1/2
大雨の夜。雨粒と、雨粒の落ちるしぶきと、雨の溜まった浅瀬のような地面と白い煙のように漂う靄と、落ちてくる雫。その夜は加えて、血けむりと血しぶきと血だまりがあった。その片隅でひとり蹲る私に躊躇うことなく手を差し伸べて、震える私を抱きかかえて運んでくれたカタクリさん。
カタクリさんはなにも言わない。脅すことも念押しすることも懐柔することもない。けれどその日を境に、以前よりもそれとなく関わりが増えたことは明らかだ。そうすることで私に、同朋意識を呼びかけているのか、あるいは監視しているのか。もし私が、彼らから住居として万国に住まわせてもらっている娘でなければ、もし、このシャーロット家の血縁者に救われていなければ、私はあの晩、間違いなく殺されていただろう。しかしカタクリさんはそんな私にそっと微笑してみせるのだ。
「このところ、雨が多いな」
コムギ島、ハクリキタウン本部のお城の中。半分ほど開いた窓ごしに雨模様の広がる遠景を眺めて彼はいう。私は、けほ、けほと咳をこぼした。
雨の匂いがする。苦い、水の匂い。もしかするとそれは、カタクリさんの匂いなのかもしれない。ひりひり焼ける喉にお茶を流しこむと、彼は瞳の端だけで私を一瞥した。
「風邪を引いたか」
「いえ、ちょっと……それより話ってなんですか?」
えほん、と情けなく喉が鳴る。いまのところ気だるさなどはないものの風邪の引きはじめのツンとしたものが鼻腔の奥を突いている。
既にペロスペローさんからもらったのど飴は口にしたので、あとは為すすべもなく、大事にならないよう祈るばかりだ。
「先日ペロス兄より相談を受けた」
「ペロスペローさんが?どんな相談を?」
「ああ。お前がずっと塞ぎこんでいると」
「……」
「理由が万国以外にあるのではないかと心配していた」
彼が振り向いたとき首に巻かれたストールの毛先がふわりと揺れた。私の中にある、密かな動揺をカタクリさんの瞳は、見透かしているのかもしれない。その物憂げな美しいが冷たげな瞳には追及するでもなく、ただ見ているというだけのことで、私を丸裸に出来るような魔力を秘めていた。
「ペロスペローさんには何て言ったんですか」
「……俺の関与することではないと」
「……そうですか。ご迷惑をおかけして」
ぐっ、と絨毯を歩きながら、彼は私の座っているソファの傍にやってくる。腕を組んだままでカタクリさんはソファに腰を下ろした。
「お前と特別な間柄の奴がいるんじゃねェのかこの国の外に」
「……」
「いや……いた、というべきか」
さああ、と葉鳴りに似た雨音が窓のむこうに掻きたてられた。
時が止まったような気がした。私とカタクリさんは互いに黙って見つめ合っていた。瞬きのない瞳を見つめ合いながら私達が互いの事ではなくあの豪雨の夜の事を思い描いていることがわかった。
横殴りに降りしきる雨、ぬかるんだ土、血、血、血、それから……
——あのときのことを、カタクリさんが口にしたのは初めてのことだ。単に、世間話をしているのではない。あの晩から今日までつづいた騙し騙しの平和が、ついに終わったのだと私は思った。
私は万国の敵——麦わら海賊団の船長を救った。国を滅ぼし掛けた張本人に、万国の食料を恵んだのだ。居合わせたのが運の尽だったのかもしれない。けれど、無視できなかった。
『……不法入国したのなら結婚式の参加者ではないですよね』
『……メシぃ、』
『……。ここに置いておきますが私から貰ったことは、絶対に口外しないでください』
『でもオレ……サンジが、来るまでは……何も食えねェ』
私の起こした行動に深い意味は決してない。ただ目の前でもう誰も死んでほしくなかった。しかし、その一部始終を見ていたこの島の者がビッグマム海賊団、最高戦力である、大幹部の面々に報告したのだ。
あの日の内情を知っているのは承知の上で、それでも、私に対する遠慮がなくなったのか、あるいは秘密をより強固にする必要に駆られたのか、いずれの事かはわからない。枷がついに外れたのだ。私はきっと殺される。そうでなければ遠くへ行かされる。
「誤解ですよ。そんなことはないです」
と、わたしは無表情でいった。
「そうか。そうは見えなかった」
瞳の端で私を一瞥する彼の顔は、ぞっとするような翳りを帯びていた。
カタクリさんは、たいへん美しい人だ。その風貌は、私を憂鬱にさせる。人を不安にさせる顔だ。
万国の面々と初めて対面した昨年の春、カタクリさんの姿を見て私は怯えた。武骨な得体のしれない人だと思った。それでもカタクリさんが初めて私に微笑みかけた事を私はよく覚えている。
あれはあの豪雨の晩の、翌朝のことだった。彼は一睡もできなかった私に��おはよう、いい朝だな�≠ニ笑った。自分だって傷だらけ、包帯だらけだったのにも関わらず。
「なら、お前の口からペロス兄に伝えろ」
「……」
私は考えるために口を噤みかぶりを振った。
「いえ、……でも、カタクリさんの言うとおりかもしれないですね」
「……」
「特別に想うひとなら、たしかに——」
「……」
「……」
唇を開いて、続きを言いかけて喉が詰まる。カタクリさんがじっと私を見つめている。噎せかえるような沈黙が、しとしと響く雨の水分を吸って重力を持ちずしりと肩にのしかかった。まばたきも躊躇う、鳥肌のたつ緊張感。続きを言うなんて、とてもできそうになかった。カタクリさんのやわらかな睫毛が一度、ゆっくりと上下した。
