いつのまに眠っていたのかはわからない。
眠れなくて何度も寝返りを打ったことは覚えている。気がつけばカーテンの隙間を縫って青白い光が、ほの暗い闇に一条の直線を投げかけていた。私はプリンとお揃いで買ったネックレスを握りしめたまま眠っていたらしい。

『いい、ナマエ。式のあいだあなたはどこかに身を隠しているのよ』

 その後プリンからの応答はない。幹部の誰かから結婚式を取りやめるとの連絡があるのではないかと期待していたが、どうやら杞憂に終わったらしい。

��花嫁は、ヴィンスモーク・サンジを殺す。��

 そう本人から機密事項を告げられてやっぱりここは海賊の世界のど真ん中なのだと思い知らされる。プリンの結婚式が開かれると、万国に通達が渡った時万国の住人は大喜びで昼夜宴をしていた。私は素直に喜ぶ事が出来なかった。いつも優しかったはずの幹部の全員が突如私に対して、冷たい態度を取る様になったからだ。任務を正確に遂行するためだということはわかっていた。私情を挟まないようにと私から皆、距離を取ったのだ。わかっている……それでも寂しくてたまらなかった。私は、戦う術なんて持たないのに。

 ベッドを下りて、カーテンをたぐりよせる。さ青の光が家々の輪郭を包みこんで凍りついた湖のように広がっている。この国のどこかに、今日もきっと彼はいる。そしてこの景色を同じように眺めているかもしれない。毎朝みるこの景色をこんなにきれいだと思ったことはなかった。当たり前にある日常を、たくさんの人から守られて来たこの日常を、改めて尊いものだと感じたのだ。

 私はスイートシティに向かおうと決心した。どうしても……カタクリさんに会いたかった。服は何を着ようか化粧や髪型はどうしようかと悩みぬいていたけれど正解なんてわからない。鏡の前で笑顔を作ってみたり、髪を何度も梳きなおしたりハンカチに念入りにアイロンを掛けたり、そうこうしているうちに港を発つ時間が近づいてくる。
 久しぶりに城の門前に辿り着くとチェス戎兵が血相を変えて私の元に来た。

「ナマエさん、いけません!スイートシティに入るなとあれほど幹部の方々から忠告を」
「ごめんなさい……少しだけ、お願いします。すぐに、帰りますから……」

 私が深々と頭をさげると観念したように裏口へと誘導された。豪華な廊下を曲がって幹部室の扉が見えてくる。私は、扉の前で停まった。ゆっくりとその扉を押しやると、待ち焦がれていた、不機嫌そうな顔が視界に入った。

「……」
「カタクリさん……」
「……! なにをしに来た」

 と、一瞬目を見開いたあと彼は一言だけそう告げる。私はぎこちなく俯き、扉を閉めて彼の座るソファへ向かって行くと彼と離れた位置に腰を下ろした。室内は相変わらず清潔な匂いがした。カタクリさんが、傍に座っている。
 彼は俯く私の様子を苦い顔で見守っていた。そうして、ゆっくりと小さく溜め息を吐く。

「カタクリさん、ごめんなさい。忙しかったですか?」
「ああ、……」

 低くて怒ったような声。実際怒っているのかもしれない。この緊張感を懐かしくさえ思うのはきっとこんな状況でも私が浮かれてしまっている証拠だ。唇を噛むと、リップグロスの味がする。
 冷静に、冷静に。焦ってはいけない。すぐにぐちゃぐちゃな気持ちになってしまうから。

「迎えを寄越す」
「え……あの、カタクリさんはこのあと、何か予定が……?」
「お前を島に返すだけだ」
「……」

カタクリさんの瞳が窓の外を横切る影を追う。まばたきをする。きれいで暗くてこわい横顔。すごく不機嫌そう。まず間違いなく迷惑を掛けてしまっているのに私ったらなにをはしゃいでいるのだろう。やっぱりダメだったか。こんなときですらカタクリさんは、私の身を配慮してくれているのだから——
 意気消沈しつつ、でもそんな事で落ち込んではいけないとも思う。期待するべきではなかったのだ。カタクリさんは仕方なく、私と話しているだけなのだ。
 慎み、大人、礼儀、という言葉が脳裏を過ぎる。それはいったいどういうふうにすれば守れるのだろう。私はそれを、どこかに置いてきてしまった。

