カタクリさんに気持ちを伝えられた夜。
コムギ島から自身の島へ戻る船の甲板の上、彼は私の隣で長い脚と腕を組み、私は海を眺めながら、それぞれ顔を背けるようにして座っていた。胸が詰まって、言葉がなにも出なかった。

島まで送ってもらって、帰宅して、ベッドにうつ伏せに倒れこんで…“ナマエ”と唇を小さく動かした彼の表情を思い出す。


「好きだ」


密やかな低い声。
意志的な強い燃えるような瞳。カタクリさんはほとんどポーカーフェイスだけど、そのぶん瞳に表情が出やすいと思う。それとも私がよく彼を観察しているからわかってしまうのだろうか。はたから見れば怪訝そうな表情が彼の気持ちにぎゅっと重力を感じさせた。


──“ナマエが好きだ”


「………!!」

かあ、とひとりでに赤面してしまう。
シーツをもみくちゃにして、脚をバタバタさせて、顔から炎が出るほどに恥ずかしいのに、カタクリさんのことばかりが脳裏に駆け巡る。
好きか嫌いか、と言われたら大好きだし、とても尊敬している。でも、こんなに掻き乱されるなんて…。

好きと言われたから好きになったのかな。いや、もともと好きだったのかもしれないけど、でも、自分の気持は浮ついて薄っぺらく感じる──カタクリさんの言葉の重みと、真面目な眼差しに比べてみれば。

(……あれ?)

わたし、返事してないかも。

ふたりきりだったカタクリさんの部屋で。
好きだ、と言われて──わたしは恥ずかしいのと驚きと嬉しいのとで、感情処理が追いつかず、呆然としていた、と思う。

カタクリさんと私は向かい合って立っていた。とても近い距離だった。仕事の話をしたりする距離ではなく、恋愛の話をする距離だった。

照明のペンダントが、見上げた彼の肩越しにキラキラ光っていて、眩しかった。彼の影が私の体に掛かっていた。影があたたかく感じたのは、カタクリさんの体温が私にも伝わっていたからなのかもしれない。向かい合った顔の間に、ため息と、感情と、緊張が、閉じ込められているようだった。まばたきをするだけで、すべてが崩れてしまいそうだった。思い出すだけで心臓がひく、となる。

(わたしもです、同じ気持ちです)

そう伝えた…と思ったけれど、声に出して言っていなかったのではないか。
……。

カタクリさん、どう思っているだろう。
私の好意が伝わっていなかったら、…彼の真面目な心を傷つけてしまったのではないだろうか。いやいや、帰りの船の中ではいつもと変わらないカタクリさんだったし…でも私は放心していて記憶が曖昧かも。だが彼も大人だし、いくらなんでもそんなことで傷つきはしまい。

……。

いずれにせよ、改めて伝えたほうがいい。
カタクリさんは心を見せてくれたのだから。私だけが受け身でいるの不誠実だ。なるべく早く。でも会う約束なんてしてない…。

うまく考えることができず、呆然としていると枕元に置いてある電伝虫が激しく鳴り響いた。勢いよく手に取ったことで一度手から落っこちそうになるのを必死に阻止した。

いつまでも鳴りやまない着信の音にひとり動揺している間に最近追加されたばかりの留守電機能に切り替わってしまった。

『遅くまで悪かった、また連絡する』

部屋に響くその声はまるで、カタクリさんが目の前にいて、そう言ったみたいだ。何回も何回も留守電に吹き込まれた音声を繰り返し聞いて、ため息をついた。

一度に色んなことが起きすぎた。
ゆうべの今頃は部屋で映像電伝虫でコメディでも観ながら呑気に爪の手入れなんてしていたのに。まるきり生活が一変したような気分だった。私がゆうべの自分に戻ることはできないのだ。

とにかく返事をしなければならない。すぐに電伝虫を持ち直して、…お礼の言葉を返して、…どうしよう、何から話せば…。いままでにカタクリさん相手に使ったことがない。ないのも寂しいけど…まあいいか。我ながら能天気だなあと思いながら、とりあえず顔洗って歯磨こうかな、と…。

いつのまにか私はまたベッドに倒れこんでいて目が醒めた。
きっと目を閉じてから、さして時間は経っていない。手を顔に当てて、唇を噛んだ。何度も思い出す。革張りのソファ、窓ガラス越しのコムギ島の街並み。顔を上げたときに、あれ、と思った。なんだか様子が違うって。

ゾンビ襲来に壊滅しかけた島の復旧のために必要な物資の話をしていたのに、いつのまにか距離が近くて、告白されて、それで…

── キスされた。
妄想じゃない。
まだ唇に、その感触と温度が残っている。

「わあああああ……」

枕に顔を押し付けてバタバタして、疲れてまたぐったりと放心する。顔が近づいてきたときに、私は一度顔をすこし背けた。そのまま受け入れたら、心臓が持たない気がしたからだ。カタクリさんの鼻筋が、私の鼻筋に重なったとき、
──だめ、──逃げられない、と脚が震えた。

