お互い頬に残る涙の痕が気にならなくなってきた頃、会場からわっと大きい歓声が聞えてきた。
床に座り込んでいたボクとブルーは飛び上がって驚き、顔を見合わせる。
「試合が終わっちゃうのかも!」
「急ぎましょ!」
慌てて立ち上がり、控室から弾丸のように飛び出して会場へ戻れば、ボロボロのレッドとフッシー、そして彼らと対峙するグリーンとリザードンの姿がリング上に見えた。
「再びリザードンを出したグリーン選手に対抗するかのように、再びフシギバナを出したレッド選手!どういう選択なんでしょうか?」
スピーカーからも周囲からもレッドの選択に驚く声が聞こえてくるが、ボクはただじっと──フッシーを信頼しきった表情で、勝利を諦めることなくグリーンとリザードンに向かい合うレッドの横顔を見つめた。
「リザードン!」
「フッシー!」
二人の声が重なった瞬間、リザードンが業火を吐き出し、フッシーがつるのムチをリザードンの体に絡みつけた。
炎タイプのリザードンに草タイプのわざであるつるのムチは有効打どころか、その動きを封じ込めることすらできる筈もない。レッドの一見無駄だと思えるようなわざ選択に、グリーンがそのことを指摘するが、しかし、それはドームの中に突如として出現した雷雲の出す轟音によって遮られた。
「雨雲……?」
「……いや、これは雷雲!?」
「そうだ、雷雲だ。確かにツルによる攻撃だけじゃ、リザードンには効かないだろうが、」
レッドが不敵な笑みを浮かべる。突如出現した雷雲の正体は、ここに至るまでに必死で戦い抜いたニョロとピカによるものだと語りながら。
そして、フッシーのムチが避雷針の役割を果たす。凄まじい勢いでフッシーのムチに落ちた雷が、リザードンの体を貫いた。
「これは、先に倒れたピカとニョロの力も合わさった合体技だ!!いっけええ!!」
体を貫く雷を炎で押し返そうとするリザードンが光に包まれ、視認できないほどの土煙があがる。フッシーもリザードンも、きっといまのが最後の力だった。この土煙が晴れた先、立っているのはきっと一人しかいない。そう思いながら、ハラハラした気持ちでリングを見つめる。
「煙がきれる!」
「あ……、あれは……」
会場中の視線がリングへと集まる。そして、煙が晴れた先、リングの上に立っていたのはグリーンとリザードンだった。興奮を隠しきれない声色で、スピーカ−からグリーンの勝利が宣言される。まさに、そのときだった。
グリーンとリザードンの体が崩れ落ち、反対にそれまで倒れ込んでいたレッドが起き上る。
「イヤ!!勝者は……、レッド選手です!!」
新たに誕生した11歳のチャンピオン。彗星のごとく現れたレッドに、会場中が湧き上がった。
観客からの喝采を一身に浴びるレッドは、彼の勝利を祝うためにボールから出てきたピカ、ニョロ、そしてフッシーに微笑んだかと思うと、再びその体を大きく揺らし、今度こそ床に倒れ込んだ。
待機していた救護班がリング上のレッドとグリーンに駆け寄って二人の容態を確認すると、二人は力尽きて意識を失っていた。そのため、優勝者のレッドと準優勝者のグリーン、二人の表彰は彼らが目覚めてからとなった。
「……もう目が覚めたの?」
「……パープルか」
二人が倒れて数時間後。
自動販売機でおいしい水を買って、レッドとグリーンの様子を見に行こうとしたときだった。突然救護室の扉が開くと、中から包帯やガーゼを体のあちこちにつけたグリーンが出てきて、ボクを見つけると僅かに目を見開く。
「お前は参加しなかったんだな」
「……ちょっと、見つかりたくない人がいて」
「そうか。……パープル」
「なに?」
グリーンが珍しく躊躇うように、口をもごつかせた。宝石のように鮮やかな緑色の瞳が言葉を探すように宙を彷徨うのを、ボクは急かすことなく見つめ続ける。
「……お前、男、だろ」
「なんで、」
「……初めて会ったときから、なんとなく違和感を覚えていた。確信を得たのは、ヤマブキでだ」
「……そ、っか。なんだか、恥ずかしいな」
ようやく口を開けたグリーンの声は、静寂に溶けてしまいそうなほど小さかった。しかし、それは確実に空気を震わせ、ボクの耳に届き、わかっていたことだけれど、ボクの心に突き刺さった。
