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コムギ島、ハクリキタウン。大臣のみが座ることを許されるその席で、休憩もとらず延々と仕事をしている彼。凛としたたたずまいでお茶会の席では上座に座っている彼。メリエンダのときは、その素性を一切明かさない彼。どれもカタクリさん自身は同じなのに、どの瞬間も、また別の彼のようだと思う。
表情や仕草、言葉少ない態度は同じでもその身にまとう雰囲気がいつも少しずつ違う。それは、彼自身の変化というより受け取り手である私の視感の変化であろう。
珍しくシャーロット家の家族と気晴らしに海へ出て上陸した島にある豪華なワの宿。廊下は狭く歩くと絨毯に沈む足音が心地いい。調度品や絨毯もさることながら建物の素晴らしさから格式を思わせる。
ワノ国から調達したらしい温泉の女湯から、自室に向かって歩いていると、向こうからカタクリさんがひとり歩いてくるのが見えた。私がお辞儀をするとカタクリさんは目元をピクリと動かした。私は彼が通りやすいよう浴衣を身に着けた体を壁に少しに寄せた。そうしなければ体と体がぶつかってしまうから。私の前を通りすぎようとしたとき、カタクリさんに「ナマエ」と呼び止められた。
「はい」
呼び止められるとは思わなかったので驚いて振り返る。久しぶりにその声を聞いた気がした。堂々たる威厳を思わせる姿をしているけれど声は若くてなめらかで。いつもどきりとさせられる。
「今日は案内役、ご苦労だったな」
「いえ、けっこう楽しかったです。旅のしおりとか作るのも」
「俺も貰った、よくできていた」
カタクリさんは浅く微笑んだ。小豆色の髪が柔らかそうで、整髪料の類はいまはつけられていなさそうだ。カタクリさんも、温泉に入って来たのだろうか。そんな温度を感じる。それでも彼はいつもと同じくキチンとしているように見えた。
「お茶会の名簿と同じくらい真剣に作りましたからね」
「そうか」
笑いながら言う私に、彼は目を細めた。ときどき見せるその顔が、私は苦手。心が落ち着かなくなるから。
「カタクリさん、もう休まれるんですか?」
「ああ、部屋でひとりで飲んでいる」
「いいですね、私もブリュレから拝借したビールでも開けちゃおうかな」
「なら、一緒にどうだ、宿の者から地ビールをもらったんだが」
「え、」
え、と呟いてから声に出さずにもう一度え、と呟く。カタクリさんはごく普通にしている。まるでハクリキタウン本部のあの絨毯の気品高い部屋で仕事の要件を伝えているようなそんな空気が流れている。もしもその空気が乱れているとすれば、私が動揺しているからであって、しかもそのことをカタクリさんはまだ気づきもしていない。
「そうなんですか」
「ああ」
もちろん、彼がなにかするわけはない。真面目な人だし、許嫁もたぶんいそうだし。私の事なんかたぶん男の部下と同じくらいにしか思ってないだろうし。私すっぴんだし。色気なんかないし。彼は本当に私が受けようが断ろうが、どっちでもよさそうな顔をしてるし。
「じゃあ……お邪魔しようかな」
半ば強がって、そう答える。カタクリさんは普通に受け流すだろう。そう思ったのに、
「あ……ああ、」
と、彼はわずかに声を上ずらせた。
——あ、れ?
*****
カタクリさんの部屋は、私とプリンの部屋の五倍はあろうかというほど広かった。漆塗りのビールクーラーに氷と瓶が刺さっている。私はカタクリさんのグラスにそれを注ぎ、彼も二度ほど私に「そう遠慮するな」と注いでくれたがそれ以降は手酌で好きに飲む事になっていた。
「おいしいビールですね」
「ああ、普段飲む物とは少し違うな」
と、他愛のない事を話した。仕事の話なんかも少ししたが互いにそれは気乗りしなくて口数は少なくなった。だが私とカタクリさんの関連性と言えば自分の妹たちの友人ということだけだ。たまにお茶会の手伝いなんかもするけれども。他に何を話すべきなのかわからない。自然と会話も少なくなって、私は息苦しさを感じてしまう。けれど横目でちら、と伺ったカタクリさんは、穏やかな表情をしていた。
(この人はわたしとは違うんだ)
私が所在無く気まずさを感じている時に彼は沈黙の心地よさを楽しんでいる。見た目や姿勢に酔ったところは一切なく、だが精神面だけでゆったりくつろいでいる。私とは違ってとても余裕がある大人なんだなと改めて思った。なんだか自分がとても狭量みたいで恥ずかしいが、彼の態度はいくらかほっとさせてくれる。気兼ねする必要はない、私もマイペースで楽しめばよいのだ。それにカタクリさんはやっぱり下心なんてなさそうだ。当たり前だけど。でも……それでも、そこを少しだけ寂しく思ってしまうのは、やはり、いやらしいことだろうか。彼も私も大人であるから、何もないと分かり切っているところに期待してしまうのはいけないことなのかもしれないけれど。
それでもやっぱり、少しだけ。この時間が、楽しいものだったから尚更「ああ、意識されていないんだな」と当たり前のことを思わされてそして、そのたびに現実に引き戻された。