「お前今夜はどうするつもりだった。不用心にこんなところに来やがって……」
「あ……わたし、特に予定は立ててなくて」
「予定はないだと?あれ程ここには来るなと」
「カタクリさんに会いたかったんです……ものすごく……」
「……」
「本当にごめんなさい……でも会いたくて…」
「……そうか。ならまあ、食事にでも誘いたいところだがな」

 カタクリさんは立ち上がって窓の方へ歩いて行く。そして下の様子を伺っている。私は彼の言葉にドキッとした。ここのところずっと冷たくされていたのだからそれは願ってもないことだ。だが彼は言葉をつづける。

「残念だが、それはできそうにない。そして、お前も今夜はもう、島へ帰るのを諦めたほうがいいな」
「え? なぜ……」
「どうも町の様子がおかしい。雑魚同士揉めているらしいが、その件だろう」
「……」
「式の間近だって言うのにこの有様か。全く、ママの心労はいかばかりかと察するな」
「たしかに、なにか物騒な雰囲気ですもんね」
「本当に状況を理解してるのか、お前は」
「……」
「……困った奴だ」

 あれだけ自制心を呼びかけていたけれども、いまになって突然、冷静になってしまう自分がいる。現実を見たからだ。私はいまでは新世界万国の住人だった。私はため息を飲みこんだ。なぜ今日だけは忘れてしまっていたのだろう。どうしようもないことだったではないか。皆から守られていたおかげでこうして暮らせていたのだから。そしてカタクリさんは海賊なのだ。なんのしがらみもない私なんかとは住む世界が違う人。

「気分が悪そうだな」
「大丈夫です」
「そんなふうには見えない」

 カタクリさんは隙の無い動作でチェス戎兵を呼びつけ水をもってくるよう手配してくれた。
 苦しい。だってやっぱりこんなにも優しい。

「ほら、これを飲め。飲んだら休んでいろ」
「はい——」

 カタクリさんはチェス戎兵が運んで来た水を手渡してくれた。受け取る手が震えてしまう。ゴクゴクと飲み干したあとカタクリさんも私もずっと無言を貫いている。
 もし私が海賊だったのであればきっと正面から堂々と城に入ったであろうしそもそも人目を忍んで入る必要もなかっただろう。
 私は羽織っていたジャケットを脱いだがカタクリさんは、窓ぎわに立ったままだった。このあたりはたそがれは早去ってしまった。窓の外から見える枝が藻掻く髪の毛のように揺れている。風がいやに強いらしい。雨が降りそうだ。

 チェス戎兵が運んで来た紅茶を受け取り、窓ぎわに立っている彼に渡しに行く。受け取りはしてくれたがその視線は窓下に向けられてばかりいる。

「お前は、こっちに近寄らないほうがいい」
「……誰かに尾けられてるんですか?」
「いや、大丈夫だ。ただ、窓べはなにがあるかわからねェからな」
「……こっちにきて、座りません?」
「気にするな。お前はすこし休んでいろ」
「でも……」
「ペロス兄にも連絡しておく。事情はわかってもらえるだろう。心配するな」
「……」

 私は彼が窓べから梃子でも動かない事を知りあきらめてソファに座った。紅茶はなんだか、味がしなくて美味しくなかった。
 人に迷惑ばかりかけて生かされている。やっぱりカタクリさんとは……一緒にいないほうがいいのだ。





