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 速達便で届いた写真を持参して、モストロラウンジへと足を運べば、それまで余裕の笑みを浮かべていたアーシェングロット寮長の顔が驚愕に染まる。やはり彼の中でこの契約は、履行不可能と高を括っていたのだと察せられる。
 いったいどうやって!?上擦った声でのその問いかけには敢えて答えず、これで契約は満了したのだから、即刻オンボロ寮から立ち退き下さい、とだけ伝える。悔し気に下唇を嚙み締めた彼は、それから一呼吸おいて、もう一度、今度は別の契約をしませんか、とユウちゃんへ持ち掛けた。

 「貴女、今回のテスト結果に随分と気落ちされていたとか。どうでしょう。この先すべての科目においてテスト対策ノートをお渡し致します。そしてこのオクタヴィネル寮の一室を卒業期間まで無条件でお貸し致します。代わりにオンボロ寮の利用権を此方に譲って頂きたい。どうです?悪い条件ではないと思いますが。」
 「勉強に関しては自分でどうにかします。オンボロ寮を渡す気はないです。契約はしません。」
 「では、食費を此方で賄う、という条件も付け加えましょう。今回、学園長に随分と無理を押し付けられたようじゃないですか。」
 「契約はしないです。オンボロ寮を返してください。」
 「…どうしても、ですか?」

 頑なに意思を揺るがせないユウちゃんへ、諦めるしかないと判断したのだろう。そうですか、と一言溢したアーシェングロット寮長は、何処かに連絡を取った。会話の内容から現在オンボロ寮にいる寮生へ引き上げ命令を出したらしい。
 一通りの連絡を済ませた彼は、紅茶を一口飲んでから、それにしても、と口を開く。

 「この間のジャックくんと言い、貴方と言い、サバナクロー寮は、随分と監督生さんへ肩入れなさるのですね。」
 「それが何か?」
 「いえ。単純な興味ですよ。無償で手を差し伸べる程の価値が、あるのかとね。」
 「そこに利益しか見出せない貴方には、一生わからない価値だ。わかる必要もない。」
 「おやおや。連れない人ですね。」

 これ以上の長話は無用だと、席を立とうとしたところで、双子の片割れであるジェイド・リーチが入室する。何事かをアーシェングロット寮長へ耳打ちしたかと思えば、おやおやおや、と仰々しいくらいの驚きの反応を見せた彼が、此方へと視線を向けた。
 偶然、博物館へ立ち寄った双子の片割れから連絡が入りまして。何でも集合写真が未だ飾られているというじゃないですか。そうまるで役者のセリフのように宣ったアーシェングロット寮長は、先程提出した写真を破り捨てて不遜な笑みを浮かべる。

 「偽物を用意するとは、随分と姑息な手を使いますね?」
 「偽物?貴方が破り捨てたそれは、正真正銘本物の集合写真ですよ。そもそも、何をもって偽物と判断されたのか、甚だ疑問ですが。」
 「博物館に写真が飾られている事が揺るがぬ証拠です。魔法でも使って合成や複製でもしましたか?」
 「仮にそれが複製だとして、何か問題でも?貴方からの契約条件は、博物館に飾られている集合写真を持参することです。だからその通り持参した。この時点で契約は履行されているはずだ。」
 「偽物を持参して契約履行?可笑しな話です。」
 「確かにあの博物館に飾られているものと、同じ写真ですよ。そこまで疑われるのなら、今現地にいるだろう片割れさんに言って、係員に尋ねると良い。集合写真をナイトレイヴンカレッジに提供したか、とね。」

 スッと目を細めるアーシェングロット寮長と、何処かに連絡を取るリーチ副寮長。電話口は恐らく博物館で待ち伏せしていたのだろう双子の片割れだろう。暫く経て、スマホから手を離したリーチ副寮長は、苦虫を嚙み潰したような顔で、アーシェングロット寮長へと再度報告した。職員から確かな証言が取れた、と。

 「なんですって!?」
 「偽りはないようです。先程の写真は、ナイトレイヴンカレッジ生から依頼を受けて、博物館にて焼き増ししたものであり、正真正銘あの展示されている写真と同じ、との事でした。」
 「そんな…そんな馬鹿な…!」
 「さてここでもう一度契約内容を確認しましょうか。三日以内に珊瑚の海の博物館に展示されている集合写真を持参すること。ええ、契約通り持参しました。既に貴方自身の手で屑塵にしてしまいましたが。契約は満了。此方がこれ以上どうこう言われる筋合いはなく、貴方が契約不履行だと通すのならば、此方も不当契約としてそれなりの対応を取るだけです。」
 「それなり、とは。」
 「オンボロ寮に現在滞在する寮生の強制立ち退き。及び他寮による不当干渉として寮長会議に提訴、学園側にて然るべき対応を取ってもらいます。」
 「そんなことが出来るわけありません。オンボロ寮は既定の七寮ではないのですから。」
 「それでもオンボロです。寮と名乗りそこに寮生が在籍している以上、このナイトレイヴンカレッジに存在する一つの寮だ。当然ながら、各寮に与えられた権利を有している。」
 「く…っ!」