(あんなに、やわらかいんだ……)

優しくて…しっとりしていて、あたたかくて、慈しむようで、……。
胸が苦しくなる。すこしだけ睫毛がちくちくしたけど、それ以外、すべて包みこむように、愛しい感触だった。

抱き寄せる腕、顎を持ち上げる手、顔と体の体温、全部、大切にしてくれているとわかるような、とけてしまいそうな、気持ちいいものだった。
なのに、気持ちよすぎて、胸が苦しかった。
切ないような、泣きたくなるような、逃げ出したくなるような……。

一生に一度だけなのではないか……そう予感させる、特別な瞬間に思われて。

カタクリさんは、そうっと唇を離して私の顔を眺めた。呆然としている私に、彼が苦笑いしたのを覚えている。少しうつむいて彼は立ち上がった。

“…そろそろ門が閉まる、島まで送る”

思い返してみれば、わたし、ほんとうに全部受け身だった。

なんにも反応していない。人形みたいにじっとしているだけだった。とんでもなく失礼なことをしていると認識した途端、血の気が引いていく。
どうしよう。唇を噛みながら、早くなんとか伝えなくちゃ…と気が急いた。でもこっちから電話はちょっと…しづらいし…でも──なにもしないよりは。そう思ったら電伝虫を手に取り電話を掛けていた。けれどカタクリさんの応答はなく、すぐに留守電に切り替わってしまった。

『…すみません、ナマエです、まだ起きてますか?』

そう残して電伝虫を置いて、目を閉じる。まだ起きていると返答があったら、ちゃんと気持ちを伝え直そう、それでまた会う約束をして、それで……
だが、突如として鳴ったのは着信の合図だった。
絶対にカタクリさんだと思わせるそのタイミングにボタンを押す。シン、という無音の音が聞こえた。

『──ナマエ、俺だ。いま大丈夫か』
「はい、わたしは大丈夫です。いま、コムギ島ですか?」
『ああ、いま着いたところだ』
「今日は送ってもらって…ありがとうございました」
『いや、好きでやったことだ…気にするな』

電話越しに聞くと、カタクリさんの声はいつもより幼く聞こえる。電伝虫同士の相性がとてもいいのか、環境の音が鮮明に聞こえてくる。
電話の向こう、カタクリさんがフローリングの床を歩いている気配がする。やがて立ち止まって、ソファか、椅子か、やわらかいところに腰を下ろしたようだった。しゅる、と絹の音がしたのは、彼がストールを解いたからだろう。

彼の姿を想像して胸が熱くなる。
だけど表情は思い描けない。彼の感情が電話ではまったく伝わらない。

「…電話もらって、ありがとうございます」
『──いや…、声が聴きたかった』

くす、と掠れて、微かに笑ったような息遣いがした。彼独特の、硬い笑みを思い浮かべる。さっき聞いた彼の言葉や、体温や、唇を反芻して赤くなっていた気持ちがよみがえった。

「あの…わたし、ちゃんと自分の気持ちをお伝えしてなかったんじゃないかと思って…」
『ん?』
「その、さっきの…」
『……』

カタクリさんが、珍しく小さく、こほ、と咳払いをする。どっくん、どっくん、どっくんと、心臓がうるさい。まさかカタクリさんに聞こえているはずがないだろうけど、たぶん私の緊張は彼にも届いているだろうと思った。

「あの…カタクリさんのこと、わたしも、好き…です、」

口に出して伝えると、いままでずっと長いこと秘めていたような気がした。解放しただけで、とてもとても抱えきれないものを抱えていたのだなあと思う。とても好きなことを自覚した。だからこんなに、苦しかったのだ。

『ああ…』

すう、と息を吸う音。落ち着いた、なめらかな声。
カタクリさんがどんな顔をしているのかが気になる。だけどたぶん、優しい目をしているだろう。そんな気がする。

「言うの忘れてて、すみません。わかってくれてるとは思ったんですけど」
『ああ、まあ…そうじゃなかったら、引っぱたかれてるはずだと思った。好いてくれてるだろうとは期待していたが』
「緊張して、言いそびれてしまって…帰ってから気づいたんです。言ってないって」
『気にかけてくれていたのか。だが思いがけず、とても嬉しかった』

ふ、と。
カタクリさんの笑った呼吸音がはっきりと聞こえた。彼の笑みも、脳裏に過る。あの、控えめな笑顔。

『ナマエ、まだ時間は大丈夫か』
「あ…はい、カタクリさんは?」
『ああ、俺もまだ起きている』
「そうなんですか、じゃあ…世間話でも」
『ふっ、そうだな』
「 ああ、そうだ!先日──」



まだ、あと、もうすこしだけ。
このまま、カタクリさんと繋がっていたい。
今夜はきっと、眠れない。





見えない影にすがって