 *****


 新聞を手に取ってみたり映像電伝虫をみたりして時間を潰して過ごした。
 映像電伝虫から流れる映像はいま万国で起きている事態など知る由もなく呑気な映像が流され続けているばかり。カタクリさんは相変わらず、窓べに腰を掛けている。窓に反射するカタクリさんは、けわしい顔をしつづけていた。
 私はまるで自宅でそうするように城内で入浴し、化粧もすっかり落として髪を乾かして奥の部屋のベッドに横になった。それがカタクリさんに対して、いま私ができる最大限の配慮だと思ったから。それと同時にもう彼の好意を得ようとするのはやめにしようと思った。化粧や服を気にするなんてまったく無意味な事だった。
好きだからもうやめる。こんなに迷惑を掛けてそのうえ好意を押し付ける事はできない。好きだから、もうやめる。もうこれきり会わない。もう来ない。もっと、早く気づくべきだった。こんなに、大好きなのだから——。

 額まで布団をかぶって気付かれないよう涙をぬぐいながら目を閉じた。頭がひどくズキズキする。次に目を開けたとき室内の電気は消されていた。どうやら、すこし眠っていたらしい。いま、何時なのだろう?濃紺の闇に沈んだ暗い天井だけが眼前にある。体を起こして幹部室へ戻ると、窓べに腰を預けるカタクリさんの姿が見えた。窓を見ているのではない。じっと暗闇から私のいる部屋の方を眺めていた。

「カタクリ、さん。まだ休まないんですか?」
「……ああ」

 カタクリさんはまだ私のことをじっと見つめている。なんの音もしなかった。時が止まったようだった。彼は身じろぎもしないので写真の向こう側の光景のように見えた。そのくらい、現実味を持たないのだ。彼の容姿が端整すぎるからかもしれない。

「カタクリさん。そこにいたら体冷えちゃいますよ」
「心配には及ばない」
「……私に、近づかないようにしてるの?」
「……」

 ひとりごとのように小さく呟いた私の声に、カタクリさんは、なんとも答えない。切れ長の双眸が無表情であるにも関わらず、ひどく強い力を持って私を見つめつづけている。
 距離はたっぷりある。私と彼は5メートルは離れているだろうか。丁度カタクリさんの身長くらいかな。けれどもその瞳が熱が苦悩がまるで、直接からだに触れているような気がした。
 彼は、私を見透かそうとしている。私がどのような状態であるのかを冷静に、そして熱心に追求しているのだ。

「そこにずっといると体に毒です。傍にいるのが気になるなら私、ソファに座ってます。カタクリさんはベッドでどうぞ休んでください」
「疲れたら勝手にそうする。お前は奥で休んでいろ」
「でも、もう眠れないような気がするから起きます……」

 ナイトローブにガウンを羽織ったままソファに向かう。カタクリさんはもう私を見るのをやめて窓下を見下ろしていた。ずっと同じところに腰を掛けているのだ。疲れないわけがない。
 なぜ私に近づかないようにしているのだろうか?私が怯えるとでも思っているのだろうか?じゃあ私が近づけば彼は窓から離れてくれるのだろうか?

「……なにか、見えますか?」

 ソファから窓べに踏み込み一歩ずつ近づいてみる。カタクリさんは動かない。もう一歩近づこうとしたら彼が突然窓辺から預けていた腰を離した。

「言っただろう、窓べに近寄るなと……!」
「!……」

 左手が痛い。気がつくとカタクリさんにしっかり掴まれてしまっている。私は宙ぶらりの左腕に力を入れたがそれはびくともしなかった。カタクリさんの手は汗で微かに湿っていた。

「お前の姿を誰かに見られたらどうなると思っている。それに——」
「……」
「俺にもだ。そんな恰好で男に近づくんじゃねェ」

 手はするりと離される。カタクリさんはぷいと私に背を向けてまた窓べに腰を掛ける。私は自由になった左手をぎゅっと握りしめた。
 冷静に、冷静になれ。だが………もう遅い。気持ちが、ぐちゃぐちゃになってしまった。

