ボクの家族が可笑しくなったのはボクが五歳になった頃のことだった。その引き金を引いたのは間違いなくスピネルが誘拐されたことだった。母さんはボクのことも勿論愛してくれてはいたけれどスピネルのことも大層可愛がっていたから、スピネルが誘拐されたと知ると母親は家の中に閉じこもった。自分が目を離した隙に攫われたことも母さんを酷く追い詰めたのかもしれない。やがて母さんは家事も何もかもを放り出してスピネルが大好きだった幼児向けアニメを何度も何度もビデオが擦り切れるまで再生して、譫言のようにスピネルを呼ぶことしかしなくなった。父さんはそんな母さんに嫌気がさしたのか、気がついたときには見知らぬ女の人と家を出て行ってしまった。
 残されたボクは母さんのように狂うことも出来ず、父さんのように現状から逃げ出すことも出来ず、少しでも家から離れられるように段々外に出かけるようになった。狂ったようにスピネルだけを呼び続ける母さんのそばにいたら、ボクがボクでなくなるような気がしていたからだ。
 近所の少し年の離れたおねえちゃんと遊ぶことだけが、ボクがボクでいられる時間だった。そのおねえちゃんは、真っ直ぐボクを見てくれるから。ボクの本当の名前を、ボクをパープルと、呼んでくれたから。
 しかし、母さんはそれを許さなかった。母さんは家に帰ってきたボクの格好を見ると喚きだす。意味の分からない言語を捨てるように吐くと、ボクの髪を毟るように掴んで、ボクが身に着けていた服全てをボクから引き剥がす。
 そして母さんはボクにスピネルに着せていたような服を着せると満足気な笑みを浮かべる。一連の行動を終えた母さんが呼ぶのは、決まってスピネルだった。

 ボクはパープルだよ、母さん。




「ここがクチバシティか……」

 ブルーと別れてから数日経って、ボクはようやく目的地であるクチバシティへと到着した。船着き場があるからか、町からは活気づいた印象を受ける。今日はとてもいい天気だし、こんな日に海がある町に来れたのは幸運に違いないとボールから出したカメカメを抱っこしながら考える。

「うわ……大きな船だなあ」

 そうして呑気だなあと自分に自分で呆れつつも、観光気分で港近くの道を歩いていると、視界に入ってきたのはとても大きな船だった。サントアンヌ号というらしいその船には、大きな荷物を抱えた船乗りさんが出入りしているのが分かる。

「あんなに大きな船で何を運ぶんだろうなあ……って、うわ!?」

 突然腕の中にいたカメカメが大きく揺れる。ふさふさの尻尾がべちんと強くボクの腕を叩き、痛みに顔を顰めた瞬間、カメカメが腕の中からまるですり抜けるようにいなくなるのを感覚が捉えた。あ、と口が動く。待って、そう言いたかったのに、けれども、それからは一瞬だった。ボクのことなど目もくれず、カメカメが目にもとまらぬ速さで海に向かって飛び込んだのだ。
 
「待って、カメカメ!」

 咄嗟にしゃがみ込み、海に向かって大声で声を放つが、返事はない。聞こえてくるのは町の喧騒と、船の音だけで、カメカメの声はさっぱりだ。全身から力が抜けていくのが分かった。どうしよう。その言葉だけが頭の中を駆け巡る。どうしよう。いなくなってしまった。何処かへ行ってしまった。ボクを置いて。
 六年前、ボクの知らないところでいなくなったスピネルを思い出して、指先から凍り付いたような感覚に陥る。カメカメは、もう。スピネルと同じように、帰ってこないんじゃないか、なんて。

「──おい、パープル!」
「っ!」

 頭が恐怖に埋め尽くされ、完全に混乱しきる直前だった。肩が鋭い痛みを訴え、耳元で大きな声で名前を呼ばれたのは。

「レッ、ド……?」
「ど、どうしたんだよ、そんな青い顔して!」

 突如視界に飛び込んできた赤。それは見知った顔で、そのことにボクは一瞬安心しかけるが、しかし、腕の中にカメカメのぬくもりがないことに体が震える。どうしよう。どうしたらいい。カメカメは帰ってくるの。どこにいったの。どうしてボクは目を放したの。どうして油断したの。

「ど、どうしよう……ボクは、どうしたらいい?ねえ、ボクは……」
「っ、落ち着けって、なあ、パープル!」
「だって、カメカメが……!ぼ、ボクが、ボクがしっかり見ておかなかったから……!どうしよう、ボクのせいだ、どなんで、どうしてボクは……!」
「落ち着け、落ち着けってば、このっ……パープル!」

 乾いた音がして、じんじんと頬が熱を持つ。叩かれたのだ、そのことを理解すると同時に、ぼろりと涙が零れたのが分かった。レッドがそんなボクの姿にぎょっと目を見開き、慌てだす。「そんなに痛かったか!?」とか「やっぱり顔は不味かったよな……ゴメン!」とか。そのあまりの慌てっぷりにすっと頭が冷えていく。

「……ありがとう、レッド」
「え?!あ、ありがとう!?」
「うん。ボクちょっと、気が動転しててさ……目が覚めたよ」

 未だ零れ出る涙を洋服の裾でぐっと乱暴に拭う。それからボクはまだ慌てた様子のレッドを宥め、「話を聞いてくれるかな?」と告げた。レッドは忙しなく動かしていた視線と両の手をぴたりと止め、ボクの瞳をじっと見つめ返すと、そろそろと手を下ろし、こくんと一つ頷く。ボクはレッドのこういうところが好きだな、と場違いにも考えたりしたのだった。



「そっか、カメカメが……」
「……うん。突然のことでボクも吃驚しちゃってさ……」
「パープルは悪くない。でも、もしかしたらカメカメにもなにか事情があったのかもしれないな」
「事情……?」

 レッドには申し訳ないけれど、ボクとカメカメはこの町についたばかりだ。まだこの町の誰とも関わってないし、カメカメがボクの腕から抜け出してまで興味を示す何かにもボクにはさっぱり見当がつかなかった。そうして二人で頭を小突き合わせていると、一つ気がつくことがあった。それは別にカメカメのことではなく、目の前でボクと同じように悩んでくれているレッドのことだった。

「あ……レッド」
「ん?」
「レッドも何か用事があったんじゃないの?縋り付いたボクが言うのもなんだけどさ……」
「あ、ああ!こんなときで悪いんだけど、パープルはあの船──サントアンヌ号についてなにか知らないか?」
「サントアンヌ号について……?ごめん、ボクはたった今クチバシティについたばっかりなんだ……」
「そっか……」

 ボクの唐突の言葉に、レッドは思い出した、と言わんばかりに表情を変える。それからサントアンヌ号について尋ねてくるものだから、今の状況を忘れて思わず首を傾げてしまった。話を詳しく聞いてみれば、どうもあの船は怪しいらしい。どう怪しいのかと問えば、どうも大量のポケモンを乗せているかもしれないらしいのだ。

「そ、それはいけないよ!今すぐ行って、レッド!」
「で、でも、カメカメだって……」
「カメカメはボクが自分で探すから……!レッドは早く、ポケモンたちを助けてあげて!」

 レッドは迷うように視線をうろつかせ、それから力強く頷いた。そして、海からこっそりと船に侵入するつもりだから、ボクのことも海に安全にいれてくれると提案してくれる。潜ることは出来ないが、フシギダネを海上に残していくつもりなのでそのまま海に向かって声をかけ続けるのはどうか、と。ボクはありがたいその提案に頷き、二人で海へと飛び込むのだった。

20180111
20200103//修正