「なぜそんなに不貞腐れている」
「怒ってないよ」
「怒っているだろう」

言葉には紡がないものの軽く彼女の頭に触れる。撫でるその手つきは優しいものとは言えないもので、その力に抗わずに彼女の纏っていた髪が乱暴に散らばった。
それに煩わしさを感じた彼女が、俺の手から逃れるように身を翻して離れていく。俺を見上げることなく唇を僅かに尖らせた彼女の不機嫌の在処がわからず、俺もまた眉根を寄せて彼女を見下ろした。

茶会が始まるまでまだ少し時間が残されている。その茶会に自身も呼ばれていると知らせに来た彼女と入れ替わるように茶会に向かったダイフクたちはどこか嬉しそうだった。

俺たちを迎えに来た彼女と、当然呼ばれた俺を残していったのは、あいつらなりに気を遣ったのだというのは充分に解っていた。

だからこそ彼女と僅かに残されたこの時間を噛みしめたいと思っているというのに、俺のそんな残勝な気持ちとは反対に、彼女はその表情に渋いものを刻ませる。

「怒ってねェなら笑うくらいのことをしろ」
「カタクリさんは。私がカタクリさんが結婚して離れていくことを笑って喜ぶような女だと思ってるの?」
「――それが怒っている理由か」
「違う」

益々ぶすくれた様子を見せる彼女の中に、ある感情が垣間見える。
多分、さっき彼女が放った言葉は真実だ。

俺が今後、誰かと結婚することで少なからず彼女は喪失感を抱いているのだ。
そしてその寂しさを紛らわせるように怒ったような素振りを見せているというのも含まれているのだろう。

けれど、その引き金になったきっかけが分からない。なぜ急にそんなことを言うのか。
わからないからこそ、俺はその対処方法を得るために彼女に何故怒っているのかと繰り返し尋ね、そして彼女の怒っていないという否定の言葉を聞くたびに口を閉ざすことしかできなかった。

小さくはない声を伴って息を吐き出す。
その音を聞いた彼女もまた不機嫌そうに柳眉を逆立てた。

「しゃべらねェなら、もう会場に行くか?プリンたちもいるだろう」
「そうだけど、まだダメ」
「なにか準備でも残っているのか」
「そうじゃなくて!」

はねつけるように言った彼女の手がこちらへと伸びる。左手首を掴んできた彼女の表情が簡単に歪み、掴んだばかりのそれをなぐり捨てるように彼女が手を振った。

俺はその手が彼女の元へ引き戻るよりも先に左手で掴む。吃驚したようにまなじりを釣り上げた彼女に、睨むような視線を落とすと、彼女の大きな瞳が揺らいだ。
低く唸った彼女は、舌を打ち鳴らしそうな面持ちを残したまま俺から視線を逸らす。

「………指輪」
「?」
「指輪、してないじゃん……」
「は、」

なんの冗談のつもりだと怒鳴ってやろうかとも思ったが、痛いほどに寄せられた眉根に彼女が本心で語っていることを知る。

今更になって指輪が欲しいとか、そういうことを言いたいのか。

そのとき不意に先程起こった出来事を思い出した。彼女がここに来る10分ほど前のことだ。ブリュレが血相を変えて幹部室に入って来た。



『カタクリお兄ちゃんが婚約者と指輪を買いに行ったって本当なの!!?』
『なんだァ、ブリュレ。…もうその話は方が付いてる、ペロリン』
『だってもうその話でみんな持ちきり……』
『だいたい、結婚の話は早々にカタクリ本人が断ってるんだよ、ペロリン』
『そもそも機密事項がなーんで万国全域にバレてんだよ』
『お前が言いふらしてるのかと思っていたぞ』
『オーブンよぉ、俺はそんな暇人じゃねェ』
『そもそも、どうすればそんなインチキな伝言ゲームになったのか理解に苦しむぜ、ペロリン…』
『じゃあ…指輪の話って……』
『……カタクリ。ちゃんと誤解を解いてやれ、ペロリン』
『……カタクリお兄ちゃん……?』




彼女の言うとおり、たしかに俺の指に指輪などはめられていない。

別に彼女の想像するような甘酸っぱい出来事や、心ときめくものがあったわけでもない。
たったそれだけのことが、たかが噂話の類が、彼女の気に障るというのが、大袈裟すぎではないだろうか。


「……たかが結婚くらいで」

溜め息まじりに見下げるような言葉が口をついて出た。その言葉を捉えた彼女は俺を振り仰いで叫ぶ。

「たかがじゃないよ!」
「たかがだろう、別に俺が好き好んで申し出たわけでもねェのに」
「……」
「なぜお前が怒る必要があるんだ」
「怒ってるのはそこじゃない!」

彼女はまた叫んだ。
普段はひょうひょうと受け流すくせに、今日に限ってはそれが成されない。

真正面からぶち当たってくる彼女に、普段と同じ余裕がないのでは、と思い当たる。そういえばここ最近ずっとおかしな様子を見せていた。

無駄に喋ってみたかと思えば急に黙り込んだりというのはまだまだ正常な範囲の違和感で、菓子の袋がついたまま食ってみたり、ティーカップに砂糖をぶちまけたり、と寝ぼけているのかコイツと何度思ったことか。

