いつのまに眠っていたのかはわからない。
眠れなくて何度も寝返りを打ったことは覚えている。気がつけばカーテンの隙間を縫って青白い光がほの暗い闇に一条の直線を投げかけていた。

私はプリンとお揃いで買ったネックレスを握りしめたまま眠っていたらしい。

『いい、ナマエ。式のあいだ、あなたはどこかに身を隠しているのよ』

その後、プリンからの応答はない。
幹部の誰かから結婚式を取りやめるとの連絡があるのではないかと期待していたが、どうやら杞憂に終わったらしい。

“花嫁は、ヴィンスモーク・サンジを殺す。”
そう本人から機密事項を告げられて、やっぱりここは海賊の世界のど真ん中なのだと思い知らされる。

プリンの結婚式が開かれると万国に通達が渡ったとき、万国の住人は大喜びで、昼夜宴をしていた。

私は素直に喜ぶことが出来なかった。いつも優しかったはずの幹部の全員が突如、私に対して冷たい態度を取る様になったからだ。

任務を正確に遂行するためだということはわかっていた。私情を挟まないようにと私から皆、距離を取ったのだ。
わかっている……それでも、寂しくてたまらなかった。私は戦う術なんて持たないのに。

ベッドを下りてカーテンをたぐりよせる。さ青の光が家々の輪郭を包みこんで凍りついた湖のように広がっている。

この国のどこかに、今日もきっと彼はいる。
そしてこの景色を、同じように眺めているかもしれない。

毎朝みるこの景色を、こんなにきれいだと思ったことはなかった。当たり前にある日常を、たくさんの人から守られて来たこの日常を、改めて尊いものだと感じたのだ。

私はスイートシティに向かおうと決心した。
どうしても……カタクリさんに会いたかった。

服はなにを着ようか、化粧や髪型はどうしようかと悩みぬいていたけれど、正解なんてわからない。鏡の前で笑顔を作ってみたり髪を何度も梳きなおしたりハンカチに念入りにアイロンを掛けたり、そうこうしているうちに港を発つ時間が近づいてくる。

久しぶりに城の門前に辿り着くとチェス戎兵が血相を変えて私の元に来た。

「ナマエさん!いけません…スイートシティに入るなと、あれほど幹部の方々から忠告を…」
「ごめんなさい……少しだけ、お願いします。すぐに、帰りますから……」

私が深々と頭をさげると、観念したように裏口へと誘導された。豪華な廊下を曲がって幹部室の扉が見えてくる。

私は扉の前で停まった。ゆっくりとその扉を押しやると待ち焦がれていた、不機嫌そうな顔が視界に入った。

「……」
「カタクリさん……」
「……! なにをしに来た」

と、一瞬目を見開いたあと彼は一言だけそう告げる。

私はぎこちなく俯き扉を閉めて彼の座るソファへ向かって行くと彼と離れた位置に腰を下ろした。

室内は相変わらず清潔な匂いがした。
カタクリさんが、傍に座っている。

彼は俯く私の様子を苦い顔で見守っていた。
そうして、ゆっくりと小さく溜め息を吐く。

「カタクリさん、ごめんなさい。忙しかったですか?」
「ああ、……」

低くて、怒ったような、声。実際怒っているのかもしれない。この緊張感を懐かしくさえ思うのは、きっとこんな状況でも私が浮かれてしまっている証拠だ。唇を噛むとリップグロスの味がする。冷静に、冷静に。焦ってはいけない。すぐにぐちゃぐちゃな気持ちになってしまうから。

「迎えを寄越す」
「え……あの、カタクリさんはこのあと、何か予定が……?」
「お前を島に返すだけだ」
「……」

カタクリさんの瞳が窓の外を横切る影を追う。まばたきをする。きれいで、暗くて、こわい横顔。すごく不機嫌そう。
まず間違いなく迷惑を掛けてしまっているのに私ったら、なにをはしゃいでいるのだろう。