 形勢逆転したつもりでいたのだろう。とことん爪が甘い。魔力を持たない無力な少女を、自分の好きなように扱えると思ったのかどうかは知らないが、自身の力を過信して欲に溺れるような小物にくれてやるものも、負けてやる道理もない。
 ご理解いただけたのなら、さっさと契約完了のサインと契約書の破棄を。これ以上語る事はない、という意図を言外に含ませてそう言えば、俯いたアーシェングロット寮長の肩が僅かに震えだす。

 「…どうして。どうして上手くいかない…っ!僕が愚図で鈍間な蛸だからか…」
 「アズール?」
 「え、アズール先輩、泣いていますか?」
 「あとちょっとだったのに!あのオンボロ寮は、去年からずーっと僕が狙っていた土地なんだ!!あそこにモストロラウンジ二号店を開店させて、より多くの収益を見込める予定だったのにぃ!!」

 僕が愚図で鈍間な蛸だから。だからいつも最後で上手くいかない。みんな僕の事を陰で笑っているんだ。馬鹿にしているんだ。幼子の駄々っ子のように、デスクの上のカップや書類などを床に撒き散らしながら、ワンワンと声を上げて大泣きする姿に、誰も予想がつかなったその姿に一瞬時が止まる。え、これ本気の大泣き?恐る恐るリーチ副寮長に視線を向ければ、彼も予想だにしなかったようで、あんぐりと口を開けて固まっている。
 ああああ、もうやだあああぁぁぁ!!ソファから崩れ落ちたかと思えば、そのまま床に蹲って完全にぐずってしまったアーシェングロット寮長へ、ユウちゃんが慌てて駆け寄りその背を撫でる。努力しても報われない、いつも馬鹿にされる。この写真だって小さい頃の黒歴史だからこの世から抹消したかっただけなのに。ぐずぐず涙と鼻水を溢しながら言葉を重ねるアーシェングロット寮長に、丁寧に相槌を返して話を聞いてやるユウちゃんは正にカウンセラーの如し。

 「この写真、端っこの子がアズール先輩ですよね?どうしてこれが黒歴史なんですか?」
 「…当時のアズールは、今より少しふくよかな体型だったので、それが当人にとって耐えがたい黒歴史だったようなんです。」
 「少しだって!?鈍間なデブだって言えば良いだろ!!お前だってフロイドと一緒に食いでがあるって笑っていたじゃないか!!」
 「アズール先輩は何も恥じる事はありませんよ。海の中は弱肉強食なんでしょう?これは我が子が飢えないよう、ひもじい思いをさせないようにって親御さんの愛の証です。それに今のアズール先輩は、女子の私でも羨ましく思うくらいモデル体型で、綺麗なお肌をされているじゃないですか。それってアズール先輩の並みならぬ努力の賜物でしょう?」
 「…僕が、綺麗…?」
 「とっても素敵です。それに今回の契約に使われたあの虎の巻だって、アズール先輩の努力の結晶そのものじゃないですか。過去百年分のテスト問題を研究して、その虎の巻できちんと勉強すれば、誰だって満点を取る事が出来るなんて代物、他の誰にも作れはしないですよ。」
 「…本当に?僕は、僕は凄いですか?愚図で鈍間な、馬鹿な蛸じゃないですか?」
 「本当です!アズール先輩は、とーっても綺麗で、カッコ良くて、頭も良い、素敵な先輩です!」

 ユウちゃんのカウンセリングよしよしタイムが功を奏したようで、グズグズとまだ鼻を啜りながら目を真っ赤に潤ませてはいるが、一旦癇癪は止まったらしい。リーチ副寮長もホッと一安心したように胸を撫でおろし、ダメになった食器や書類を片付け始めている。
 あのクソ鴉こと学園長に猛獣遣いの才があると、言わしめただけの事はある。過去のトラウマから被害妄想過多に陥っていたアーシェングロット寮長を、あっという間に自己肯定感の高い男へとランクアップさせたのだから。僕は凄い子、と自身に言い聞かせながら、ユウちゃんのベタ褒めの言葉に頬を真っ赤にさせて笑う姿は、稚魚の如し。
 そして早々に金庫から契約書を取り出したアーシェングロット寮長は、ユウちゃんとの契約書だけでなく、今回の騒動の根源である数百名分の契約書も全て白紙に戻した。何でも、誉め殺ししたユウちゃんの、今回の契約でこんな凄い先輩に対して、良からぬ事を企てる輩が出てこないか心配になる、という一言が効いたらしい。狡猾な人魚かと思っていたが、意外と単純な稚魚であった。

 「二号店は難しくても、学園に納金している額を減らしてやれば良いんですよ。交渉のネタ?『異世界から拉致した少女に、生活費を盾に無理難題を押し付けて、都合のいい道具として扱う最低な魔法士』として世に晒してやるとでも言えば良いんです。自分の利ばかり考えるようなダメな大人なんで、すぐに契約更新しますよ!」

 そうアーシェングロット寮長へ笑うユウちゃんの眼は、歴戦の勇者よりも、獰猛な大怪獣よりも恐ろしい眼をしていたが、自己肯定感を爆上げしてくれた聖母ママという目で彼女を見ているバブちゃんが、それに気付く事は無く。隣で静観していたウツボの人魚の片割れだけが、おやおや、と可笑しそうに意味深な笑みを浮かべるだけだった。