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「──乾杯」

ゆっくりと差し出されたグラスを右手で受け取り、胸元へ携える。

少しの動作で発せられた衣擦れの音と、乾杯、と呟いたカタクリさんに合わせるようにしてそっと押しだしたグラスの左右から、かちあわされた小さな音だけが部屋に木霊した。

カタクリさんの部屋の側面の半分を占める、英国風な窓枠には、カーテンなどの布は一切かけられていないため、座ったままの状態でも外の景色が一望できる。

このお城の階層も、下から数えれば高いものだったし、ビッグマム海賊団の幹部ともなれば、当たり前なのかも知れない。それでもカタクリさんは、そう言った場所がそもそも好きなのだろうかとも思っていたけれど

「景色は見飽きてしまうものだ」

と、以前カタクリさんはこの夜景を見下ろしながらこぼしていた。それに対して

「もったいないなぁ」

私は、そんなことを返したような気がする。
景色に対してか、それを綺麗と思わなくなってしまったカタクリさんに対してかは分からないけれど、なんとなくそう思って思わずこぼしてしまった私に

「ナマエもじきに、そう思うようになる」

…… 小さく笑いながらそう言ってなお、相変わらずカーテンの類をかけない辺り、私はカタクリさんを可愛いなぁと思ってしまうのだ。

まだ僅かに中身の残るグラスを、手を添えながらテーブルにそっと置いて、窓の外に視線を向けていれば、私が過去を思い出していることに気がついたのだろう

「まだ飽きないか?」

私よりも先に、一杯目のワインを飲みほしたカタクリさんが、珍しくソファの縁に頬杖をついて私を見やる。

「はい。綺麗だなぁと思います」
「…… そうか」

呆れた、というよりは、納得したような顔でカタクリさんは一度頷くと、私の手元の中身の入ったグラスを見て

「いくら美味い酒だとは言え、これだけでは味気ないだろう」

と言って、おもむろに立ちあがった。
そのとき、カタクリさんの長い脚の膝がぶつかって、微弱な振動をテーブルに伝える。

カタン、というごく小さな揺れは、音でこそ聞こえるか聞こえないかの程度のものであったけれど、カタクリさんとの二人きりの空間で、少しとはいえ、お酒も入りすっかり気を抜いてしまっていた私の手のひらに伝うには十分すぎるものだった。

グラスに添えていた手が、その振動を緩和出来ずに傾き、透明なそれは時間を待たず手から離れて転がった。

──刹那、ワイングラスの大きな口から、残っていたワインがこぼれおちる。

気がついたときには、皺ひとつない綺麗なテーブルクロスに数滴の赤い染みと──ワンピースの丁度お腹の辺りにぐっしょりとした冷たい重み。

手前に持っていたために、少量のワインはテーブルを僅かに濡らしただけで、床には零れ落ちずに済んだのが幸いだった。

テーブルと、倒れたグラスとを見比べて固まる私を、カタクリさんが見ているのが分かる。

その視線を追うようにして、自分の視線をテーブルからワンピースへと移せば、すでに誤魔化せないほどに色を吸ってしまっている現実が視界に広がった。

「…… すみません! テーブル…… 汚しちゃって、ワインも……」

せっかく呼んでもらったのに、美味しいワインもごちそうになって、けれども零してしまって……

どうすればいいのか分からなくて、支離滅裂な言葉が口から出ていってしまうばかりで、自分でも何を言っているのか分からなくなるほどに混乱していると、カタクリさんは少しだけ困った口調で

「かまわない。それより……ナマエの服こそ、平気なのか」

中途半端に立ち上がろうとしていた姿勢を正して、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

そうして目の前まで来たところで、くっきりと丸い染みのついてしまった私のワンピースを見て、苦々しい声でカタクリさんが続ける。

「染みになってしまっているな……」
「… いや、あの……」
「…… すまない、俺の不注意だ」
「い、いえ…… 私のほうこそ、ちゃんと持ってなくてすみません。 なんだか、つい惚けてしまっていて……」
「…………」
「すみません、せっかく、カタクリさんが……。ワイン、ペロスペローさんと選んでくれたのに……」