思わず言葉が詰まって、視線を下げれば、スカートから覗くボクの足が目に入る。反対にグリーンは黒いズボンを履いていて、その違いに消えてしまいたいな、と心の奥底でもう一人のボクが囁いた。強くなったはずなのに。母さんやブルーの言葉と、グリーンの言葉は、ボクへの突き刺さり方が違う。グリーンの言葉は、あまりにも、痛い。
「……それに」
「……それに?」
「お前、昔マサラタウンに住んでただろ」
「そうだけど……」
心を抉られたような痛みをボクが耐えていると、やっぱりな。グリーンの唇がそう動いたのが見えた。グリーンの言葉に含まれた意味が分からなくて彼の顔を窺えば、グリーンはボクの顔をしっかり見て、ボクとグリーンはニビシティでぶつかったあの日よりも、ずっとずっと前に一度だけあったことがある、と告げた。
「……?」
「……七年前。おじいちゃんの研究所近くで会っただろ。今と格好が大分違ったから気が付くのに遅れたが……」
グリーンがそう言うから、ボクは自分の記憶の奥深くを探る。七年前。まだ父さんもスピネルもいて、マサラタウンで楽しく暮らしていたころ。
ボクはその頃、普通の男の子だった。夜遅くまで外を駆けまわって、怪我をして、泥だらけになって、母さんに怒られるような、普通の。
そんな頃、オーキド博士の研究所近くで、彼と、グリーンと出会っただろうか。数分の間うんうんと唸って、やがて、ニビジムでジムチャレンジをするグリーンを見たとき、何か引っかかりを覚えたことを思い出す。ぱっと顔を上げれば、グリーンは形のいい眉毛を歪めて完全に呆れた顔をしていた。
「……思い出したか?」
「うん、」
そこからは紐解くように、七年前のことを思い出した。笑う茶髪の少年と、その傍らに控えるストライク。どこか刺々しい雰囲気を持つ少年ではあったが、その頃は言動も表情も素直で、少なくとも今のようにひねくれてはいなかった。今と随分違った、と彼はいったが、それは彼も同じだろう。
「……何か事情があるんだろ」
「ん……まあ、ね」
ボクの膝上で揺れる柔らかなスカートを見て、グリーンは呟く。そして言葉を濁し、目線を逸らすボクに、グリーンがそれ以上追及することはなかった。代わりにため息をついて、歩き出す。どこに行くの。そう尋ねたボクに、レッドが起きるまで外で時間を潰していると言い残して、彼の背中は遠ざかっていった。
「……グリーン、優しくなったな……」
ややぬるくなってしまったペットポトルを手に、数度救護室の扉をノックするも、返事はない。少しの間悩んでから、控えめに扉を開く。隙間から中を窺えば、ベッドの上で眠るレッドが見えた。
「お邪魔しま〜す……」
極力大きさを絞った声で呟いて、救護室の中に足を踏み入れる。すぐにレッドのモンスターボールが置かれた丸机を発見すると、外で買ってきたお菓子と手に持っていたペットボトルをそこに置き、バッグの中からメモとペンを取り出す。
そのメモにボクの名前と、素晴らしいバトルを見せてくれたことへの感謝、それから優勝を祝う言葉を書き記し、部屋を出ようと足を踏み出す。その瞬間、ベッドで眠るレッドから唸り声が聞こえてきた。吃驚して視線を移すと、そこには上体を起こしたレッドがまだ定まらない視線で部屋をぼんやりとみている姿があった。
「レッド!」
「……パープル、か……?」
「そうだよ。おはよう、レッド。体は痛くない?平気?」
声をかけながら近寄れば、レッドは二、三度目元を擦り、ようやくしっかりとした眼差しでボクを見る。そして、「そうだ!決勝戦!」と声をあげた。
今にもベッドから飛び出していきそうなレッドを慌てて押し戻しながらレッドがグリーンに勝利し、優勝したことを伝えれば、レッドは瞳を瞬かせる。まだ現実感がないようだ。
「覚えてない?最後、グリーンが倒れて、レッドが立ち上がったんだけど……」
「や、あんまり……オレ、ほんとにグリーンに勝ったのか?」
「本当だよ!色々あって全部は見られなかったんだけど……素晴らしいバトルだった!」
気を失う前後の記憶が怪しいらしく首を傾げるレッドに、ボクは思わず笑ってしまう。あんな素晴らしいバトルを繰り広げて、高らかに自身の勝利を宣言されたその瞬間も確かに立っていたはずなのに、まるっと記憶が抜け落ちるなんて。もったいないような、レッドらしいような。不思議な気持ちだ。