やっぱりダメだったか。
こんなときですらカタクリさんは私の身を配慮してくれているのだから——

意気消沈しつつ、でも、そんなことで落ち込んではいけない、とも思う。期待するべきではなかったのだ。カタクリさんは仕方なく私と話しているだけなのだ。

……慎み、大人、礼儀、という言葉が脳裏を過ぎる。それはいったい、どういうふうにすれば守れるのだろう。私はそれをどこかに置いてきてしまった。

「お前、今夜はどうするつもりだった。不用心に、こんなところに来やがって…」
「あ……わたし、特に予定は立ててなくて」
「予定はないだと?あれほどここには来るなと——」
「カタクリさんに会いたかったんです……ものすごく……」
「……」
「本当にごめんなさい……でも、会いたくて…」
「……そうか。ならまあ、食事にでも誘いたいところだがな」

カタクリさんは立ち上がって窓の方へ歩いて行く。そして下の様子を伺っている。私は、彼の言葉にドキッとした。ここのところずっと冷たくされていたのだから、それは願ってもないことだ。だが彼は言葉をつづける。

「残念だが、それはできそうにない。そして、お前も今夜はもう、島へ帰るのを諦めたほうがいいな」
「え? なぜ……」
「どうも町の様子がおかしい。雑魚同士揉めているらしいが、その件だろう」
「……」
「式の間近だって言うのに……この有様か。全く、ママの心労はいかばかりかと察するな」
「たしかに、なにか物騒な雰囲気ですもんね」
「本当に状況を理解してるのか、お前は」
「……」
「……困った奴だ」

あれだけ自制心を呼びかけていたけれども、いまになって突然、冷静になってしまう自分がいる。現実を見たからだ。

私はいまでは新世界、万国の住人だった。私はため息を飲みこんだ。なぜ今日だけは忘れてしまっていたのだろう。どうしようもないことだったではないか。皆から守られていたおかげで、こうして暮らせていたのだから。そしてカタクリさんは海賊なのだ。なんのしがらみもない私なんかとは住む世界が違う人。

「気分が悪そうだな」
「大丈夫です」
「そんなふうには見えない」

カタクリさんは隙の無い動作でチェス戎兵を呼びつけ水をもってくるよう手配してくれた。——苦しい。だって、やっぱり……こんなにも優しい。

「ほら、これを飲め。飲んだら休んでいろ」
「はい——」

カタクリさんはチェス戎兵が運んで来た水を手渡してくれた。受け取る手が震えてしまう。ゴクゴクと飲み干したあとカタクリさんも私もずっと無言を貫いている。

もし私が海賊だったのであれば、きっと正面から堂々と城に入ったであろうし、そもそも人目を忍んで入る必要もなかっただろう。

私は羽織っていたジャケットを脱いだが、カタクリさんは窓ぎわに立ったままだった。このあたりは、たそがれは早、去ってしまった。窓の外から見える枝が藻掻く髪の毛のように揺れている。風がいやに強いらしい。雨が降りそうだ。

チェス戎兵が運んで来た紅茶を受け取り、窓ぎわに立っている彼に渡しに行く。受け取りはしてくれたが、その視線は窓下に向けられてばかりいる。

「お前は、こっちに近寄らないほうがいい」
「……誰かに尾けられてるんですか?」
「いや、大丈夫だ。ただ、窓べはなにがあるかわからねェからな」
「……こっちにきて、座りません?」
「気にするな。お前はすこし休んでいろ」
「でも……」
「ペロス兄にも連絡しておく。事情はわかってもらえるだろう。心配するな」
「……」

私は彼が窓べから梃子でも動かないことを知り、あきらめてソファに座った。紅茶はなんだか味がしなくて美味しくなかった。

人に迷惑ばかりかけて生かされている。
やっぱり、カタクリさんとは……一緒にいないほうがいいのだ。





*****

新聞を手に取ってみたり、映像電伝虫をみたりして時間を潰して過ごした。映像電伝虫から流れる映像はいま万国で起きている事態など知る由もなく呑気な映像が流され続けているばかり。

