「なんだ…お前、またここにいたのか」

真夜中のスイートシティ。
電気を消し去り、月の明かりだけを頼りに私は、幹部室に備え付けられたソファに横になって、窓の外を眺めていた。

気怠そうな足取り。相手の顔は確認しない。
だって、私の心待ちにしている人ではないと分かっているから。

「心配しなくても、ちゃんと帰ってくる」

私には、とても大きすぎるこのソファ。
私の伸ばした足の先に、その声の主が座ったことで、私は反動で微かに身動ぎした。

「寝られねェのか?」

横にしていた身体を仰向けにし、天井に向かってまばたきをしていると、小さく溜め息を漏らしたクラッカーさんが、窓の外に視線を向けた。つぎにその視線が、こちらに向いたのが私の視界にも入る。

「うん……ちょっとね。」
「なんだ?雨が降ろうが槍が降ろうが、いつも口開けて爆睡してる女が」
「え?口開いてるの、わたし」
「おう、たまに俺が閉じてやってるくらいには開いてるぜ」
「えー!うそでしょ!?」

私は勢いよく起き上がる。クラッカーさんは喉の奥で低く笑って、「どっちだろうなァ」と意地悪な顔をする。それで、私はもうこの話題には乗らないと決心した。私の寝顔がどうかなんて、自分じゃわからないのだから分が悪い。

ゾンビの襲来により、唯一被害がなかったスイートシティに避難してきて、約一ヶ月。
奴らは、陽が落ちると活動するという習性をもつらしい。そのゾンビ退治に駆り出されるのは、きまって万国、ビッグマム海賊団の幹部連中だった。

私はこうして毎晩、彼らの帰りを待つ。
夜中でも、朝方でも。ずっと寝ずに帰路に着くのを見届けるのだ。
この目で無事だったと認めない限りは、眠りになどつけるはずがない。

いつもカタクリさんは、陽が沈む前に、私を置いてひとり、素肌にジャケットを羽織って、三又槍を持って出ていってしまう──そんな彼の姿を思い描くと、胸がちくりと痛くなる。そんなことをまざまざと考えていると、眠れなくなっていったというのが理由でもあるけれど。

「お前は、ほんとに惨めな女だな」
「惨めじゃなくて、健気で儚いんだよ」
「あァ?そんなワケがあるか」
「そんなワケあるんだよ…」
「…そんなにカタクリの兄貴がいいのか」
「うん」
「他にも良い男はいっぱいいるだろ、俺とか」

クラッカーさんの口説き文句をかわしたり、聞き流したりしながら、それでも、もし本当にこの人の女になったら、どうなるのだろうと、ちょっと思ったりしたこともあった。
はじめてクラッカーさんと会ったときは、どうも彼が苦手だった。目つき悪いし、俺様だし。意地悪だし。でも今では、この兄弟の中で、一番の私の理解者なんじゃないかなって、思ったりもする。本人には絶対に言わないけど。

「……クラッカーさんこそ、寝ないの?」
「まだ子どもの寝る時間だ、眠くねェわ」
「クラッカーさんの寝顔って、あんまり見たことないかも」
「その前にいつもここで、ナマエが寝てるからだろ」
「まあ、そうなんだけど。いつもどこで寝てるの?」
「ここか、外か、それか……」

大股を開いて、両肘を膝に乗せて長い指を絡ませながら、彼はすこし間を置く。だから私も黙った。

「他の女のとこだな」
「そんなの絶対いないじゃん」
「絶対?ヘッ!甘く見られたもんだな。じゃあ賭けるか?」
「いいよ、500ベリーね」
「なんだその、信用してんのか、してねェのか半端な額は」


