第三章 ふたりだけの秘密


「———はい、記入漏れなどはありませんね。受理いたしました。」

 宮城と彼女は市役所の椅子に二人並んで座っていた。宮城はぺこりと小さく頭をさげる。椅子を引いて二人で立ちあがったとき、ふいに目のまえの市役所の職員が言った。

「お幸せに。」

 彼女は職員から目を逸らして、その場をあとにする。宮城はもう一度頭を軽く下げると、彼女の後を着いて行った。
 ふたりはその足で銀行に向かった。外で彼女が待っていると、暫くして宮城が中から出て来る。

「はい、これ。」

 宮城は彼女に三百万の札束が入った分厚い封筒を指し出す。それに手を掛けた彼女に宮城が封筒を持った手を放さないままで言った。

「ねえ、わかってると思うけど」
「ん?」
「面接とか、検査とか……あと、」
「はいはい。」

 宮城の言葉を遮って彼女は封筒を宮城の手からもぎ取るとすぐにそれを自分のバッグに入れた。そんな彼女から目を逸らして宮城が気まずそうに言う。

「それからさ……結婚の、ことだけど……」
「わかってるってば、内緒にしておけばいいんでしょ?」
「……」
「あと、お金のことも。」

 そう言い切って彼女は宮城に背を向けて歩いて行ってしまった。宮城は去っていく彼女のうしろ姿をしばらくのあいだ眺めていた。


 *


 アンナが病室でスケッチブックにペンを走らせていると、カーテンの向こうから神の声がした。回診だ。アンナはあわてて髪の毛を手ぐしで整え神が自分のところにやってくるのを待った。
 間もなくしてカーテンを開けた神が、アンナににっこりと微笑みかける。

「どうかな?」

 そう聞きながら両手でアンナの頬を包み込むように挟むと神は、その顔をじっとのぞき込んだ。そうして両手の親指でアンナの瞼を少し下げる。アンナは、自分の顔が赤くなっていないかだけが心配だった。脈も、ずいぶんと速くなっている。ややあって神がアンナの顔からそっと手を離す。

「最近、よく眠れてる?」
「うーん……。先生はベッド?寝るとき」
「うーん、まあそうだね」
「いつも質問されてばっかりだから私からも質問しようと思ってさ!」
「ああ、なるほどね」
「……で? 彼女いるんですか?」
「はいっ、今日の質問終わり。あとは、ゆっくりしててね。」

 「ちぇ」と言ったアンナに神がうっすら笑みを浮かべながらふとベッドのテーブルの上に開かれたままでいたスケッチブックに目をやった。

「ん? なに、これ。」
「ああ〜、兄がね。結婚するからさぁ〜。ウェルカムボードのデザイン考えてたの!」
「ふーん、そうなんだ。でも、ほどほどにね?」
「はーい!あ、先生は着物とドレスどっち派?」
「え?」
「結婚式!」
「うーん、どっちでもいいかなぁ……」
「も〜、リョーちゃんとおなじこと言ってる〜」

 そのとき「神先生を独占しないの〜!」と言いながら、看護婦がアンナの病室に入って来た。

「神先生、モテモテなんだからねー?」
「は〜い。」
「703号室の患者さんが、またお腹が痛むって」
「うん、わかった。いま行く。……じゃあアンナちゃんは、もう少し様子みようか。」
「早く退院したいなー」
「静かに寝てれば出来るよ?じゃあまたね。」

 そう言うと神はニコッとアンナのほうに微笑みかけて、病室を出て行った。神の足音が遠退いていくのに耳をすませていたアンナが突如ニヤニヤしながら看護婦に問いかける。

「……ねえねえ、」
「んー?」
「看護婦さん、神先生タイプ?」
「えー? わたしー?意外とダメンズいっちゃうからなー」
「よっしゃ、ライバルひとり減った!」
「ははは!なにそれ〜?」