彼からの、思わぬお誘い。思い切って頷いてみたけれど。二人きり。夜で、しかも、お酒を飲んでいて普通なら何か起こってもおかしくはないし、あまつさえ私は心の奥底でほんのちょっぴりそれを望んでしまっている。
彼は平気な顔で飲んでいて穏やかな雰囲気を身にまとっていて、本当に普通にお酒を飲んでいるだけだ。このまま「ゆっくり休め」と別れて私も笑って気持ちよく眠ってしまっても何もおかしくはないくらいに。
もし今思いを伝えたら、どんな顔をするだろう?そんな思いが頭をめぐって一人そう思っていたとき。
「ナマエ……。おまえ、いい奴は居るのか」
空気を切るようにして呟かれた独り言のような台詞の穏やかななかに、はっきりとした熱。彼はまだ少しだけビールの入った水滴のしたたるグラスを口元に運びながら傾けてなんて事のないような顔をしている。
一方わたしは突然の投げかけに目を丸くするばかりで、あ、とか、う、とか言葉にならない文字の羅列しか頭に思い浮かばなくてはからずとも間を空けてしまう。焦れば焦るほど先ほどのカタクリさんの声が耳にやけにこびりついて離れないからたまらない。
「え……、」
「いや…。」
「……」
「……」
「えと……あの、……いません。いまは……」
「そうか……」
必死になって絞り出した私の答えにどうやら彼は満足したようだった。一瞬いつもの険しい顔になって携えていたグラスをカタリと座卓に置くと今度は手で頬づえをつきながら私を見やる。息を吸って引きしまった唇が僅かに開かれる。思わず、その視線に姿勢を正してしまう。
くしゅくしゅと浴衣のすそが擦れて綿独特の乾いた音を立てるのを背後に感じていると私に倣うようにカタクリさんもついていた肘を上げてこちらに向き直った。どこに付けられているのか分からない、時計の秒針の刻まれる音。私たちは、ただ向き合って沈黙を共有していた。
どうしてそんなことを聞くのだろう、とか。そういう事を考える暇もないくらいの短い時間だった。唇が一度引き上げられてほんの僅かな隙間から歯列を覗かせたかと思えば。
「好きだ」
カラン、と。結露に連れられた氷がグラスの中で回る音がする。つま先から頭の先までを、電流が走ったような気分。カタクリさんは私をじいっと見つめて、時折目を細める。
「……好きだ。」
二度目の告白は語気の強いものだった。いつもの部下に命令を下すような口調でありながらどこか私を窺い建てるような声色に、反射的に背筋が緩んで弛む。
その真剣なまなざしは崩されぬまま、ふう、と小さく息を吐くようにして佇みながら、カタクリさんは私の返事を待っている。
気が付いていないのだろうか。私がこんなにも、今この時でさえ集中できないくらい呼吸をするみたいにあなたのことを思っていたということを。
「…………わたしも、」
「……ナマエ」
「わたしも、すきです。……カタクリさん」
はっきりと彼の名前を呼んだ。告白の気恥かしさをごまかしたつもりがそれはもっと大きな熱となって私の体の中を毟りまわり、おもわず喉がごくりと上下する。
「……」
「……」
再び訪れた短い沈黙も、さっきとは比べ物にならないほどの幸福で迎えられる。共有するという意味を噛みしめるみたいに微笑んでいると彼が参ったように微かに笑った。
「すまない……年甲斐もなく馬鹿みたいに嬉しい。今は、気の利いた言葉は返せそうにない」
「……いえ、いいんです。仰ってもらえただけで、私も……同じ気持ちですから」
酔いが回ってしまう前に、彼とこうして心を通わせることが出来てよかったと、心の底から一人思っていると
「そうか。でも俺は多分、お前とは少し違う」
意味深な言葉を添えて彼の視線が私の横へと流れていく。それを、何気なく追うようにして辿れば、そこには仰々しい中央開きの襖——
(も、もしかして……)
「……我慢も、出来そうにない……」
「……!」
恐らくその先に広がっているであろう光景を想像して息をひそめた私を、眉尻を少し下げて彼が見守る。その微笑みがまるで大切なものを見るかのように酷く優しくて私の身体は自分のものじゃないみたいに大胆になってしまう。
——怖くないと言ったら、嘘になる。だってさっきまで下心なんて微塵も感じさせないような顔でお酒を飲んでいてこんな気持ちになっているのは私だけだと思っていたから。何もないのだと、思い込んでいたから。嬉しいことには間違いないのに。でもその怖さとか恥ずかしさとか、嬉しさとか焦燥とか。色々あふれそうになる気持ちをぐっと堪えて、まっすぐ彼の瞳を見て私は小さくうなずいた。脳裏でキィー!と叫び狂うブリュレの姿を浮かべながら。
「……えと、私……カタクリさんとなら……」
「ああ、……」
「……はい。」
「……優しく、する……」
「はい」
優しくする——その台詞がなんとも彼らしくって。ゆるりと私へ手を差し出された彼のその大きな手のひらをなんの躊躇いもなく私は掴んだ。