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 久し振りに先輩(推定)に絡まれた。治安が世紀末と名高いサバナクロー寮であるが、マジフトの一件や何かとキングスカラー寮長に可愛がって貰っている事もあり、寮内で私とジャックくんは、割と不可侵というか、余程のことがない限り絡みに行くのは馬鹿の所業、という暗黙の了解が広まっていたのだ。寮長に可愛がられている、というのは、個人的に少し語弊があるというか、腑に落ちないところもあったが、絡まれない事は楽で良かったため、特に訂正することも無く悠々自適に過ごしていた。それがいけなかったのかもしれない。
 最近、目に見えて調子に乗っていやがる。いい加減立場ってモノを理解しろ。そんな罵詈雑言を吐き立てる二年だか三年だかの先輩達へ一度視線を送り、そして小さく溜息を一つ。こちらからアクションを取る気はない。こういった小物は、相手をしてやればやる程、リアクションを見せる程、更にヒートアップする生き物だから。

 「テメェ聞いてんのか!」
 「何ですか。」
 「いい加減、寮長の周辺を彷徨くのを止めろって言ってんだよ!一年坊主の癖に、寮長に集ってんじゃねぇ!!」
 「別に所用が無い限り近付いていないです。」

 会話内容からも分かるように、どうやら彼等は一年生の分際で寮長に可愛がられている事が面白くないらしい。しかし彼等が文句を垂れるような、媚びを売るだの集るだのは全くしていないため、近付くなと牙を剥き出しで唸られたところでどうしようも無い。そんなに気に食わないなら、キングスカラー寮長の方を抑えるなりすればいい。事実をそのままに話したら、唯でさえ堪え性のない連中がとうとう実力行使に出てきた。
 胸倉を掴んでくる一人の腕を振り払い、拳を振り被る一人から避けるように数歩後退する。背中にヒヤリとした感触を覚え、視線だけ少し背後へ向ければ、廊下に掛けられている姿見がそこにあった。追い詰めたのだと思ったのだろう連中は、勝ち誇ったような笑みをニタニタと浮かべながら、威嚇する目的か、関節を鳴らしながら距離を詰めてくる。
 クソ生意気な後輩には、先輩がキチンと指導してやらねぇとな、とまた拳を振り被る一人を見遣り、適当に捌こうとしたところで、背後の鏡が突然眩く発光し始めた。いつの間にか増えた、傍観はしても助太刀も協力もしないギャラリーも驚きの声を上げ始める。
 私自身も何が起こったのか理解出来なかった。ただ、自分の背後にあった鏡が突然発光したかと思えば、眩んだ視界に見覚えのある腕が映り込んでいたのだ。え、と思わず声を上げたのは仕方ないだろう。私に振り下ろされるはずだった相手の拳を受け止めるそのグローブも、鏡から伸びるその腕のジャケットも、すべて。

 「…スモーカーさん…?」
 「—————リツ。」

 確かに、声が聞こえた。鏡の向こうから、ここ数か月全く聞く機会が無かったが、それでも記憶の奥深くに根深く残り続けてきた低いバリトンボイス。聞き間違いかと思ったが、対面に立つ連中が、先程の威勢は何所へ遣ったと、突然鏡から生えてきた腕に狼狽して悲鳴を上げているから、これが私の妄想でも夢物語でもない事を如実に語っている。
 周囲のざわめきに異常事態と判断したらしいキングスカラー寮長が、気怠そうにブッチ先輩を引き連れ、周囲のギャラリーをかき分けてきた。何の騒ぎだ、という彼の呟きは、しかし中途半端に音が途切れる。ブッチ先輩の、え?腕?という呟きが代わりに聞こえ、そちらへ視線を向ければ、二人とも驚いたように眼を見開いて固まっていた。

 「リツ、そいつは…なんだ?」
 「う、うで…?え、鏡から?何で???」
 「…とにかく、こっちに来い。」

 白く輝く鏡から生える一対の腕。拳を受け止められた一人は既にパニック状態に陥ってる。放せ、と彼が必死に藻掻くもガッシリと掴んだそのグローブが緩まる事は無い。対して驚愕の色を見せつつも、努めて冷静に状況を判断したキングスカラー寮長が、マジカルペンを構えながら、ゆっくりと私へ手を差し伸べてくる。下手に腕を刺激しないよう、慎重な動作に、自然と彼の下へ歩み寄ろうと一歩、足を踏み出した瞬間。

 「いだっ!」
 「リツ!!」

 ぐっ、と息が詰まる心地と、それまで絡んできた先輩(推定)の拳を握り絞めていた一対の腕が、逃す事を赦さないと言わんばかりに、私をホールドして鏡の前に縫い付けてくる。ガン、と後頭部がガラスにぶつかって痛い。強い光の所為で見えなかったが、腕が生えている以外は通常の鏡と変わらないようだ。
 人質とも取れるような囚われ方をしてしまったため、此方に歩み寄っていたキングスカラー寮長も足を止めざるを得なくなり、鋭く私を捉える腕を睨み付けている。マジカルペンが僅かに光り出しているから、何かしらの魔法を使おうとしているのかもしれない。今更の疑問だが、悪魔の実の能力者に、この世界の魔法は有効なのだろうか。
 拳が解放されて一目散に逃げ出そうとする連中を抑えたブッチ先輩が、事情を確認するも、パニック状態の彼等の発言は支離滅裂で的を得ない。致し方なく、近くのギャラリーへ確認を取った彼は、しかし誰もがいきなり鏡が光ったと思えば腕が生えてきたのだ、としか答えようが無かったため、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。