「ところでお前は」
「……?」
「きょうはずっと顔色がよくないな」

 私は、くちびるを噛んだ。もう自分を守ってくれる化粧の味はしない。すっかり、すっぴんなのだ。もう取り繕う事はない。ぐちゃぐちゃになった気持ちの分解を試みる。ただ、謝りたかった。彼に、多大な迷惑を掛けているという罪悪感と、自分は彼を巻き込んでしまうという無力感と、それから、なにか不吉な予感と。
 謝ってもカタクリさんに対して何一つ報いることはできないだろうけれども。

「いえ、そんなことはないんです」
「そんなことがあるから言っている」
「体調はいいんです。ちょっと緊張しただけですから……」
「お前が緊張する理由などなにもないだろうと思うが」
「うん……カタクリさんは、いつも気を張って私を守ってくれますもんね。私が緊張する必要はないんです、けど……」
「……」

 カタクリさんは、ゆっくり私に振り向いた。シャープな、締まった顔、きりりとした双眸。彼が美しければ美しいほど惹かれれば惹かれるほど、胸が苦しくなる。私はもうカタクリさんに負担を強いたくない。だからもう会わない。これきりだ。これきりにすべきだ。こんなに、好きになってしまったから。こんなに、幸せになってほしいと思うほど、誰かを好きになれたから。

「なぜ、そんな顔をする」

 暗闇の中でそっと呻くように低く彼のくちびるが囁いた。わたしは、どんな顔をしているのだろう。自分ではよくわからない。
 カタクリさんのほうこそそんなにこわい顔をしないでほしい。眉間を寄せて、そんなふうに目を吊り上げて。

「お前は極端なところがあるらしい。危うさを感じる」
「……そうですか?」
「こうと決めれば猪突猛進してしまう。しかし根が善良なだけに、他者から見れば考えが明け透けだ」
「……」
「それを悪人に利用されるリスクがある。悪人というのは常に他人の罪悪感を突ついて操ろうとしている。善良な人間ほど罪悪感に弱いものだ」
「私は善良じゃないんです。それに悪人なんて私の周りにいません」
「……悪人なら、いると思う」
「……」
「——ここに。」

 彼の大きなてのひらが私の頬に伸びてきた。そうして頬ごと顎を持ち上げると、もう片方の腕が私をぐいっと抱き寄せた。視界には、カタクリさんの双眸があった。彼は目を開けたまま顔と顔を近づけた。唇が触れる瞬間になって、私は思わずかたく目を閉じた。

「!……」

 くちづけはほんの一瞬の事。くちびるの皮と皮がさっと掠めただけだった。でも——死んでしまうかと思った。体の中枢から後から後から熱情があふれてこのまま溺れてしまいそうだ。

「カタクリ、さん——」

 ほんの刹那的な接触が私の体力を、酸素を、奪っていった。私の息は切れ、胸郭が、酸素を求めて上下している。頬が燃えるように熱い。だがカタクリさんは冷たい目で私を見つめている。その苦い唇がさっき私に触れたとはとても思えなかった。すでにストールに隠されてしまったけれどとにかく潔癖な唇をしているのだ。

「わたし……もうこれきり、会いません」
「……なぜだ」
「カタクリさんを巻き込みたくないからです」

 喘ぎ喘ぎつぶやくと彼の目元がますます厳しくなる。

「馬鹿を言うな。最初に巻き込んだのは俺たちのほうだ」
「カタクリさんは海賊ですもんね。だけど私はただの女で一般人です。守ってもらう度にカタクリさんを、危険な目に遭わせたくないです」
「俺がそれを、承知すると思っているのか」

 あ……、
 事態を飲みこむ前に、もういちど唇が降りてくる。今度はもっと深くもっと長く強く掻き抱きながら。指が肋骨を掴んで食い込んでいる。胸は胸に押し付けられ頭は抱えられ、脚と脚は触れあっている。ちゅっと音がしてくちびるが離れ、そのとき見上げた吐息を洩らす彼の顔。ぞっとした。あまりにも、きれいすぎて。

「でも……わたし、カタクリさんに、嫌われているって……」
「……?」
「カタクリさんに嫌われていると思っていたんです」
「なぜだ」
「迷惑ばかり掛けて……私の存在は負担でしかない、って……」
「……確かに、俺はお前が嫌いだ」
「……」
「だが、どうしても憎めない」
「……っ」

