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その日は、友達と朝まで飲んで帰った日だった。
新調したばかりのコートと靴を履いたまま、目が覚めたら……海賊世界だった。

お菓子の国、喋る植物、不思議の森。

その喋る植物たちに言われるがまま向かった先には、お菓子だらけの街並み。着の身着のままで呆然と立ち尽くす私を助けてくれた島民。

あれから約、一ヶ月。
助けてくれた島民の計らいもあって、私はこの“スイートシティ”でひっそりと暮らしていた。


季節は秋の終わり頃。
どうして、と声を上げるより先に、足が動いた。

走る、走る、走る。
足を前に出すたびに、周囲を照らす煌びやかなネオンが加速して、一つの線を描く。

はっは、と切れる息も、突然甲を曲げたために脱げてしまった両の靴も、気にする暇など無かった。

左の脇腹が、急激な運動により悲鳴を上げる。
このときばかりは、運動を疎かにしていた日頃の自分を恨んだ。

はっ、はっ、はっ。
息の切れる間隔が短くなる。

脇腹の痛みは徐々にせり上がり、胃、肺を越えて喉元辺りを彷徨い、唾液とも痰とも分からぬ喉の違和感とあいまって、三半規管を犯していく。

気持ち悪い。
その感覚も、何もかもが気持ち悪くて、息が出来ない。

爪の根元がぴきりとひび割れ、土ふまずの皮膚でさえも腫れてコンクリートに擦れ真っ黒く変色しているだろう疲労した足は、今にも止まりそうだったが、もし、いまここで立ち止まってしまったら、暫くの間は動けなくなりそうだということは考えなくても分かっていたから、嫌悪感も痛みも我慢して。

はっ、はっ、はっ。

必死に酸素を流し込んで無我夢中に走り続けた。





「どうかしたのか」

ぞっ、と背中を何かが駆け上がる。
すでに私は、歩いているも同然のスピードで足を動かしていた。

とっくに、走る気力は無くなっていたのだろう。だらだらと交互に足を動かして、ただ前進しているという表現が合っていた。
そんな私の背後から、突如投げ放たれた声に、私は思わず足を止めてその場に硬直する。

聞き覚えのない声だった。
抑揚の付けられていないそれは、今の私には到底怖ろしく感じられ、自身の背後を見ることさえ憚られた。

はっはっはっ。

未だ整わない呼吸が恨めしい。意に反して止めてしまった足も、既に棒のようだった。
つま先が馬鹿になったみたく前を向いて動かない。今はそれでも良いと思った。それくらい、振り返るのが怖ろしかった。

こつ、こつ。

革靴の踵からつま先への体重移動の音が、コンクリートを突っぱねて私の耳に刺さる。
耳元でささやかれていると錯覚するほど近い「声」だったのに、相手は私と離れた距離に位置していたらしい。

こつ、こつ。

数度それが繰り返されて、人の温度が背中に伝わってくるようだった。

こつり。
音が止んで、数秒。
空気を割るような気配の後。

「どうした」

それは優しく、先ほど浴びた声と同じ声だった。
今度は、ほんの少しだけ、感情が乗せられているような声だったけれど。

それは心配とは程遠い、侮蔑にも似た──しいて言うなら、私をあざ笑って馬鹿にするような。そんな声だった。

氷のように固まっていた私のつま先が、僅かに溶けて、少しだけ外側に向かって反ったのが自分でも分かった。

知らない内に呼吸は安定して、喉のちりつくような渇きと脇腹の痛みだけを残して、私は次第に意識をはっきりとその背後へと向けていた。

どくどくと鳴りやまない心臓を押さえつけながら、振り向くべきだろうか、悩んで、逡巡。
首を残したまま反らせたつま先を一周させて、私は振り返った。

まだ相手は見えない。
横目に足元を見れば、漆黒の磨かれた先のとがった革靴が一足、レザーパンツに包まれた足の先を覆っていて。黒の色が切れるまでと、視界をそのまま上へと引き上げた。

「何かあったのか」

声の主は男性だった。しかもかなりの長身。
声に心当たりが無かったから当たり前なのだけれど、その人の顔には見覚えが無かった。

ただ、こちらを不躾に見下すその瞳から繋がる鼻筋や唇元を隠されたストールをぼうっと見つめ、おそろしく整った顔立ちをしている人だなと思えば、足の裏の熱が地面へと伝わっていくのが分かって、私は気付かれぬように足指を一二度左右に動かす。