──ガチャ……

そんな下らない討論を繰り広げていたら、大きな扉がゆっくりと開いた音に、ビクンと背筋が伸びた。

「……」
「ほらな?ちゃんと帰って来ただろ?」
「……っ」
「……は〜あ、いちいち泣くんじゃねェよ」

クラッカーさんは、唇を噛みしめて俯いた私の頭を、乱暴にぐしゃぐしゃと撫でて、「俺は女のとこにでも行く」と言って立ち上がり、幹部室を出て行った。

ばさっ、と掛け布団代わりにしていた膝掛けが宙を舞い、カタクリさんが私に圧し掛かってくる。
薄闇の中、鮮やかな入れ墨が視界に残像を刻む。
桃色?紫?白?海賊旗?羽根……その極彩色が皮膚の伸展に応じてゆらゆらと揺れているようだ。
こわくて、恐ろしくて、それで、とても美しい。
その入れ墨が私の身体を呑みこむ錯覚に襲われる。行為の最中に見ることがある……この人が肉食の獣となる瞬間を。激しい快感が見せる幻なのだろうか。

奪われてしまったのは、
体が先か、心が先だったか。

記憶がおぼろげであっても、時がいくら流れようと、カタクリさん自身に変化はない。
いつも、まるで初めて体を重ねたときのような激しさで抱いてくれる。
その後の横顔が好きだった。腕枕をしてくれながら、黙って窓べの夜を眺めている。恐ろしいほど自分は彼にのめり込んでいる──そんな自覚をもたらす、静かだが、深くて熱い闇を思わせる横顔なのだ。

「なあ……なぜ顔を隠すんだ。ナマエ……こっちを向け」

カタクリさんの腕に顔を押し付けていると、ぐいっと頬を掴んでソファに押し付けられる。

「お前の顔見るとなァ、たまらねェんだ」

冗談のたぐいかと思いきや、カタクリさんは口角を吊り上げ、目のあたりに恍惚の気色を浮かべている。きっと彼にとって戦闘と性は同じ衝動なのだろう。抱かれていると、殺されている、と思ったことが、幾度となくあった。まるでねっとりと捕食されているかのようなのだ。
その顔で、歪んだ笑みで、熱を帯びた視線で、激しく子宮を突き上げられている。朦朧とする意識の中、彼の狂気が垣間見えた。








「カタクリさん」
「ん…」
「あのね……」
「なんだ」

布団の中で裸で寄り添って、考え事をしている。
それぞれの状況、それぞれの考え方。私とカタクリさんは別々の人間だから、一緒にいても別々のことを考える。
私はカタクリさんをわかりたいとは全く思わないけれど、ずっと一緒にいたいと願った。

「もう欲しくなったのか?」

くすぐるように彼の唇が、きわどいところに触れてくる。違う違う、と身をよじって逃げて、布団の中でしばらく二人でドタバタしていた。
シーツの洗剤の匂いの奥に、カタクリさんの髪のスッとする匂いがする。カタクリさんは目を伏せている。

もしも、カタクリさんにも、プリンのようにもうひとつ目があったら、どうなっていたのだろう。
笑ってしまうほど端正な顔立ちに、ふたつの赤い瞳。切れ長の、目が合うだけで怪我しそうな好戦的な瞳が、もしもうひとつあったなら──私は、いまのカタクリさんが好きだな、と思った。彼が美しいのは、容貌の話ではなくて、その火花の散るような生き方によるものなのだろう。彼の存在そのものが、その象徴なのだ。

「そういうわけじゃなくて」
「?」
「……」

下を見ると、自分の足はすっぽり布団にくるまっているが、カタクリさんの足がはみ出している。
血色の乏しい白い足を眺めながら、私は、いやだなぁ、と思った。焦点をすこし遠くにやると、いつも不吉な予感が迫ってくる。
まるで影のように、隙を見せるとその思考に囚われてしまう。

いつか突然、
カタクリさんが死んでしまうという予感。
初めて会ったときから、ずっと感じてた。

きっといつかカタクリさんは、鮮やかな生き様を散らして、いなくなってしまう。
私がゆっくり眠っているあいだや、のんきにお風呂に入っているあいだに、なんの予感ももたらさず、満足のいく死に場所を見つけてしまう。
そして彼の死を、数日たったあとで、兄弟や妹の誰かから聞かされて初めて知るのだ。
その日を、今日ではないか、明日ではないか、と毎日想像しつづけている。