カタクリさんは相変わらず窓べに腰を掛けている。窓に反射するカタクリさんは、けわしい顔をしつづけていた。

私はまるで自宅でそうするように城内で入浴し、化粧もすっかり落として髪を乾かして奥の部屋のベッドに横になった。それがカタクリさんに対して、いま私ができる最大限の配慮だと思ったから。

それと同時に、もう彼の好意を得ようとするのはやめにしようと思った。化粧や服を気にするなんて、まったく無意味なことだった。

好きだからもうやめる。こんなに迷惑を掛けて、そのうえ好意を押し付けることはできない。

好きだからもうやめる。
もうこれきり会わない。もう来ない。

もっと早く気づくべきだった。
こんなに、大好きなのだから——。

額まで布団をかぶって気付かれないよう涙をぬぐいながら目を閉じた。頭がひどくズキズキする。


次に目を開けたとき室内の電気は消されていた。どうやら、すこし眠っていたらしい。いま何時なのだろう?濃紺の闇に沈んだ暗い天井だけが眼前にある。

「……」

体を起こして幹部室へ戻ると窓べに腰を預けるカタクリさんの姿が見えた。窓を見ているのではない。じっと暗闇から私のいる部屋の方を眺めていた。

「……カタクリ、さん。……まだ休まないんですか?」
「……ああ」

カタクリさんは、まだ私のことをじっと見つめている。何の音もしなかった。時が止まったようだった。

彼は身じろぎもしないので写真の向こう側の光景のように見えた。そのくらい現実味を持たないのだ。彼の容姿が端整すぎるからかもしれない。

「カタクリさん。そこにいたら、体冷えちゃいますよ」
「心配には及ばない」
「……私に、近づかないようにしてるの?」
「……」

ひとりごとのように小さく呟いた私の声にカタクリさんは、なんとも答えない。切れ長の双眸が無表情であるにも関わらず、ひどく強い力を持って私を見つめつづけている。

距離は、たっぷりある。私と彼は5メートルは離れているだろうか。丁度、カタクリさんの身長くらいかな。けれどもその瞳が、熱が、苦悩が——まるで直接からだに触れているような気がした。

彼は私を見透かそうとしている。私がどのような状態であるのかを冷静に、そして熱心に追求しているのだ。

「そこにずっといると体に毒です。傍にいるのが気になるなら私、ソファに座ってます。カタクリさんはベッドでどうぞ休んでください」
「疲れたら勝手にそうする。お前は奥で休んでいろ」
「でも、もう眠れないような気がするから起きます……」

ナイトローブにガウンを羽織ったままソファに向かう。カタクリさんはもう私を見るのをやめて窓下を見下ろしていた。ずっと同じところに腰を掛けているのだ。疲れないわけがない。

なぜ私に近づかないようにしているのだろうか?私が怯えるとでも思っているのだろうか?じゃあ私が近づけば、彼は窓から離れてくれるのだろうか?

「……なにか、見えますか?」

ソファから窓べに踏み込み一歩ずつ近づいてみる。カタクリさんは動かない。もう一歩近づこうとしたら彼が突然、窓辺から預けていた腰を離した。

「言っただろう、窓べに近寄るなと……!」
「!……」

——左手が痛い。気がつくとカタクリさんにしっかり掴まれてしまっている。私は宙ぶらりの左腕に力を入れたが、それはびくともしなかった。カタクリさんの手は汗で微かに湿っていた。

「お前の姿を誰かに見られたら、どうなると思っている。それに——」
「……」
「俺にもだ。そんな恰好で男に近づくんじゃねェ」

手は、するりと離される。カタクリさんはぷいと私に背を向けて、また窓べに腰を掛ける。私は自由になった左手を、ぎゅっと握りしめた。

冷静に、冷静になれ。
だが、………もう遅い。
気持ちが、ぐちゃぐちゃになってしまった。

「ところでお前は」
「……?」
「きょうはずっと顔色がよくないな」

私は、くちびるを噛んだ。もう自分を守ってくれる化粧の味はしない。すっかりすっぴんなのだ。もう取り繕うことはない。

ぐちゃぐちゃになった気持ちの分解を試みる。
ただ、謝りたかった。

彼に多大な迷惑を掛けているという罪悪感と、自分は彼を巻き込んでしまうという無力感と、それから、なにか不吉な予感と。
謝っても、カタクリさんに対して何一つ報いることはできないだろうけれども。