 アンナは「へっへっへ」と笑いスケッチブックを両手で持つと、満足げにフンと鼻を鳴らした。


 *


「——おじゃまします。」

 その声に、カオルが驚いた顔で振り返る。

「名前さん……」
「これ、返しておいて?」

 そう言って、宮城から渡されていた自宅の鍵をカオルの手のひらに乗せた。
 そのまま居間を出ようとした彼女が「あっ」と言って振り返る。

「あと——名字、名前です。」
「え……?」
「出したから」
「なにを?」
「婚姻、届け……」
「えっ……本当に?」
「……。お風呂、借ります……。」

 それだけ言うと、彼女は今度こそカオルに背を向け居間を出て行った。その日から宮城と彼女、そして彼女の��姑�≠ニなるカオルとの奇妙な共同生活が始まった。彼女は、竜が酔っぱらって眠り込んでいるうちにヘソクリも含めて、身の回りで必要なものはすべて運び出していたので、彼女としては嫁入りの準備は万端だった。カオルは突然ふたりが入籍したうえに彼女がひとつ屋根の下で住むことに最初こそためらいを見せていたが移植手術が決まるまではそうしたほうがいい、色んな意味でも安心だ、という息子の言葉ですぐに納得した。

 その日の夜、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら、彼女が椅子に座っている宮城に訊ねた。

「——ねえ、わたしの検査っていつやるの?」
「あー。その前にまだやらなきゃなんねーこととかあるからねぇ……」
「ふーん」

 居間に戻って、宮城の隣に腰をおろした彼女。すると、彼女がテーブルの上に置いた缶ビールを取り上げて宮城が言った。

「ドナーはアルコール禁止でーす」
「えー、聞いてないんですけどー」

 プゥ〜ッと頬を膨らませている彼女を宥め賺すようにカオルが「これ好きなんでしょ」と彼女の好物であるシューマイをすすめた。まるで子供のように喜んでそれに箸をつけて食べ進める彼女。
 そのあと宮城とカオルはあれこれと専門用語で難しい話をしはじめたので適当に聞き流していた彼女であったが、三個目のシューマイを取ろうとした刹那、彼女が宮城の言葉に首を傾げた。

「インフォームド、コンセント……?」
「あ、ちゃんと聞いてたんだ」
「まあ、ちょっとだけ?」
「うん、えっとねぇ……医者やカウンセラーから色々と聞かれんの」
「いろいろって?」
「うーん、どうしてドナーになったかーとか夫婦のこととかかなあ」
「なに?いきなり恋に落ちて、盛り上がっちゃいましたー、みたいな?」
「まあ、……そーゆー感じで。」

 二人の会話を聞いていたカオルが「そうそう」と、なにか思い出したように言う。

「リョーちゃん、朝は必ず牛乳飲むの。あとは、好きな食べ物だと肉類全般と、ダメなのはタコでしょ?水族館に勤めてるのに」
「へえー」
「あとは、バスケットが好き。とっても。」
「そーゆーのは関係ねーし」
「だって面接で聞かれるかもしれないでしょ?」
「聞かれねーよ、ドナーの心構えを確認する面接なんだから」
「要するに、契約結婚ってことがバレないようにすればいいんでしょ?」

 いとも簡単に答えた彼女のほうを見てやや目を見開いたカオルであったがすぐに険しい顔をして少し身を乗り出し、不安げに彼女に問いかけた。

「夫婦らしく、できそう?」

 言い淀むこともなく「うん」と彼女がコクリとうなずいて肯定した。

「そういうの、仕事で慣れてるからねー」
「え?」
「あ、……知らない感じ?」

 彼女が宮城に確認すると、宮城は突然咳払いをして次いでカオルに「あっ、ちょ、ドレッシングなくない?」と聞く。「あ!はいはい」と言ってカオルが席を立ち、台所に向かった。ややご機嫌な様子の母親の姿を横目に見て、安堵の溜め息をついていた宮城を揶揄うように彼女はクスクスと宮城の横で笑っていた。


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