 「リツ、抜け出せそうか。」
 「出来なくはない、ですが。少し気になる点があって…」
 「何だ。」
 「…この腕、知り合いかもしれないです。」
 「は?」

 予想だにしない私の返答に、ポカンと固まるキングスカラー寮長を置いて、自由な右手で私の腰に回っている左腕をそっと撫ぜれば、反応が返ってくるように少し力が強まる。最初の呼びかけ以来、声は全く聞こえなくなったが、どうやって意思疎通を図るべきか。試しに魔法で生み出した紙に簡易的なお手紙を書いて、暫定:上司の右手に握らせる。グシャ、と握り潰さん勢いでぐしゃぐしゃになってしまったが、メモだと向こうも判断したのだろう。腰に回る左腕はそのままだが、右腕が鏡の向こうへと引っ込んでいった。
 今がチャンスだとマジカルペンを構え直したキングスカラー寮長へ、一旦ストップを掛けて向こう側の反応を伺う。因みに書いたお手紙は『もしかして:上司スモーカーさん』である。暫く待機してみると、再び右腕が鏡を突き抜けて生えてきた。その手にはしっかりメモが握られている。拝借して二つ折りのそれを開いてみれば『テメェ今どこにいやがる。』の一文。此方の質問に対してまず答えてくれよ、と思わなくも無いが、この自分勝手さと筆圧の強い字体、間違いない。暫定:上司もしかしてスモーカーさんではなく、確定:上司確実にスモーカーさんである。

 「…キングスカラー寮長。」
 「ア?」
 「この腕、私の上司です。」
 「…は?」

 我等が寮長が、二度目のスペースキャットになった瞬間だった。


******


 どういう事だいっぱい説明しろ。そんな副音声が聞こえる仁王立ちで、此方を見下ろしてくるキングスカラー寮長からそっと視線を外す。そんなの私がいっぱい知りたい。
 あの後、スペースキャット状態のキングスカラー寮長を置いて、幾つかの文通を交わした結果が以下の通りであった。

 『腕だけ生えている状態ですが、他は来れないんですか。』
 『無理だ。テメェがさっさとこっちに戻って来い。』
 『生憎と私も通れません。強かにガラスに打ち付けた後頭部が痛いです。』
 『大体テメェ今どこに居やがる。』
 『愛と夢と魔法のちょっと捻じれたワンダーランドとしか。』
 『馬鹿にしてんのか。』 

 因みに此方の魔法が悪魔の実の能力者に有効かどうかの実験は、お誂え向きに私をがっちりホールドする左腕があったので、胸元からマジカルペンを取り出しそっと一振りしてみた。効果としては、対象となる場所が羽で擽られたようなこそばゆさを感じるもの。結果として驚いたようにビクッと反応した腕がホールドを解いたので、効果は絶大であったらしい。成程、魔法は自然系ロギアにも有効、と。
 最後のメモに『まだちょっと不確定要素強いんでまた今度。』と書いて握らせたところで鏡から数歩離れた途端、そろそろ目がおかしくなるのでは、というレベルで発光していた鏡が、途端に見慣れた通常モードへと戻った。数十秒間待ってみたが、その状態の鏡から彼の腕が生えてくる事は無かった。
 試しに私がそっと鏡に触れてみたところ、またパアッと輝き出したので、腕が再度こんにちはしてくる前に即座に手を離した。スンと静かになる鏡。どよめき立つ周囲。背後から突き刺さる怒気交じりの鋭い視線。そうして冒頭に戻る。

 「理由は不明ですが、この鏡がほんの少しだけ、私の元の世界に通じているようです。」
 「何でだ。」
 「最初に理由は不明ですが、と言いました。」
 「…ラギー。クロウリーを呼べ。あとあの草食動物もだ。」
 「ッス。」

 頭痛が痛いというような顔で眉間を揉み解しながら、大きな溜息を溢すキングスカラー寮長の指示に、ブッチ先輩が即座に反応する。未だ理解が及んでいない周囲は、キングスカラー寮長の、寮生は全員自室待機だ、という命令で渋々ながら解散していった。
 そのギャラリーの中で、ポツンと立ち尽くして動かない者が一名。何となしに其方へ視線を向ければ、感情のすべてを削ぎ落したような、何処を見ているのかイマイチ分からない顔で立ち尽くすジャックくんがいた。

 「ジャックくん?」
 「…帰るのか。」
 「いや、それはまだ分からないけど…」
 「俺を、置いていくのか。」
 「ん?」
 「…、」

 ボソッと溢された呟きが、何となく不穏な気配を漂わせていたような気がしなくも無かったが、スルーの方向で宜しいだろうか。キュッと瞳孔を細めてジャックくんを睨み付けるキングスカラー寮長の視線を背後に感じつつ、宜しくないんだろうな、と私も思わず真顔で遠い眼になってしまった。