「いえ、そんなことはないんです」
「そんなことがあるから言っている」
「体調はいいんです。ちょっと緊張しただけですから……」
「お前が緊張する理由など、なにもないだろうと思うが」
「うん……カタクリさんは、いつも気を張って私を守ってくれますもんね。私が緊張する必要はないんです、けど……」
「……」

カタクリさんは、ゆっくり私に振り向いた。
シャープな、締まった顔、きりりとした双眸。

彼が美しければ美しいほど、惹かれれば惹かれるほど、胸が苦しくなる。

わたしはもう、
カタクリさんに負担を強いたくない。

だから、もう会わない。これきりだ。
これきりにすべきだ。
こんなに、好きになってしまったから。

こんなに幸せになってほしいと思うほど誰かを好きになれたから。


「なぜ、そんな顔をする」

暗闇の中で、そっと呻くように低く、彼のくちびるが囁いた。わたしは、どんな顔をしているのだろう。自分ではよくわからない。

カタクリさんのほうこそ、そんなにこわい顔をしないでほしい。眉間を寄せて……そんなふうに目を吊り上げて。

「お前は極端なところがあるらしい。危うさを感じる」
「……そうですか?」
「こうと決めれば猪突猛進してしまう。しかし根が善良なだけに、他者から見れば考えが明け透けだ」
「……」
「それを悪人に利用されるリスクがある。悪人というのは、常に他人の罪悪感を突ついて操ろうとしている。善良な人間ほど罪悪感に弱いものだ」
「私は善良じゃないんです。それに、悪人なんて、私の周りにいません」
「……悪人なら」
「……」
「いると思う——ここに。」

彼の大きなてのひらが、私の頬に伸びてきた。そうして、頬ごと顎を持ち上げると、もう片方の腕が私をぐいっと抱き寄せた。

視界にはカタクリさんの双眸があった。彼は目を開けたまま顔と顔を近づけた。唇が触れる瞬間になって、私は思わずかたく目を閉じた。

「!……」

——くちづけは、ほんの一瞬のこと。
くちびるの皮と皮が、さっと掠めただけだった。でも、死んでしまうかと思った。体の中枢から、後から後から熱情があふれて、このまま溺れてしまいそうだ。


「カタクリ、さん——」

ほんの刹那的な接触が、私の体力を、酸素を、奪っていった。私の息は切れ、胸郭が、酸素を求めて上下している。頬が燃えるように熱い。

だがカタクリさんは冷たい目で私を見つめている。その苦い唇がさっき私に触れたとはとても思えなかった。すでにストールに隠されてしまったけれど、とにかく潔癖な唇をしているのだ。

「わたし……もうこれきり、会いません」
「……。なぜだ」
「カタクリさんを、巻き込みたくないから、です」

喘ぎ喘ぎつぶやくと彼の目元がますます厳しくなる。

「馬鹿を言うな。最初に巻き込んだのは俺たちのほうだ」
「でも、カタクリさんは海賊ですもんね。だけど私はただの女で、一般人です。守ってもらうたびにカタクリさんを危険な目に遭わせたくないです」
「……俺がそれを、承知すると思っているのか」

 あ……、

事態を飲みこむ前に、もういちど唇が降りてくる。こんどはもっと深く、もっと長く、強く掻き抱きながら。指が肋骨を掴んで食い込んでいる。胸は胸に押し付けられ頭は抱えられ、脚と脚は触れあっている。

ちゅっと音がしてくちびるが離れ、そのとき見上げた吐息を洩らす彼の顔。ぞっとした。あまりにも、きれいすぎて。

「でも、……わたし、カタクリさんに、嫌われているって……」
「……?」
「カタクリさんに、嫌われていると、思っていた、んです」
「なぜだ」
「迷惑ばかり、掛けて……私の存在は、負担でしかない、って……」
「……確かに、俺はお前が嫌いだ」
「……」
「だが、どうしても憎めない」
「……っ」