「どうした」

ときおり、優しいイントネーションで低く彼は言う。こんなふうに私を覗きこみながら。
どこにもいかないで、
ずっとそばにいて、
わたしのことだけを見てて、

そんな、夢みたいな言葉が思い浮かぶ。

そんなこと、言えるわけがない。
あぶくのように消えてしまう、なんの価値もない願望だ。それをカタクリさんに求めるほど愚直にはなれない。カタクリさんを困らせたくないし、わかった、と嘘をつかれたくないし、すまん、と謝られたくもない。
だから、言わない。黙っていることが、唯一意地を張れる手段だった。

「ううん…。私、そろそろ…」
「……」
「帰ろうかな…」
「……」
「……」
「わかった、気を付けろよ」

カタクリさんは止めない。
引き留めない。決して。わかりきっていることなのに、涙が零れそうになる自分を嘲笑う。

簡単に身支度を整えて城を出ると、まだ10月だというのに真冬の匂いがした。そのひやっとした空気を吸い込む。

「よう、奇遇だな」
「クラッカーさん…」

城の前の橋の中腹にクラッカーさんがいた。驚いた私の顔を見て、クラッカーさんは、ふっと息を吐いた。
クラッカーさんの鼻がちょっとだけ赤い。

「……ね、なんかお腹すかない?」
「あ?なんだ、いい運動しすぎたか?」
「あーはいはい。それより、どっかお店行こうよ」
「この時間に開いてる店なんかあるかよ」
「あるよ、きっと」
「じゃあまァ、パッとやるか」
「パッとはしなくていいよ、ふつうでいいよ」
「ったく、注文の多い女だな…」

雨が降ったらしく、地面は鏡のように街灯を照り返している。吐く息が白くて楽しい。

「なに食べようかな?」
「好きなもん食ったらいい」

ふっと洩れた一笑が、白くけぶってすぐに消えた。
高いところにある彼の瞳が、私をじっと見つめている。彼の瞳に映った街灯の光が、実際のそれよりも鋭い。

「……おまえのだ。」

突然、親指で、クラッカーさんは何かをぴしっと弾いた。それは、きれいな弧を描いて私の手の中に落ちてきた。
金色のメダル──ではなく、500ベリー。
何の変哲もない、だけどクラッカーさんの体温をほのかに残している。

「え?なに、これ」
「忘れたのか?賭けただろ」
「……」
「おまえの、勝ちだよ」

すぐにそっぽ向く、遠い横顔。

(あ……他に女がいるとか、どうとか言ってたっけ)

手の中の500ベリーを握りしめると、なにか、じわりと胸があたたかい。
クラッカーさんに他に女の人がいるなんて、微塵も疑ったことはない。仮にそうだとしても私には関係ないことだ。
その事実よりも、それを伝えようとしてくれた気持ちが、なんだか嬉しかった。素直じゃない方法だけど。

「ありがとう。おまもりにしようかな」
「ふん……」
「ふふふ」
「なに笑ってんだ」
「だって、なんか嬉しいんだもん」

この何気ない日常的な夜を、後々になってきっと思い出すのだろう。
いつか、カタクリさんも、クラッカーさんも皆、本当に私を置いていなくなってしまう。そのことを否定したり、彼らの生き方を捻じ曲げようとしたくはない。私は私で、カタクリさんはカタクリさん、クラッカーさんはクラッカーさんだからだ。

尊重するということは、ほのかな諦めを要する。
過度に執着せず、信用し見守るということだ。
彼らがそうしてくれているように、私も彼らを尊重したい。

お店の並ぶ通りまでは、まだすこし遠い。
濡れた道は暗闇に紛れて、先が見えないけれど、強引な手が引っ張ってくれている。

みんなに守られて、幸せで、胸が痛いな。
愛しくて、苦しくなる。

この痛みと苦しみがもうすこし、ほんのすこしだけでも、長く続くことを願った。





冷たい指先

ほんとうはずっと待っていた。