少しでも、カタクリさんがこの時を楽しみにしていてくれたとしたら、私はなんて水を差すことをしてしまったのだろう。 そう思ったら、色々なものがこみ上げてきて、気を抜けば泣いてしまいそうになるのをぐっと堪えて、謝罪を口にする。

「気にするな。…… おまえが悲しむところはあまり見たくねぇ」

優しげな声に、ぐっと息が詰まる私の、ワインの滲んだワンピースの裾を撫でて、カタクリさんが笑う。

「それに……」

そのあまりの柔和な気配に、顔が見たくて、思わず顔を上げれば、カタクリさんを視界に捉えるより先に、お腹の辺りの湿ったところに触れられて、体に熱がこもるのが分かった。

「…… それに?」
「…… 選んでくれたのは、お前も同じだろう」

その言葉が、服のことを言っているのだということは、言われなくても分かった。

色の変わってしまったワンピースは、今日カタクリさんと会うために買ったものだったから。 少しでも似合うと思ってもらいたくて選んだものだったから。

その言葉に……、カタクリさんは、それに気付いてくれていたのだと分かったら、どんな顔をしていいのか分からなくなって、けれども気持ちとは裏腹に、両の瞳はカタクリさんの顔をじっと見つめてしまう。

ようやく映した彼の顔。
いつも、どこか不機嫌そうだったカタクリさんの顔……。

こっちをじっと見つめて、何を言うでもなく、何をするでもなく、ただ淡々とした視線を向けるだけだったカタクリさんの顔。

景色を眺めているときも。 食事を共にしているときも。 私ばっかりいつも楽しんで、どこか申し訳なさも感じていた。

今このとき。
私の目の前に居るカタクリさんは、そんな、いつもと同じ顔をしていた。

優しい言葉を私にくれたカタクリさんは、いつもと同じ顔をしていた。

「…… ありがとう、ございます」

カタクリさんは、もしかしたら、私が彼を好きだと思えば思うほど、私のことを好きだと思ってくれていて、どうしたらいいのか分からなくなっていたんじゃないか。

返されることを待っていないのではなくて、その受け取り方を知らなかったんじゃないか──、そう思ったら、今この瞬間が愛おしくて、好きで、好きで堪らなくなって、ワンピースの染みを気にする間もなく、私はカタクリさんのその手に自身の手を重ね合わせて、小さく呟いた。

手のひらにじんわりと伝わる体温が、今このときが現実だということを感じさせてくれる。

「好きです、ほんとうに…… カタクリさん。
好きです……」

自分から、はっきりと思いを口にするのは、これが二回目だった。

告白の時と、今と……。
カタクリさんを知って、好きになって、
そこからまた知って行くにつれて、どんどん好きになっていった。

カタクリさんも、そうだったら良いな、と思っていた。 徐々に近づく距離の中で、楽しいと思っているのが私だけじゃなかったら、彼のその感情の機微が分かるようになったら、もっと好きになるのだろうなと思っていたから、その好きを、カタクリさんと分かち合うことが出来たら、どれだけ幸せなのだろうと思っていた。

──カタクリさんは、伝えるのが下手くそだ。

私が楽しいと思っているのだろうな、と思った時、そう聞いてくれればいいのに──いつもそう思っていたけれど、それは自分も同じだったことに気がついた。

それでも、だからこそ、こうして惹かれあうことが出来たのだろうか……。 そんなことを考えてしまうほどには、私はカタクリさんのことが好きだから。

“好きです”

あのときと同じ、それでも、全く違う私の言葉に。──困った顔。
嬉しさとか、そういうのを噛み殺したような、なんとも言えない顔で。

「…… ああ」

そう言って口の端を僅かに釣り上げたカタクリさんの、唇から覗いた牙に噛みつかれるように、私の唇は優しく奪われていく。