「だからさぁ、……」

ポツリと言葉を零した彼女は先程までの勢いを微塵も感じさせない。
また馬鹿な発言でもする気なのだろうか。小さく息を吐き「なんだ」と言葉を促す。

「指輪を一緒に買いに行ったってことはカタクリさんのこと少なからず好きだと思ってるってことなんだよ」
「……」
「この国の常識、いまだによくわかんないけどさ……でもさ、結婚ってお互いが納得してさ、だから相手もカタクリさんのこと…」
「そんなことは知らん」
「知らないなら、それでもいいんだけどさ。でも、もうこんな風にできない、離れなきゃなんないってのに、そういうの目の当たりにしたら、さすがに……」

キツイ、
と掠れた声で繋げた彼女に、返すことが出来ず言葉に詰まった。

万国にデマ情報が流れていると知らされたのは、ついさっきの出来事。それは誤解だという間もなく、彼女にそこまで言わせてしまった自分が情けないような、そこまで想ってくれている彼女の本心が見れて嬉しいような、複雑な気持ちが胸の中に沸き起こった。

彼女の言葉から溶け出たその想いは、この先の不安が塗れた嫉妬だったからだ。

だが、それはつまり、
彼女が俺を手放すことは毛頭ないと宣言したようなもので、そうと気付けば先程までのキレた彼女の態度もひとえに、俺と離れたくないと暴れた結果だと考えられる。

妹たちと大差ない年下の彼女の、子供らしい振る舞いに、思わず笑ってしまいそうになる。今このタイミングで笑うと、また彼女が怒り狂うことだろう。それが解っていたからこそ、俺は彼女を見下ろしたまま口元を引き締める。

「いらねェだろ、指輪なんて」

目を細めて彼女を見下ろし、掴んだまま持ち上げていた手を引き下げ、彼女の目線と同じ高さになるように片膝を着く。

そのまま右手を引いてやると、手の届く距離にいた彼女が益々、俺に近づき、俺の胸に頬を寄せる。

「全部やるよ、俺を」

残りの左手を彼女の腰に回し、引いたままだった力の抜けた彼女の手を残して、右手で彼女の頭を抱えた。
緩やかに俺の腰の辺りに触れた彼女の手に力が生まれていくのを肌で感じながら、触れさせていただけの両の手を強く引き寄せる。

「ナマエに、全部――」

彼女の耳に直接吹き込むように言葉を紡ぐ。
くすぐったいのか首根を引っ込めた彼女は、しがみつくようにして俺の服を掴んだ。

たとえ俺が誰かと結婚したからといって、不安に思わなくて済んだのはひとえに、彼女が毎日のように一途に、俺を追いかけてくれると宣言をしてくれていたからだ。

同じように返して来たつもりだったけれど、
足りていないからか、それとも同じ言葉が返ってくるとの信頼からか、彼女は俺に対して不安をぶつけてくる。

「それだけじゃ不満か」
「……カタクリさん」

服を掴むだけだった腕が穏やかに回されて、俺自身を抱くものに変わる。
さっきまでぷりぷりと怒っていたくせに、単純というか素直というか。
少なくないある種の感情が胸に沸き起こってきて、自然と口元が緩んだ。

俺に対してはいつもどういうものであっても、全力でまっすぐ向かってくる彼女をかわいいと思う気持ちは簡単に収まりそうにない。

抱えるだけだった頭を撫で付けていると、身動きした彼女が寄せられたままだった頬を離し、俺を見上げる。
その動きに誘われるように顔を寄せたが、触れるよりも先に彼女の唇が言葉を紡ぐ。

「おでこにカタクリさんの名前彫ってもいいなら安心してあげてもいい」

可愛げのないその言葉に、思わず固まってしまう。

「……顔はヤメロ」

そう返すのが精一杯で、下げかけた顔を彼女の肩口に落とす。「じゃあお腹にでも彫るかな」と呑気に抜かす彼女に、益々意気消沈するようだった。



『……カタクリ。ちゃんと誤解を解いてやれ、ペロリン』
『……カタクリお兄ちゃん……?』

『…ナマエに指輪を買った、個人的判断で。』





ズボンの後ろポケットに入れたままの小さな指輪を彼女に渡すのは、もう少し後にしてやろう。

素直に情愛をさらけ出しすぎるのも照れくさくて、そんな意地悪なことを少しだけ考えた。





素直になれなんて馬鹿げてる