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 少々長湯し過ぎた。大分火照っている身体を冷ましながら、軽くスキンケアを行い、髪から垂れる水滴をタオルで拭っているところで、唐突にドアがガチャリと開いたのだ。顔を覗かせたハウルくんが、ギョッと眼を見開いたかと思えば、すまん、と普段の彼に比べ大分大きい声量と共にドアが閉められる。因みに私はバスタオルを持っていたとはいえ、当然ながら全裸。こんなことになるなら、熱冷ましを兼ねてと、全裸でのんびりスキンケアなどせずに、さっさと下着だけでも履いておくべきだった。終わった。そう諦めの感情が浮かびながらも、心の片隅のどこかで、嫌われたくない、と怯え始める自分もいて。ああ、本当に深く入り込みすぎたな、と酷く冷静な自分がそうぼやいた気がした。
 まだ湿り気のある髪をそのままに、急いで衣服を身に着け、騒がしくなり始めた談話室の方へと足を進める。怒鳴りはしないが、少し大きめの声量で相手を叱咤するユウちゃんの声が聞こえる。気落ちしたような、普段よりずっと低い声で唸るハウルくんの声が聞こえる。聞こえてくるのに、何故か一枚隔てたそのドアを開けるのに躊躇してしまった。

 「ふな、リツ…」
 「…グリムくん。」
 「とりあえず、ジャックの事、一発ぶん殴っとくか?」
 「ん?」
 「子分が言っていたんだゾ。誰かが風呂に入っている時に勝手に洗面所に入るのは、赦されざる行いだって。この間勝手に入ってきた学園長に雷が落ちていたからナ。」

 それは彼女が女の子で、学園長が立派なおっさんだからじゃないかな。そう思っても真剣な顔で、子分に頼めばジャックを押さえつけてくれると思うゾ、なんていうグリムくんに、自然と張りつめていた力がフッと抜け落ちた。何処かズレた話を始めるこの子が、可笑しくて、必死に取り繕うと、言い訳を無意識に考えていた自分が滑稽で。ただ、笑えてきた。
 あんなに躊躇していたドアをあっさりと開ける事が出来て、振り返ったユウちゃんは、慌てた様子で此方に駆け寄って謝罪してくるし、正座させられていたのだろう、ハウルくんは顔面蒼白の顔で俯いていた。

 「ごめんね、りっちゃん。私がちゃんと止められなかったせいで…!」
 「いいよ。まあ、遅かれ早かれ、その時が来るかもしれない事は、分かっていたさ。」
 「ジャックの事ぶん殴るなら、今のうちなんだゾ!」
 「はは。殴らないよ。大丈夫。」
 「でも…」

 未だ俯いたまま、一向に顔を上げようとしないハウルくんの正面にしゃがみ込み、顔を覗き込むように上体を倒す。これで彼が拒絶の色を見せていたら、ユウちゃんの言葉に甘えてオンボロ寮に転寮でもしようかな。しかし、覗き込んだ先にあった彼の顔は、拒絶でも嫌悪でもなく、絶望のそれに近かった。この顔色は、なんと表現するのが正しいのだろう。
 すまねぇ、とポツリと溢された謝罪に、いいよ、とだけ返してジッと白灰色の旋毛を見つめる。顔色から彼の感情を察する事が出来なかったから、大人しく彼の言葉を待つしかないと思ったのだ。続く言葉次第で、今後の対応を決めようと。

 「…その、すげぇ失礼な事を聞くが…リツも、女、だったのか…?」
 「…その問いかけは難しいな。イエスでもなく、ノーでもない。」
 「それ、は。」
 「君もさっき見ただろう。私の身体はどっちつかずの中途半端なんだ。男だと言われれば男かもしれないし、女だと言われたら女かもしれない。私自身、答えが分からない。」
 「…、」
 「まあ、君が気味悪いと思うのなら、」
 「それは絶対にねぇ!!」

 転寮は直ぐに無理でも、部屋替えくらいは出来るだろうから、と続けようとした言葉は、ハウルくんの大きな否定の言葉に遮られる。誰にも見せたくなかったんだろうモンを、俺の不注意と配慮が足らなかったせいで見ちまった事に対して、文句を言われるのも、グリムのいう通り一発と言わず、気のすむまでぶん殴られても仕方がねぇと思う。だが、だからと言ってお前の事を気味悪がるとか、それを理由に距離を置こうとか、そんな気持ちは一切ない。そう言い切った彼は、先程までの顔面蒼白や俯いていた様子とは一変して、真っすぐ真剣に此方を射抜いていた。
 なら、そんな風に絶望しないでおくれよ。自然と彼の方へと手を伸ばし、乱れていた前髪を手櫛で整える。君が気持ち悪いと、君が悪いと———化け物だと、そう思わないでいてくれるのならば。もうそれで十分だ。それ以上の謝罪も後悔も、何もいらない。