カタクリさんは向かいに座る私の腕をつかんで、目を開けたまま私を見つめテーブル越しに顔を近づけた。くちびるとくちびるの距離が、紙一重にまで縮まった瞬間、ようやく、目蓋を下ろした。私は一瞬だけ反射的に目を閉じた後くちびると鼻筋に他人の体温を感じながら目を開けた。カタクリさんの閉じた目蓋と長く繊細な睫毛が目の前にあった。
つやのある感触が、しゅると絹と絹のような音をたてて離れる。くちづけのあとに見たものはカタクリさんの無表情の顔だった。眉を微かにひそめて彼は顔をそむける。私の腕から手を下ろすと、すこし黙って、彼は立ち上がった。黒い革靴の踵を返して絨毯の上を歩いていく。そして扉を開けて彼は出ていった。
バタンと静かに扉は閉ざされた。くちづけの瞬間はたしかに完全なる無音だった室内にしとしとと雨音が戻ってくる。私は上の空で、くちびるの余韻を確かめていた。
*****
数日つづいた雨が上がり、太陽を分厚い雲が隠してしまった空の下ですべてが灰色に濁っている。まだ午すぎだというのに薄暗い。
カタクリさんは自室で、机に向かって座っていて、何かを手に持って眺めていた。私はカタクリさんの部屋に紅茶を運んでいる途中で彼がその気配に気づいて私のほうに耳を澄ました。
「風邪はどうだ。あれから悪くなってはいないか」
「はい。もうよくなってきて……」
そう答えた傍から、けほ、けほと咳が出る。情けなく思いながらカタクリさんの怪訝な視線から目を逸らした。
「……紅茶、新しいのをどうぞ」
カチャンと机に紅茶のカップを置くと、彼はそのカップの持ち手ごと私の手を掴んだ。掴んだままで手を引かない。私もなぜか引けなかった。紅茶のカップを媒体に繋がっていた。まるで金縛りにあったみたいに。なぜかというと、目が合ったからだ。あのくちづけを交わした時と同じ、重苦しい沈黙。
喘ぐように狂おしく身悶えたい肉体を無言と無表情の鎧が押しとどめている。あの時のくちづけを思い出して心の襞をとろかす熱っぽさが喉にせり上がった。
動揺する視線をやっとの思いで逸らす。呪縛から解かれた途端、名状しがたい、恐ろしさを感じた。もうすこしで感情的になるところだった。カタクリさんは、掴む持つ手を下ろした。
「もう島に戻れ。じきに一雨くる」
「はい……なにかお菓子でも持ってきますか」
「いや、いい」
カタクリさんはパサ、と手に持っていた紙を机に置く。
「おかげで頭も冴えた」
やっと目のやり場に困らなくなったとほっとしたのも束の間机の上に置かれた紙に目をやるとそれは手配書で、私は目を見開いた。
—— DEAD OR ALIVE
MONKEY・D・LUFFY ——
ちら、とカタクリさんを見れば、高い鼻筋の先の眉骨に深い皺が、彼の横顔に翳りを刻んでいる。
「頭?……なにか、悩み事でも?」
「悩みというわけでもねえが、ふと、思い出すことがある」
「……」
「お前がまだ、こいつを忘れることができないのだと」
静かな、穏やかな声だった。カタクリさんは置かれたティーカップと取り口を付ける。そしてふと顔を上げたとき、微笑した。赤いガラス玉のような眼差しで。
「……それは誤解ですってば、私はあの人とはなんにもなかったし」
——おまえ、俺の仲間になれよ!
たしかにあの人は私に、そう言ったけれど。私がずっと忘れられないのは、あの人ではなくて——うわ言のように否定するとカタクリさんは眉に皺を寄せながら目を細めた。その瞳には感情を読ませない、拒絶の色が浮かんでいた。
彼は立ち上がり私のそばを通りすぎて無言のまま部屋を出て行った。
ぽつり、とひとしずく透明な雨が地面の上に落ちた。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と一滴を皮切りにたくさんこぼれ落ちてくる。窓から手をかざして涙雨だ、と思った。
あの事件が起きるまで、私はカタクリさんを想っていた。一目見たとき、なんて氷みたいな人なんだろう、なんて恐い人なんだろうと思った。彼は私に無表情で。私はうろんな目でカタクリさんを眺めていた。その冷たさと、いつも人を観察しているような横顔が気になった。
そしていつのまにか見かけたら嬉しくなって見つからないときは自然とがっかりして今何しているのだろうなんて考えるようになって……
カタクリさんの想いも、うっすらと感じていた。横顔やうなじに、彼の視線が刺さることを知っていたから。まるで私とカタクリさんだけが特別の被膜に覆われているような。二人きりで、空気の密室をつくりだしているような……それでいて重ならない視線の苦しみが、いつも胸を焦がすようだった。だがそれもあの事件の起きた晩すべて封印された。大雨と血の匂い。亡骸の顔。そして翌朝のカタクリさんの微笑。きっと殺されると思って、あの日の夜は台所の片隅で膝を抱えて震えていた。
喋ったら殺されるし、喋らなくとも殺されるだろう。数日間生きた心地がしなかった。弱みにならないようプリンたち……他の家族と深く関わる事もやめた。どうせ長くは生きられないのだろうし、洋服や装飾を新調することもなくなった。
罰が、当たったのだと思う。私は自分というものが見えていなかった。うまくやれていると過信して自分以外なにも信用していなかったのだ。私はいまも、その報いを受け続けている。