ブルーとオーキド博士の試合は博士の勝利で幕を閉じた。
 泣きはらして赤い目を恥じるブルーを控室に送る道すがら、博士が棄権したこととレッドとグリーンの試合が事実上の決勝戦に変わったことを知らせる放送が会場に響き渡った。

「……念願のライバル対決ね」
「最高の舞台で叶ってよかったよ」

 ようやく辿り着いた控室の扉を開き、パイプ椅子にブルーを座らせる。同じように椅子に座り、うちわを扇いでいるオーキド博士は楽しそうに笑った。

「あの二人はずっと競い合っていたからのお」
「博士はやっぱり、グリーンを応援してるんですか?」
「さてなあ」
「教えてくれないんですか?」

 ガハハと楽しそうに博士は笑う。その間ブルーはずっと手の中にあるポケモン図鑑を眺めていた。その横顔は初めてできた宝物を眺める幼い子供のようで、ついつい笑みがこぼれる。

「……なによぉ」
「なんでもないよ?」

 その視線に気が付いたブルーが、唇を尖らせてボクを睨む。背負ってきた境遇のせいでどこか大人びた雰囲気のある彼女の年相応の表情や仕草が可愛らしくて、ボクはまた込み上げてくる笑いをなんとか誤魔化そうと口元を手で覆い隠す。
 博士はそんなボクたちを、楽しそうに見守っていた。

「それじゃあボクはそろそろレッドとグリーンの応援に行きますね」

 ブルーの視線から逃れるように、ドアノブに手をかける。しかし、ボクが力を込めるよりも先に、けたたましい音を立てて扉が開いた。
 吃驚して開いた扉の先を見つめれば、そこに立つ人物を認識した瞬間ボクの喉から「あ、」と追い詰められたような声が出る。

「かあ、さん……?」
「え……?」
「スピネル!」

 困惑したブルーの声を掻き消す、母さんの怒声。家出する前と同じようにスピネルの名前を呼んだ母さんは、ずかずかと控室に踏み込んできたかと思うと、ボクの腕を掴んだ。

「痛い!やめてよ、母さん!」

 母さんの爪がボクの腕に食い込む。しかし興奮しきった母さんの耳にボクの声は届かない。ただ、どうしてこんなところに、その格好はなに?どうして母さんなんて呼ぶの、とボクを責め続ける言葉だけがボクを突き刺す。

「スピネル、帰るわよ!」
「い……いやだ!帰りたくない!家には帰らない!」
「どうして我儘ばかり言うの!!」

 呆然とした様子のブルーと博士を気にする素振りをみせず、母さんは絶叫を上げる。「目を放すんじゃなかった!!」「外は危ないって言ってるでしょ!!!!」と、ボクの向こう側にスピネルの姿を見て、腕を掴む手にさらに力を込めた。

「パープル!」

 ついにパイプ椅子から立ち上がったブルーと博士が強引に母さんとボクの間に割入り、母さんの手はボクの腕から離れた。細い指の跡と血が流れる腕を見て、ブルーが顔を曇らせる。そしてその唇が、アタシのせいで、と呟いたのをボクはハッキリと見た。

「……キミのせいじゃ、ない」
「でも、パープル……、」
「前にも、言ったよね。悪いのは……キミを誘拐した人だって」

 痛む腕を押さえながら、ボクはもう一度彼女にそう伝える。そして現実から逃れたい気持ちを抑え付けて、博士に取り押さえられている母さんをじっと見た。
 額に嫌な汗が流れる。六年の間、何度もボクを引き裂いたボクを否定する言葉が母さんの口から絶えず飛び出していて、自分が誰なのか見失ってしまいそうになる。けれど、ボクを心配そうに見つめるブルーの瞳が、ボールの中から今にも飛び出してきそうなほど怒るボクの仲間たちが、ボクはパープルなのだと繋ぎ止めてくれた。

「母さん、ボクは、パープルだよ。スピネルは、ボクの妹だ。……6年前、誘拐されたんだよ。ここには、いないんだよ」

 長い間喉にはりついていた言葉を、ボクは一気に引き剥がす。ボクはパープルであると主張することさえ諦めていた日々を踏み越えて、母さんに訴えかける。

「ボクは、男だよ。ボクもレッドやグリーンみたいにズボンを履いて、短い髪でそこら中を走り回りたい。ねえ、母さん……ちゃんと、ボクを見てよ……」

 声は、震えていた。それでも、ボクはボクとして生きたかった。望まぬ姿を強いられるのは嫌だった。鏡に映る自分の姿を見ることができなくなっていった。ボクが母さんの望みで塗り潰されると、いなくなったスピネルの帰ってくる場所をボクが奪っているようで怖かった。

「スピネルは、ボクが見つける。きっと帰ってくる。だから、ちゃんとボクを見て、ボクを認めて……ねえ、母さん」
「貴方はスピネル!!!!そうでしょう!?!?」

 ボクの必死の懇願を、母さんの怒声が引き裂いた。その瞬間、訳も分からぬまま女物の服を着ることを初めて強いられた日を、ボクの意思に反して伸び続ける髪を勝手に切り落とそうとした日を、ボクは思い出していた。母さんは何も変わらない。暗い穴の中に突き落とされたような気がした。絶望からか、無力感からか。視界がぐらぐらと歪んで、瞬きと同時に雫が零れ落ちた。