 「けど、見られたくなかったんだろ?サバナクロー寮の風呂に入らなかったのも、それが理由、だろ。それなのにあっさり俺を赦すのか。」
 「見られたくなかったのは、君に、君達に拒絶されるのが嫌だったから。情けないことにね。それだけ、此処が、君達が、大事になっている。」
 「そ、うか…お前が良いなら、いい。」

 言外に好ましく思っているという意味で伝えた言葉は、的確に彼に届いているようで、不器用でツンデレ気質のある彼には少々気恥ずかしかったのか、あれだけ真剣に此方を射抜いていた視線は、行き場を無くしたようにしどろもどろに彷徨い始める。
 りっちゃんが赦しても、私はめちゃくちゃ腹が立ったから、とりあえず一発ね。傍でずっと待ってくれていたユウちゃんは、話が済んだと察するや否や、どこから取り出したのか、分厚い魔法士の参考書を掲げて、ゴツン、とハウルくんの脳天に一発振り下ろした。女の子の力とは言え、分厚さ故に強度が増した参考書が振り下ろされたとなれば、それなりに痛いだろう。現にハウルくんは頭を抱えて蹲っている。
 スッキリした面持ちのユウちゃんが、仲直りのしるしにみんなでアイス食べよ〜、とさっきまでの剣呑さは鳴りを潜めて、グリムくんと共にキッチンへとパタパタと駆けていった。いつの世も、どこの世界でも女性とは強い生き物なんだな、と悟る。

 「…大丈夫かい?」
 「正直めちゃくちゃ痛ぇが、当然の罰だからな…」
 「ハウルくんは真面目だね。」
 「ジャック。」
 「うん?」
 「前から思っていた。ダチなら、いつまでもファミリーネームじゃなくて、ファーストネームで呼べよ。」
 「…うん。改めてよろしく。ジャックくん。」
 「…おう。」

 気恥ずかしそうに、だけど、どこか嬉しそうに。尻尾を揺らめかせる彼に、初めて私は、この世界に生きる事を認められたような心地を覚えた。


******


 ハウルくん改めジャックくんに、この身体の事がバレてから数日。何というか、彼の過保護に拍車が掛かったような気がする。これまでも何かと協力的だったし、友好的だったし、ご飯に至っては、どこからともなく嗅ぎ付けてきていたが、最近は此処に周囲への静かな牽制やら、やたらと私が一人になる事を嫌がるというか。いやプライベートにずかずかと土足で踏み込んでくるわけではないのだが、何というべきか。そしてそんな彼の変化を察しているのは、私だけではない。何かと察しの良いキングスカラー寮長とブッチ先輩が、何とも言えない顔で此方を見てくるのだ。その感情は何だ。
 そしてユウちゃんを除くマブ———特にトラッポラくんとフェルミエくんも、何とも言えない生温い視線を寄越してくるのである。トラッポラくんに至っては、マジか、とこの間呟きを溢していた。何がだ。

 「最近、随分とジャックと仲が良いんだな。」
 「そうかな。」
 「…いつの間にか、ファーストネームで呼んでいるのが証拠だろう。」
 「うーん、まあ、そっちが良いと言われたから。」

 次の授業の教室へと移動する最中。隣を歩くジグボルトくんが唐突に口を開いたかと思えば、不満そうに口をへの字に曲げた後、ふい、と視線を逸らして黙り込んでしまった。何か気に障る事でも言ったのか。しかし、その考えは後に続いた、彼にしては珍しいくらいに小声の呟きに、思わず破顔することになる。
 僕だってファーストネームが良いし、仲の良い友人ではないのか。要は彼は、先を越されたジャックくんに対して不貞腐れていたようだ。此処でからかっては、ジャックくんと違うベクトルでツンデレ気質な彼は、臍を曲げて取り合ってくれなくなるだろうから。茶々を淹れることなく、それもそうだね。セベクくん、とだけ返した。途端に眼を見開いて此方を見遣る彼へ、ん?と言葉を待てば、わざとらしい咳払いと共に、何でもない、と返ってくる。

 「それよりも!次の錬金術だが、パートナーが決まっていないのならば、僕が組んでやっても構わないぞ。」
 「それは有難い。ぜひお願いするよ。」
 「言っておくが、足を引っ張るんじゃないぞ!」
 「予習はしたつもり。でも頼りにしているよ。セベクくん。」
 「う、うむ…まあ、教えてやらんことも、ない。」

 不遜な物言いはそのままなのに、耳まで赤くなった顔では、威力も半減どころかなしのつぶてだ。意外と可愛らしい一面が多いクラスメイトにバレぬよう、こっそりと笑いを溢して、準備室へと足を速める彼の後を追う。のんびりしていたら着替える時間が無くなってしまうから、という言い訳には、敢えてツッコミを入れてやらずに頷いた。