「あ、それで表彰式なんだけど、たぶんもう少ししたら始まると思うんだ」
「分かった。教えてくれてありがとな、パープル」
「ううん。ただ、ボクは表彰式の前に、ちょっとレッドと話しがしたくて、」
「オレと?」
「うん……」
今度は不思議そうな顔をしたレッドと話しをするため、ボクは近くの椅子を引き寄せて座る。
どう切り出せばいいか分からなくて、視線を落とせば、やっぱり目に入るのはスカートと、そこから覗くボクの足だった。まるで、女の子のような。女の子だと、他人に思われても可笑しくないような。
「あの、さ……」
「うん、」
急かすことなく、ただ黙ってこちらを見つめるレッドの赤色の瞳の真っ直ぐさに、打ちのめされてしまいそうな気持ちになる。
マサラタウンで出会ったあの日からずっと、誠実にボクと関わり続けてくれたレッド。そんな彼に勘違いされ続けるのは、嘘をつき続けるのは、ボク自身が嫌だった。ボク自身が許せなかった。
軽蔑されるだろうか、気持ち悪がられるだろうか、嫌われるだろうか。レッドがそんな人ではないと頭では理解しているのに、感情がついてこない。きっとレッドなら驚くだろうけど、その後きっとボクを受け入れてくれると分かっているはずなのに、そんなことばかり考えてしまう。
「ボクさ、実は……男、なんだよね」
「…………へ?」
迷って、躊躇って、恥ずかしくて泣きそうになって、それでも本当のボクでありたくて、閉じそうになる口を必死でこじ開けて、言葉を紡いだ。ボクの言葉を聞いたレッドが、大きく目を見開く。
レッドの唇が言葉を探すように震え、やがて諦めたように「本当か?」と、呟いた。ボクは目を逸らしたくなる気持ちを抑え付けて、確りと彼の瞳を見つめ、頷き返す。するとレッドは「マジか〜」と息を吐いた。
「ずっと、嘘をついてて、ごめん」
「……いや、勘違いしてたオレの方が悪いだろ。ごめんな、パープル」
レッドはボクの謝罪を、ゆるく首を横に振って受け取ることはなかった。代わりに「なにか理由があるんだろ?」と、どこまでも優しく尋ねてくるものだから、もう泣くものかと踏ん張っていたはずなのに、みっともないところを二度とレッドには見せたくないと思っていたはずなのに、じわじわと目尻に涙が浮かんで頬を伝うのはあっという間だった。
ボクはレッドに、ボクの旅の理由を話す。
ボクの旅の目的、人探し。その探している人が、ボクの妹だということ。ブルーと同じ事件で妹は連れ去られ、母さんが心を病み、父さんはいなくなって、ボクの家族は完全に崩壊したこと。そして、心を病んだ母さんに、ボクは女の子の格好をずっと強いられていたこと。
「そっか。……ずっと辛かったんだな、パープル」
すべて話し終えた後、レッドはただ、そう言った。他に言葉が見つからなかったのかもしれない。それでも、どうにかボクの吐き出した苦しみに寄り添おうとする優しさが痛いくらい伝わってきて、ボクはただ頷くことしか出来ない。
「……もう一度、はじめようぜ」
「……もういちど、?」
「ああ。今度はちゃんと、男友達として!」
顔を上げたボクに、レッドが微笑みかける。眩しい笑顔だった。まるで太陽のような、圧倒的な輝きを放つレッドに、ボクは頷いて答える。レッドはそれを見ると、ベッドから降りた。
「表彰式を始めてもらおうぜ!」と、走り出すレッドの背を、ボクも走って追いかける。
セキエイ高原、ポケモンリーグ。
その頂点に立ったレッド、二位と三位に入賞したグリーンとブルー。「おめでとう!」と、たくさんの喝采と祝福に包まれながら、彼らはステージに上がる。
ボクも三人に惜しみない拍手を送りながら、これまでとこれからに思いを馳せていた。
ボク達の旅は、これからも続いていく。今日が、今この瞬間が、終着点ではない。それが嬉しくてたまらない。ボクはもう一度、今度こそ、ボクとして歩き出せる。旅の途中で出会ったかけがえのない友人たちのおかげで。明日からも、ボク達の旅は続いていく。この世界のどこかにいるスピネルと再会するために。
「……ありがとう。レッド、ブルー、グリーン」
また歩き始めるために。進むために。変わるために。
さあ、マサラへ帰ろう。
20200117