 くるりと体が回って、壁に押し付けられる。カタクリさんは私の耳の下やうなじに唇を這わせたあとまたキスをして、また目をみた。唇に彼のため息がかかる。

「軽蔑するか」

 と、彼は言う。わたしは首を横に振る。

「………すまない」

 そう弱ったように呻いて、またキス。まるで言い訳するように、何度もくちづけした。
 ふたりとも同じ気持ちだった。激情のままにくちびるを貪りあった。幸せだと思った。いままで生きていて、一番強く——。

 突然、電伝虫が鳴り響いて冷や水を浴びせられる。カタクリさんはぴたりと動きを止めて、ややあってから私から体を離した。子電伝虫を懐から取り出し私に背を向けて、また窓ぎわに立つ。私は羽織っていたガウンが床に落ちナイトローブが肌蹴ていたことに気づいた。いつのまにこんなことになっていたのだろう。驚きながらもさっと身支度を整える。さっきの出来事が夢みたいに彼のほうはちょっとの乱れもないというのに。

「ああ……無事だ。いまは、スイートシティの城の中だ。——ああ。宜しく伝えてくれ」

 電伝虫を切ると彼は、不機嫌そうな顔で私を一瞥した。

「厳戒態勢は解かれた。島まで送る」
「……はい。着替えてきますね」
「ああ。」

 バスルームで服に着替え、化粧を軽く整えてから幹部室に戻る。カタクリさんは誰かにまた電話しているところだったが、私を見て手短に通話を切り上げた。

「行くぞ」
「はい……」

 いきなりすぎる事態にまだ頭がくらくらしている。くちびるにまだやけどのような熱が残っている。それなのにふたりとも真面目くさった顔で、部屋を出ていくのだ。正面の門前に辿り着くと、門番が門を開け放つ。カタクリさんが門番に下がるよう軽く手で指示をした事でカタクリさんとふたりきりになった。このままではこれきりになってしまう。これきりになってしまったほうがいい。でも、なにか言わなくちゃと思う。なにを言ってもすべて誤魔化しになってしまいそうで。本当に言いたいことが自分でもよくわからない。

「今もまだ、もう会わないと思っているのか」
「……、」

 突然見透かされて、私は驚いて顔を上げる。カタクリさんは朝焼けに目を細めている。だが朝焼けよりも彼の赤っぽい睫毛と瞳こそ、まぶしく見える。

「私も、もう何度もそう思いました。今日久しぶりにカタクリさんに会ってから考えが変わりましたけど」

 私はうつむいて自分の手を見下ろしていた。

「——カタクリさんが、好きです」

 ひどく涙声で、わたしは言った。

「好きだから、負担になりたくありません」

 街はすでに水色の明るい空が広がっていた。
 ああ、夜が明けてしまった。カタクリさんは無表情でまばたきをしている。冷たい空気の中彼の匂いを探り当て胸がきゅっと熱くなる。
 離れるのは、とてもつらい。だが、キスした事、とても幸せだった。その余韻だけで残りの一生を生きていけると思った。

「ナマエ」

 突然名前を呼ばれて気持ちが高揚する。久方ぶりに彼の口から私の名前を呼ばれた気がしたから。

「……はい」
「俺もお前に執着している。……正直に言うと惚れている」
「……」
「お前を忘れたい」

 走馬灯のように様々な思い出が駆け巡った。初めて会ったときのこと。視線が、こわかったこと。関わりが増えるごとにトゲが抜けそれでいて距離が近くなっていった。カタクリさんがいつもそばで守っていてくれた日々のこと。
 ああ、すべて昨日の事のようだ。彼の苦悩を置き去りにスイートシティの景色は対岸の出来事のように朝陽を照り返し豊かに輝いている。
 私はカタクリさんの横顔をじっと見つめた。彼は視線に気づくと、ふっと目元を歪めた。