くるりと体が回って壁に押し付けられる。カタクリさんは私の耳の下やうなじに唇を這わせたあと、またキスをして、また目をみた。唇に、彼のため息がかかる。

「軽蔑するか」

と、彼は言う。
わたしは首を横に振る。

「………すまない」

そう、弱ったように呻いて、またキス。まるで言い訳するように、何度もくちづけした。

ふたりとも同じ気持ちだった。激情のままに、くちびるを貪りあった。幸せだと思った。いままで生きていて、一番強く——。


突然、電伝虫が鳴り響いて冷や水を浴びせられる。カタクリさんはぴたりと動きを止めて、ややあってから私から体を離した。

子電伝虫を懐から取り出し私に背を向けて、また窓ぎわに立つ。私は羽織っていたガウンが床に落ち、ナイトローブが肌蹴ていたことに気づいた。いつのまにこんなことになっていたのだろう。驚きながらも、さっと身支度を整える。さっきの出来事が夢みたいに彼のほうはちょっとの乱れもないというのに。

「ああ、……無事だ。いまはスイートシティの城の中だ。……ああ。宜しく伝えてくれ」

電伝虫を切ると彼は不機嫌そうな顔で私を一瞥した。

「厳戒態勢は解かれた。島まで送る」
「……はい。着替えてきますね」
「ああ。」

バスルームで服に着替え、化粧を軽く整えてから幹部室に戻る。カタクリさんは誰かにまた電話しているところだったが私を見て手短に通話を切り上げた。

「行くぞ」
「はい……」

いきなりすぎる事態に、まだ頭がくらくらしている。くちびるに、まだやけどのような熱が残っている。それなのに、ふたりとも真面目くさった顔で部屋を出ていくのだ。

正面の門前に辿り着くと門番が門を開け放つ。カタクリさんが門番に下がるよう軽く手で指示をしたことでカタクリさんとふたりきりになった。

このままでは、これきりになってしまう。これきりになってしまったほうがいい。でも、なにか言わなくちゃ……と思う。

なにを言っても、すべて誤魔化しになってしまいそうで。本当に言いたいことが自分でもよくわからない。

「いまもまだ、もう会わないと思っているのか」
「……、」

突然見透かされて私は驚いて顔を上げる。カタクリさんは朝焼けに目を細めている。だが朝焼けよりも彼の赤っぽい睫毛と瞳こそ、まぶしく見える。

「私も、もう何度もそう思いました。今日久しぶりにカタクリさんに会ってから考えが変わりましたけど」

私はうつむいて、自分の手を見下ろしていた。

「——カタクリさんが、好きです」

ひどく涙声で、わたしは言った。

「好きだから、負担になりたくありません」

街は、すでに水色の明るい空が広がっていた。
ああ、夜が明けてしまった。

カタクリさんは無表情でまばたきをしている。冷たい空気の中、彼の匂いを探り当て胸がきゅっと熱くなる。

離れるのは、とてもつらい。だが、キスしたこと、とても幸せだった。その余韻だけで残りの一生を生きていけると思った。


「ナマエ」

突然、名前を呼ばれて気持ちが高揚する。久方ぶりに彼の口から私の名前を呼ばれた気がしたから。

「……はい」
「俺も、お前に執着している。……正直に言うと、惚れている」
「……」
「お前を忘れたい」

走馬灯のように様々な思い出が駆け巡った。
初めて会ったときのこと。視線がこわかったこと。

関わりが増えるごとにトゲが抜け、それでいて距離が近くなっていった。カタクリさんがいつもそばで守っていてくれた日々のこと。

ああ、すべてきのうのことのようだ。
彼の苦悩を置き去りにスイートシティの景色は対岸の出来事のように朝陽を照り返し豊かに輝いている。

