エリカちゃんはイエローにイエローの手作りのポケモン図鑑──ピカ、ラッちゃん、ドドすけがクレヨンで描かれたスケッチブックだ──をそっと返し、手当てを始めた。不幸中の幸いと言うべきか、ホネブーメランが直撃した腹部は凄まじい色の痣が出来てはいたものの、骨は無事だったらしい。
 青と紫が混ざり合ったどす黒く大きな痣がイエローの薄い腹で存在を主張する。痛ましい姿に心が痛むが、そうしていてもイエローの痣が治るわけではない。頭を切り替えなくてはとハナナをお礼とともにボールに戻したことろで、同じようにイエローの様子を窺っていたカスミが歩み寄ってきた。

「久しぶり、パープル。危ないところだったわね」
「久しぶり、カスミ。助けにきてくれてありがとう」

 ポケモンリーグの表彰式が終わってすぐ、ボクはハナダシティに足を運び、カスミにも今まで騙していたことを正直に打ち明けて謝罪をした。レッドに受け入れられた安心感に背を押されたのはあるけれど、何よりも二年前の「同じ女として」という言葉が、改めて心に突き刺さったからだ。カスミを騙し続けている罪悪感や自業自得なのだが性別を勘違いされていることへの悲しみ等の様々な感情がお腹の底で混ざり合って、破裂するよりも先にボクは行動を起こした。
 「ごめん。本当はボク、男なんだ」そう告げたときのカスミの驚いた表情を、今でも思い出せる。けれど、彼女もレッドと同じようにどこまでも優しい人だった。「アタシこそ勘違いしちゃっててごめんね」と、レッドと同じように彼女も謝るものだから、ボクは彼女の前でも少しだけ泣いた。タマムシで母さんと暮らしていた頃、散々近所の同じ年ごろの子供たちに踏み荒らされた心を優しく撫でられたような気がして、泣かずにはいられなかった。

「レッドとパープル、二人とも私の大切な友達だもの。駆けつけるのは当然でしょ!」

 ぱちん、とウインクを飛ばしながらカスミは言った。二年前のあの日から変わらぬ友情が、その中に当然のようにボクも入っていることが、たまらなく嬉しい。

「やっぱりカスミは頼りになるね。ボクも頑張らなくちゃ」
「パープルもレッドを探しているのよね?」
「そうだよ。まあ……色々あってイエローに力を貸してあげて、って頼まれたんだ」
「友達に?」
「そうそう」

  ここまで体を張って無茶をするような子だと知っていたら、もっと合流を急いだのだけど。なんて、頭の中に浮かんだ言い訳を、ボクは黙って飲み込む。そうしてカスミと会話していると、ぬっと伸びた一つの影がカスミを覆った。あ、と思うよりも先に、近づいてきた男性トレーナーが口を開く。

「カスミくん……だったね。会うのは今日が初めてだな。」

 男性はそこで言葉を切り、やがて、「あやまらせてくれ……すまないことをした」と、その頭を下げた。カスミが息を呑む。突然の状況についていけないボクがどうしたらいいのか内心おろおろしていると、男性は再び口を開く。

「二年前の……キミのギャラドスのことを、ずっとわびたいと思っていた……。許してくれ」

 二年前。カスミのギャラドス。その言葉だけで、カスミと初めて出会った日のことが簡単に記憶の引き出したら取り出せる。突然何者かに盗まれ、再会を果たしたものの我を忘れて暴れ続けていたギャラドス。──ロケット団の実験の被害を受けた、悲しいポケモン。
 男性の言葉から推測するに、男性はかつてロケット団の内部で実験に関わっていた、ということなのだろう。それも、下っ端ではない。恐らく、彼があの非人道的で冷酷な実験を推し進めていたのだ。ロケット団がサイホーンに投与したあの薬を、彼がこの世に生み出していた。二年前目の当たりにした悲しい進化を思い出して、形容しがたい感情が芽生える。当事者であるカスミは、なおさらだろう。彼女が男性を赦さなかったとしても誰も彼女を責めることはできない。寧ろ、それが当然なのだ。
 しかし、カスミは微笑み「もう……いいよ」と、男性の罪を赦した。これからは一緒に戦ってくれるのだから、と。その彼女の様子から、あのギャラドスが今は幸せに過ごしているのだろうと想像することができる。今もカスミの元にいるのか、他のトレーナーのところにいるのかはわからないけれど。