「待って!アタシが悪いの!!スピネルは……アタシのせいで、一緒に連れていかれたの!!」
「は……ち、違う!キミのせいじゃない!」

 それまで呆然とボクと母さんのやり取りを見つめていたブルーが、突然声をあげた。母さんの視線がブルーに向かい、大きく見開かれる。唇がわなわなと震えて、博士に羽交い絞めにされながら腕がぴくりと動く。それは今にもブルーに掴みかかろうとしているように見えて、咄嗟にブルーを母さんから隠すように背に庇う。

「あ、アタシが手を離せなくて、スピネルは……っ」
「もう、いいだろう」

 自身の罪を神に告白するように叫ぶブルーを、博士が制した。「貴方が、貴方が、スピネル、貴方が、」と壊れた機械のように呟き続ける母さんを押さえながら、「この場の誰のせいでもない、」と。オーキド博士は、告げる。
 ブルーの罪を赦すように。ボクの存在を認めるように。母さんを宥めるように。

「パープル。キミのお母さんは、」
「……病院に。連れていって、もらえますか」
「ああ、分かった。ブルー、パープル。落ち着いたら決勝戦を見ておいで」
「……はい、」

 その言葉を残して、博士は未だブルーを見つめながらぶつぶつと呟く母さんを部屋の外へ連れていった。バタンと扉が閉まる音がして、ボクとブルーだけが取り残される。途端に体の力が抜けて、二人揃ってずるずると床に座り込んだ。

「……アタシ、」
「……?」
「パープルがアタシを責めなかったとき、苦しかった」
「ブルー……」

 ブルーは、力なく項垂れながらぽつぽつと言葉をこぼす。あの日、ボクと初めて出会った日、スピネルと自分の関係をボクに告げたとき、ありったけの言葉で罵られることを、覚悟していた、と。ボクにはその権利があるはずだった、と。

「それなのにアンタは優しくて、アタシをずっと守ろうとしてくれて、どうしてって、ずっと……」
「……別に、ボクはそんなに優しい人間じゃないよ。あの日、キミのことを口汚く罵りそうになったし……」
「アンタがくれたジュース、美味しかった……」
「うん、」

 ブルーは大粒の涙をこぼしながら、ときどき嗚咽で言葉を詰まらせながら、それでも語り続ける。
 おにいちゃんと本当に幼いスピネルが呟いたのを聞いたことがあったから、ボクが男であると最初から知っていたこと。女の格好をしていることに驚いたのと同時に、たぶん、スピネルが誘拐されたことがきっかけでボクの家族が壊れたことを薄々察していたこと。
 それなのに、自分はボクに罵られて、楽になろうとしていたこと。

「アタシは悪くないって言われたとき、嬉しかったけど、苦しくて……、それに、きっと、あ、アタシの家族も……アタシを迎えにきてくれるって言ってくれて、嬉しかった……!」
「うん……」
「ずっと頭の中滅茶苦茶で、どうしたらいいかわからなくて、」
「……だから、やたらとボクに声をかけてきたんだね」
「……ごめんなさい」
「……いいよ、別に」

 部屋の中に、ブルーが鼻をすする音だけが響く。ボクは必死に涙を拭うブルーをぼんやり見つめながら、頭の中に浮かんだ言葉をそのまま音にした。

「……本音を言うとね、」
「うん……」
「どうして、って気持ちを抱かなかったわけじゃない」
「……うん」

 あの日噛み砕いて飲み込んだ言葉を、舌の上で転がして少しだけど形にする。確かに今でもあの日ブルーとスピネルが一緒に遊んでいなかったら、と思う気持ちがないわけではない。
 けれど。やっぱり、分かってしまうのだ。涙を流す理由が。未だに自分を縛る呪いの苦しさが。傷の舐めあい、同情、なんだっていい。泣き続けていたボクをエリカちゃんが優しく撫でてくれたように、ボクもボクと同じように酷い目に遭ったブルーの心をほんの少しで助けたいと、そう思う気持ちだって本当なのだから。

「だからさ、一緒に、探してよ」
「……え?」
「どこ行ったのか分からないスピネルのこと。それでさ、スピネルとボクと母さんが再会できたらさ……それで解決じゃん」
「パープル……」

 大粒の涙で溶けたブルーの瞳。まだ涙が浮かぶ眦を、そっと親指でなぞった。

「キミが悪いわけじゃない。ボクのこの考えは、変わらないよ」
「……うん」
「それでも、ブルー自身に罪の意識があるなら、スピネルを探して」
「……うん……っ」
「泣かないでよ、」

 アタシだって泣きたいわけじゃないわよ。ブルーは涙で声を揺らしながら、そう答えた。それじゃあしょうがないね、と返事をしながら、ボクは頭に浮かんだもう一つ、誰かに手を貸してほしいことを彼女に頼むことにする。

「それとさ」
「……?」
「母さんのためのボクでいるのは、もう終わりにしたいんだ。でも、髪の毛切るのとか、ズボン履くのとか……いざやろうとすると体が震えてさ。手伝ってくれる?」
「……ええ。ええ!勿論よ、」

 レッドと出会って、ブルーと出会って、グリーンと出会って。サンサンとディディとカメカメとリュリュとハナナと旅をして、ロケット団の悪事を暴いて、マサラタウンの人々を助けて。強くなったと、思いたい。少しは前に進めたのだと、もう泣いているだけだったボクではないんだと、そう、思いたい。実感したい。母さんに強制され続けたスカートではなく、ズボンを履いて、ちゃんと自分のしたい格好をすることで。
 いつか胸を張って、スピネルにボクがキミのお兄ちゃんだよ。ずっと探していたんだよ。そう伝えられるように。

20200113
20201117//修正