私はカタクリさんの横顔をじっと見つめた。
彼は視線に気づくと、ふっと目元を歪めた。

「じきに全て片付く」
「はい」

返事のあと見た町の景色は、いままでもずっと見たことのあるものだった。馴染んだ土地、馴染んだ風、馴染んだ匂い。

言葉が見つからない。カタクリさんが好き。他になにも伝えることがないほどに。

「ナマエ」

また名前を呼ばれて顔を上げるとカタクリさんが私を見つめていた。睫毛の翳りを帯びた瞳は彼の心を映しだしている。いつもは完璧なポーカーフェイスに隠されているその精神が、いまでは私と同じ想いであると訴えかけていた。

カタクリさんは少し屈んで私の頬に落ちた髪を耳に掛けた。その長い綺麗な指が私の頬に触れようとして、そのまま離れていく。彼のためらいが私に伝わってくる。

これから起こるであろう結婚式でのこと。カタクリさんはママを裏切ることはできないと思っている。私は私でこの任務が終わったらプリンにもカタクリさんにも他の家族皆にも解放されてほしいと思っている。だからこそこんなに苦しいのだ。

「俺は死んでも海賊だ。お前を表立って幸福にすることは難しいだろう」
「……」
「お前が俺ともう会わないという選択をするなら、それは間違っちゃいない。俺もお前の立場ならそうする。お前には幸せになってもらいたい。だから……」
「……」
「これまでと同じように、お前がこの国を出るまで——他の誰か別の男のものになるまで俺は、陰ながら見守らせてもらう」

カタクリさんは穏やかな顔だった。いつもの無表情な顔。だけど、いまになってやっとわかる。微かな感情の表出。それは瞳の動きや、まばたきの回数から、うっすらと察することができる。

なぜだろう?いつもは逆なのに、いまでは私のほうがきっと穏やかではない顔をしているだろう。

「私は、そんなこと望んでません。私はカタクリさんに、普通に、なんの遠慮もなく自分の人生を生きてほしいんです」
「……」
「私のほうこそ、カタクリさんを表立って幸福にすることはできません。海賊でもない一般の庶民だから。でもカタクリさんは違います。海賊の、ビッグマム海賊団の大幹部で……だから……」
「もしお前の言うとおりにするなら、いま、お前を馬鹿正直に島まで送り届けようとはしねェ」
「え?」
「このまま、無理やり俺の島に連れて帰っているところだ」
「え……。」
「……いまもまだ、迷っている。……お前が、わけのわからないことを言うからだ」
「……」

カタクリさんは、やはり穏やかな顔をしている。すこしだけ怒ったような型のやわらかな眉、鋭い切れ長の瞳、長い睫毛、高い鼻筋、隠された唇。それから、触れるのを恐れている、長くて優しい指先。

ひとつひとつが私を思い遣っているような優しさを感じさせてくれる。


一緒にいたい。幸せじゃなくてもいい。
ずっと傍にいたい。

確かに自分でもわけがわからない。私は泣きじゃくりそうな気がしてぐっと息を呑んで自分を戒める。

カタクリさんのことが好きだ。私は海賊じゃないけれど、その気持ちを失くすことはできない。


「連れて、帰ってください」

半べそで、わたしは言う。カタクリさんの眉がぴくりと吊り上る。そして小さくため息をついて瞼の端で辺りの様子を伺っていた。

「本気か」
「……」
「それが冗談でも、俺は……」
「本気です。そのことは、よくご存知かと…」

穏やかだった表情が、すこしずつ険しくなる。
眉を寄せて、彼は渋い顔をする。

「きょうは帰れ。結婚式の前だ。お前に乱暴な真似はできない」
「……」
「日を改めよう。……お前を大切にしたいし、俺も冷静になれる」
「……約束してくれますか?」
「……」