「それから……パープルくん、だったろうか」
「え、あ、はい。そうです」

 カスミとギャラドスが納得しているのなら、部外者であるボクが口をはさむことではないな、と沈黙していると、男性の視線は突然ボクに向いた。慌てて頷けば、男性は「私はグレンジムのカツラ。よろしく頼む」と丁寧に自己紹介をしてくれた。これはどうも、と礼を述べながら、ボクもカツラさんに──既に知られていたが──名乗った。

「オレはニビジムのタケシだ」
「あ、タケシさんのことは知っています。レッドのジム戦を見ていたので」
「そうだったのか。パープルは参加しなかったんだな」
「あの頃はちょっと、別のことで忙しくて……」

 事実はというと、ほとんどジム戦に興味がなかっただけだったのだけど。こうも何人ものジムリーダーに囲まれて本当のことを吐き出せるわけもなく、ボクは苦笑いとともに言葉を濁した。大変だったんだな、と労いの言葉をかけてくれるタケシさんとカツラさんにキリキリと胃が痛む。
 そうしてどこか緩みかけていた雰囲気をエリカちゃんが両手を打ち鳴らし、再びぴんと張り詰めさせた。

「自己紹介は済みましたか?」
「ああ……時間をとって悪かった」
「いいえ、構いませんわ。……カツラさん」
「ああ。さあて、仕事にかかるか」

 ピンと美しく伸びた背筋や、きびきびと飛ぶ指示。流石はタマムシ大学で教鞭を振るっているだけあるな、と静かに関心していると、カツラさんが放ったボールからガーディが姿を現した。ガーディは未だ気を失ったままのりかけいのおとこのにおいを嗅ぐと、別の方角を向いで遠吠えをあげる。

「ど……どっちへ向かって吠えているんだ?」
「フム。ここ、タマムシよりも北の方向か……。待てよ!!」

 深夜のタマムシにカツラさんのガーディの遠吠えが響き渡る。カツラさんはガーディが吠えた方角を理解するとすぐに何かに気が付いたらしく、懐から顕微鏡のようなものを取り出して地面に膝をつき、りかけいのおとこの周囲を探った。
 その結果、りかけいのおとこが身に纏っていたレッドのにおいの成分には僅かに月光線という、月の石が帯びている特別な反応が見られるらしい。月の石、タマムシよりも北の方向。その二つの要素が合わさって導き出された答えは、りかけいのおとこがレッドの服を手に入れたのはタマムシよりも北、かつて月の石が落ちたといわれている場所であるオツキミ山であるということだった。そうと分かれば──そう声を出そうとしたところで、りかけいのおとこの体がふわりと浮き上がる。

「!?」
「な……なにい!?”りかけいのおとこ”の体が……!!」

 男は全身に黒い霧を纏わりつかせ、宙へ浮いている。やがて、黒い霧は男の首を強く締め始めた。ぎゅうぎゅうと強く締め付けられ、男は苦悶の声を上げる。このままでは彼の命が危ないとカツラさんの声がかかり、慌ててボールからポケモンを呼び出し、リュリュ、ガーディ、ゴローン、オムナイトの一斉攻撃で男の体を捕まえる。

「よし!捕らえたぞ!」
「そのまま引きずりおろせ!」

 男の体を少しずつ地面に引きずり下ろしていく。しかしその途中に、男に纏わりついていた黒い霧が姿を変えた。

「待って。あれは……」
「ゴース!」
「この霧の正体はこいつか」

 ぎょろりとした目でこちらを見下ろすゴースの大きな口元は楽し気に歪んでいた。咄嗟に図鑑を取り出しゴースに向けると、ゴースのガスに包まれた生きものは数秒で意識を失うという説明が目に飛び込んできて嫌な汗が背筋を伝ったのが分かった。りかけいのおとこは無事だろうか。