「じきに全て片付く」
「はい」

 返事のあと見た町の景色はいままでもずっと見た事のあるものだった。馴染んだ土地、馴染んだ風、馴染んだ匂い。
 言葉が見つからない。カタクリさんが好き。他になにも伝えることがないほどに。

「ナマエ」

 また名前を呼ばれて顔を上げると、カタクリさんが私を見つめていた。睫毛の翳りを帯びた瞳は彼の心を映しだしている。いつもは完璧なポーカーフェイスに隠されているその精神が、今では私と同じ想いであると訴えかけていた。
 カタクリさんは少し屈んで、私の頬に落ちた髪を耳に掛けた。その長い綺麗な指が私の頬に触れようとしてそのまま離れていく。彼のためらいが、私に伝わってくる。これから起こるであろう結婚式でのこと。カタクリさんはママを裏切ることはできないと思っている。私は私でこの任務が終わったらプリンにもカタクリさんにも他の家族皆にも解放されてほしいと思っている。だからこそ、こんなに苦しいのだ。

「俺は死んでも海賊だ。お前を表立って幸福にすることは難しいだろう」
「……」
「お前が俺ともう会わないという選択をするなら、それは間違っちゃいない。俺もお前の立場ならそうする。お前には幸せになってもらいたい。だから……」
「……」
「これまでと同じように、お前がこの国を出るまで——他の誰か別の男のものになるまで俺は陰ながら見守らせてもらう」

 カタクリさんは穏やかな顔だった。いつもの無表情な顔。だけど、いまになってやっとわかる。微かな感情の表出。それは瞳の動きやまばたきの回数から、うっすらと察することができる。なぜだろう?いつもは逆なのに、いまでは私のほうがきっと穏やかではない顔をしているだろう。

「私はそんなこと望んでません。私はカタクリさんに、普通になんの遠慮もなく自分の人生を生きてほしいんです」
「……」
「私のほうこそカタクリさんを表立って幸福にすることはできません。海賊でもない一般の庶民だから。でもカタクリさんは違います。海賊の——ビッグマム海賊団の大幹部で、だから」
「もしお前の言うとおりにするなら、今お前を馬鹿正直に島まで送り届けようとはしねェ」
「え?」
「このまま無理やり俺の島に連れて帰っているところだ」
「え……。」
「……いまもまだ迷っている。お前が、わけのわからないことを言うからだ」
「……」

 カタクリさんは、やはり穏やかな顔をしている。少しだけ怒ったような型のやわらかな眉、鋭い切れ長の瞳、長い睫毛、高い鼻筋、隠された唇。それから触れるのを恐れている、長くて優しい指先。
 ひとつひとつが、私を思い遣っているような優しさを感じさせてくれる。

 一緒にいたい。幸せじゃなくてもいい。ずっと傍にいたい。
 確かに自分でもわけがわからない。私は泣きじゃくりそうな気がしてぐっと息を呑んで自分を戒める。
 カタクリさんのことが好きだ。私は海賊じゃないけれどその気持ちを失くす事はできない。

「連れて、帰ってください」

 半べそで私は言う。カタクリさんの眉がぴくりと吊り上る。そして、小さくため息をついて瞼の端で辺りの様子を伺っていた。

「本気か」
「……」
「それが冗談でも、俺は……」
「本気です。そのことは、よくご存知かと…」

 穏やかだった表情がすこしずつ険しくなる。眉を寄せて彼は、渋い顔をする。

「きょうは帰れ。結婚式の前だ。お前に乱暴な真似はできない」
「……」
「日を改めよう。……お前を大切にしたいし、俺も冷静になれる」
「……約束してくれますか?」
「……」