カタクリさんは組んでいた腕を解いて、ゆっくりと片膝をついた。そのままぎゅっと私の手を握った。その手からうっすら緊張が伝わってきて私は、たまらない気持ちになった。

「結婚式を無事に終えたら」
「……はい」
「こちらから連絡を入れよう」
「はい」

本当だろうか、また無視するんじゃないだろうかと一瞬だけ心配する。そう懸念することすら、いまは嬉しかった。

「——はい。いつまでも待ってます」





*****

カタクリさんはあれから、ほんとうに連絡をくれた。電伝虫で電話を掛けてきてくれたのだ。

電話ごしの彼の声は、なんだかいつも以上に怒っているような気難しそうな感じがした。

『迎えを送る、飯でも行くか』

電伝虫越しに伝えられたその台詞の内容とは裏腹なドスの効いた声でカタクリさんが言うから、まるきり海賊みたいだ。正真正銘の海賊なんだけれども。私は気づかれないように小さく笑った。


夕暮れになり、約束の時刻を迎える。スイートシティに到着すると足早に城に向かって幹部室に入った。

からだに合ったいつもの革のジャケット、きれいな型の黒いレザーパンツを身に着けている。

いつもの恰好なのに、映画のワンシーンのような人に見えて。私に気付いて優しく瞳を細めるのだから変な感じがする。現実なのだろうか。足元がふわふわする。

私の登場に苦い顔をしていたオーブンさんとダイフクさんが、それでも思うところがあるのか、やれやれと手を払って言葉には出さずとも「行け」との合図をみせる。これでもう公認のようなものだ。ただペロスペローさんがどういう反応を示すかは、その場には居なかったので顔を合わせていないからわからない。もしかすると、もうカタクリさんとの間で話はついているのかもしれない。

ふたりでスイートシティを、しばらく無言で歩いた。カタクリさんは、まっすぐ正面を見据えている。町の光の情景が彼の横顔の美しさを鮮やかに横ぎっていく。

「なにか食いたいものは。どこか行きたいところはあるか」

5分ほど歩いて初めてカタクリさんが口を開く。私も私で黙りこんでいた。

話したいことがいっぱいあるけれど、それ以上に彼が黙っているのが楽しかった。

「カタクリさんの住むお城に行きたいです」

はしたないだろうか?でも嫌われることはないだろう。ちら、とカタクリさんを見やると彼も私を横目で一瞥する。

「もちろんそのつもりだが……いきなり行っても構わないか」
「はい。行ってください」

カタクリさんのコムギ島へ向かう船の中。先ほど歩いた道とは空気さえ変わったような気がする。穏やかな波だ。

船は、まっすぐに走りつづけている。あの島だろうか。それとも、もっと向こうに見えるあの島だろうか。

私の胸の鼓動が彼にも伝わっていたらどうしよう。私は緊張してくちびるを噛んだ。

「恐いか?」

と、彼が言う。
私は「いいえ」と答える。

「楽しみです」
「特段、なにもない城だが……」
「はい——知ってます。でも、カタクリさんがいてくれるから」
「……」

カタクリさんは、なんだか仏頂面を下げている。元々そういう顔だったのか、照れているのか、よくわからないほど絶妙な表情だ。

彼のお城に着いたら、まずどうしようか。
紅茶を飲んで、これからのことをゆっくり話して——。

私は自分と彼の立場のことに囚われすぎていた。そんなのはもう、たくさんだ。

けれど時が経ち、お互いの存在が当たり前のようになったら、ようやく過去のことも落ち着いて振り返れるようになるのだろう。あんなこともあったねと話せるようになるのだろう。

そしていつか、カタクリさんがいる場所が私の家になれたら。私のいる場所がカタクリさんにとっての家になれたなら……。表立った幸福ではなくとも、きっと生きててよかったと思えるだろう。


「ナマエ」
「はい」
「見えてきた。あれだ」

綺麗な島のシルエットが夕陽と共に近づいてくる。彼のお城に着いたら、まずどうしようか。

紅茶を飲んで、これからのことを話して、それから——。

怒った顔、なんでもない仕草、ためいき、せつなげな瞳、声、指先、これからの生活。

思い出のようにふたりの未来が見えてきて、眩しくて、愛おしくて、目を細めた。





高身長からの恋文

君の小さな手を包んだあの日