「よし!ポケモンだとわかれば話は早い。あの霧をコイツの熱風圧で吹き飛ばす!ガーディ!」
「みんなさがって!」

 カツラさんの指示で、ガーディがゴースに向かって高熱の息吹を吐き出す。しかしゴースと男の背後、木のカゲに一体の野生ポケモンの姿が見えた。このままでは巻き込みかねない──しかし既に吐き出された息吹を止めることもできず、慌てて腰のボールに手をかけたところで、いつの間にか目を覚ましていたイエローが動いていた。
 釣り竿を力いっぱい振り、木のカゲに糸が辿り着いた瞬間、その先につけられていたボールの中に入っていたピカが姿を現す。そして、今まさにガーディの技に巻き込まれかけていたポケモン──キャタピーを間一髪で救った。
 息吹はゴースのみに直撃し、ゴースもふっと姿を消し、男が落ちてくる。それをゴローンがうまくキャッチし、だれもが胸を撫で下ろした。

「アハ……ナイス!ピカ!」
「……なんて子だ。あの状態で野生のキャタピーを助けようとは。……さすがだ、イエローくん」

 ピカとキャタピーの無事を喜ぶイエローに、カツラさんが手を差し出す。

「まだ体力も戻っていないのによく行動したな。君のウデはしっかり見せてもらったよ」
「え……あの……」
「はじめまして。私はグレンジムのカツラ」
「オレはニビジムのタケシ」
「みんな、レッドを心配する仲間よ」

 困惑するイエローにそれぞれが名を名乗り、握手を交わしていく。やがて、イエローの視線がボクを捉えた。

「あなたは……?」
「ボクはパープル。マサラタウンのパープルだよ。レッドとは友達で──キミの旅立ちを支援した人に言われて、キミを助けるために追いかけてきたんだ」
「パープルさん……」
「よろしくね、イエロー。さっきの、かっこよかったよ」
「あ……ありがとうございます」

 きゅっと握手を交わす。その手のひらの感触が思っていたよりも随分柔らかくて、おや?と思う。失礼かもしれないけれど少しだけ顔に視線を滑らせると、瞬きのたびに震える睫毛が、暗がりでは分かりづらいけれど照れて薄桃色に染まった丸い頬が、ボクの疑惑を確信へと変えた。

「……あの?」
「ああ……ごめん。何でもないよ」

 事情が分からないから、不躾に質問することはできずボクは答えを濁す。かつての自分を重ねてしまうのも失礼だろう。ただ、ボクのように辛くて惨めで苦しい理由でなければいい。

「それにしてもわかりませんわ」

 イエローが、彼女が、自身の性別を明かしてもいいと思えるようになるまでは、気づいていないふりをしていよう。そう思ったところで、エリカちゃんが声をあげた。顎に手を当てて、疑問を口にする。
 ピカを攫おうとした男が今度は連れ去られかけたこと。そのことから、もしかして男を調べさせまいとする何者かがいるのではないだろうかということ。それはまるでレッドを探すことを妨害しているように思えて、レッドに繋がる有力な証言をする可能性がある男を口封じしようとしたのではないか、と今度はカツラさんが男のスーツの解説を急ぐことを決めた。それを受けて、タケシさんが自身が守護する町の直ぐ裏にあるオツキミ山の調査に乗り出す。
 その瞬間、頭で理解するよりも先に声を発していた。

「危ない!」
「!?」

 黒い霧があたりに立ち込める。ガーディに吹き飛ばされたはずのゴースが再び姿を現して、今度は男を操っているようだった。先ほど男にしていたのと同じようにボクたちに纏わりついて締め付けようとしてくる霧から逃れようにも、既に警戒を解いてしまっていたボクたちは後手に回ってしまい、霧が足首を締め始めた。

「相手は霧状のポケモンだ!核を打て!」

 何とか現状を打破しようと痛みと戦っているボクたちの間に、鋭い声が飛んできた。はっと顔をあげると、ゴースの核が貫かれて地面に倒れ伏す。
 聞き覚えのある固い声とゴースを一撃で瀕死に持ち込む強さで声の持ち主を確信して闇の中で目を凝らすと、そのシルエットが浮かび上がる。

「霧はふきとばしたり引き裂いたりするよりも……。全体を統率している核を打ち抜く。そうすれば復活を阻止できる」
「グリーン!」

20201011