 カタクリさんは組んでいた腕を解いてゆっくりと片膝をついた。そのままぎゅっと私の手を握った。その手から、うっすら緊張が伝わってきて私は、たまらない気持ちになった。

「結婚式を無事に終えたら」
「……はい」
「こちらから連絡を入れよう」
「はい」

 本当だろうか、また無視するんじゃないだろうかと一瞬だけ心配する。そう懸念する事すらいまは嬉しかった。

「——はい。いつまでも待ってます」





 *****


 カタクリさんはあれから本当に連絡をくれた。電伝虫で電話を掛けてきてくれたのだ。
 電話ごしの彼の声は、なんだかいつも以上に怒っているような気難しそうな感じがした。

『迎えを送る、飯でも行くか』

 電伝虫越しに伝えられたその台詞の内容とは裏腹なドスの効いた声でカタクリさんが言うからまるきり海賊みたいだ。正真正銘の海賊なんだけれども。私は気づかれないように、小さく笑った。

 夕暮れになり約束の時刻を迎える。スイートシティに到着すると足早に城に向かって幹部室に入った。からだに合ったいつもの革のジャケット、きれいな型の、黒いレザーパンツを身に着けている。いつもの恰好なのに、映画のワンシーンのような人に見えて。私に気付いて優しく瞳を細めるのだから変な感じがする。現実なのだろうか。足元がふわふわする。
 私の登場に苦い顔をしていたオーブンさんとダイフクさんがそれでも思うところがあるのかやれやれと手を払って言葉には出さずとも「行け」との合図をみせる。これでもう公認のようなものだ。ただ、ペロスペローさんがどういう反応を示すかはその場には居なかったので顔を合わせていないからわからない。もしかするともうカタクリさんとの間で、話はついているのかもしれない。

 ふたりでスイートシティを、しばらく無言で歩いた。カタクリさんはまっすぐ正面を見据えている。町の光の情景が、彼の横顔の美しさを鮮やかに横ぎっていく。

「なにか食いたいものは。どこか行きたいところはあるか」

 5分ほど歩いて、初めてカタクリさんが口を開く。私も私で黙りこんでいた。話したい事がいっぱいあるけれどそれ以上に彼が黙っているのが楽しかった。

「カタクリさんの住むお城に行きたいです」

 はしたないだろうか?でも嫌われる事はないだろう。ちら、とカタクリさんを見やると彼も私を横目で一瞥する。

「もちろんそのつもりだが……いきなり行っても構わないか」
「はい。行ってください」

 カタクリさんのコムギ島へ向かう船の中。
 先ほど歩いた道とは空気さえ変わったような気がする。穏やかな波だ。
 船は、まっすぐに走りつづけている。あの島だろうか。それとももっと向こうに見えるあの島だろうか。私の胸の鼓動が、彼にも伝わっていたらどうしよう。私は緊張して、くちびるを噛んだ。

「恐いか?」

 と、彼が言う。私は「いいえ」と答える。

「楽しみです」
「特段、なにもない城だが……」
「はい——知ってます。でも、カタクリさんがいてくれるから」
「……」

 カタクリさんは何だか仏頂面を下げている。元々そういう顔だったのか、照れているのか、よくわからないほど絶妙な表情だ。彼のお城に着いたらまずどうしようか。紅茶を飲んでこれからのことをゆっくり話して——。

 私は、自分と彼の立場のことに囚われすぎていた。そんなのはもうたくさんだ。けれど時が経ちお互いの存在が当たり前のようになったらようやく過去の事も落ち着いて振り返れるようになるのだろう。あんなこともあったねと話せるようになるのだろう。
 そしていつかカタクリさんがいる場所が私の家になれたら。私のいる場所がカタクリさんにとっての家になれたなら……表立った幸福ではなくとも、きっと生きててよかったと思えるだろう。

「ナマエ」
「はい」
「見えてきた。あれだ」

 綺麗な島のシルエットが夕陽と共に近づいてくる。彼のお城に着いたらまずどうしようか。紅茶を飲んでこれからの事を話してそれから。

 怒った顔、何でもない仕草、ためいき、せつなげな瞳、声、指先、これからの生活。
 思い出のようにふたりの未来が見えてきて、眩しくて愛おしくて、私は目を細めた。





 

高身長からの恋文

君の小さな手を包んだあの日




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