっと待ち詫びていた瞬間。夢のような———決して叶う事のない、望んではいけないと思っていた瞬間が、すぐそこにまで迫ってきている。その事実に、初鍛刀の五虎退は、溢れる涙を拭うのに手いっぱいだった。

 「やっと、やっとあるじさまに、あえるんですね…っ!」
 「…ああ。」

 五虎退よりも後とはいえ、同日に顕現された大倶利伽羅もまた、胸の奥に締め付けるように湧き上がってくる激情を堪えるように、そっと涙を拭う五虎退の頭を撫でた。忘れる事のない、始まりの日。確かに持ち主である審神者の霊力を感じて、それに応えるかたちで顕現したはずなのに、眼前どころかこの世界のどこにもその存在がいないのだと突き付けられた時の寂寥は、今でも鮮明にこの身を締め付けてくる。しかし、それでもと、与えられた宿命己の存在意義を果たすべく刀を振るってきた。
 何とか涙を堪えて、迎えるために審神者部屋の前の廊下へと坐る五虎退の隣へと同様に膝を折った大倶利伽羅は、最後まで身形を気にしつつも、この本丸の全刀剣男士の代表ともいえる初期刀として、しっかりと前を見据える加州を盗み見る。五虎退同様、涙を堪えつつも弱みを見せないその横顔をずっと見てきた。それが今、報われようとしている。
 ふと気配を感じ、階段が続く方へと視線を向ければ、この二年程、近侍を務める太刀が大倶利伽羅から少し離れた場所で同様に膝を折った。近侍として出迎えの役を務めながらも、初期刀を始めとした所謂始まりの刀最古参に遠慮するような位置取り。一文字の長を務めるだけの力量を感じさせる姿に、大倶利伽羅も何も言わず視線を眼前の襖へと戻した。
 しばらくして、暗闇と静寂を保ち続けた襖の奥から、柔らかな灯りが廊下を淡く照らし始める。ゆっくりと開いていく襖を見遣り、隣に並び坐る二口合わせるように頭を垂れた大倶利伽羅は、とうとう堪え切れなかった小さな笑みを、その口許に僅かに浮かべるのだった。

 ————短いようで、長かった気もする夜が、ようやく明けるような気がした。