「あまりにも慌ててるみたいだった。大丈夫か?」
「……ハァ、ハァ」
「靴も、脱げてしまっている」

侮蔑する態度など微塵も感じさせない、先とは打って変わった心配するような声色に瞼がぴくりと震える。

彼は私の足元に視線を送ると、その痛ましげな様相に僅かに顔をしかめ、その顔を私に向けて問う。

「いえ……大丈夫です」
「……。……追われているのか?」
「……」
「言えないみたいだな」
「いえ……」
「なら。なぜだ?」

私は、逃げていた。
顔色の悪い暴漢に、いや、あれは“ゾンビ”だ。
襲われたといえばそうなのだけれど、あれは人殺しの目だった。

瞳に光を宿していないとは言え、私を食ってやろうという意思の目。

雑踏の、人ごみの、人間が沢山いたあの場で、どうして私を狙ったのだろう、そんな事を考えるまでもなく、私を襲おうとした人間は、私を視界に収めたその瞬間から私のことしか見えていないみたいだった。

相手が握っていた大ぶりのナイフと、その顔を思い出せば思いだすほどに、今こうして逃げ切れたことが奇跡だと思う。

この人に話しかけられて意識が逸れたが、相手が追ってくる様子は、今のところない。
ほっと胸をなでおろす私に気付いた男性がふっと吐息を漏らす。その音に、私が意識を戻せば彼は何事もなかったかのように話しの続きを促した。

「警備には?」
「……そういえば、まだ」

首を振るって答えれば、一つの溜息と提案が零される。この国には至る所に護衛だの、警備だのと武装集団が配置されていた。

「では、早く連絡しなくてはな」
「それが……。荷物も慌てていたせいか、落としてしまったんです」

手ぶらであることよりも、他のことに気が行っていたのか、彼も私もそんな当たり前のことを見逃していたらしい。
目の前の視線が、私の手持無沙汰に揺れる両手に注がれた気がした。

「……そうか。じゃあ俺が探しておこう」
「……え?」
「誘惑の森の方から来たのだろう」
「……あ、」
「部下に言って探させておく。とりあえずの連絡は、俺の子電伝虫で」

自身の背後を顎で示しながら、徐に子電伝虫(この国の連絡ツールらしい)を取り出してさも当たり前のようにそれは放たれる。

「すみません。見ず知らずの方に、そんな……」
「これも何かの縁だろう。困っている女を見捨てるほど、落ちぶれてはいないつもりだ」

そう続けた彼の、僅かに微笑んでいる口の端を見て、首を傾げそうになる。
その割に、酷く冷えた声を出す人だ──と。

そんな違和感を感じつつも、思考を過った言葉は無視して。今はこの人に頼るしかなかった。

けれども、警備へと連絡を繋いでいるであろう彼の挙動を見ながら、ふと、先ほどの光景が頭にちらついて。疑問が口をついて出そうになった。

あんなに近場で事件まがいのことが起きたというのに、なぜだろうか。騒ぎ声も、警備や護衛の動きすら感じない。

周囲は再び点へと戻ったネオンが煌々と輝いているだけで、普段のそれと何ら変わりなく感じた。どれほど自分が走って来たのかは分からないけれど、来た道に視線を戻せばその先には見慣れた街がまだ確認出来る距離だった。

どうしてか。
必死に逃げてきたはずなのに、既に射程圏内から覗かれているような気がしてならない。
落ち着いてきていた鼓動がどくりどくりと血液の循環を始めて私を追いつめる。

どこで矛盾が生じているのか、酸素のまわりきっていない脳みそでは、まだ考えることが出来なかった。

「……大丈夫か」

そんな私の様子に気付いたのか、通話を終えた男が、こちらに近づく。

「警備には一応、誘惑の森付近に刃物を持った男が徘徊していると告げた。取り持ってくれるといいが」

手に握った電伝虫を数回空で振って、私に示す。

「捕まるといいな」

緩やかに細められた赤いガラス玉のような二つの瞳が私に向けられて、彼と先ほど対面したときから拭えなかった違和感が、再び胃を駆け回るのが分かった。

彼が見ているその先が、何か違うものを見据えているのではないかと、何も映していなさそうな視線の奥の自分が焦ったような表情を浮かべていたから。

私はとんでもない事に巻込まれてしまったのだとこの時理解した。