第一章 八十億分の一の出会い
「なあ宮城、考え直すならいまのうちだぜ」
高校時代から付き合いのある先輩、三井寿が、ふいにそんな声をかけてきたのは、宮城が水槽にデッキブラシをかけていたときだった。
「えっ、」
聞き返した宮城に三井は眉間に深く皺をつくりわざとらしく、顰め面で言った。
「結婚したら女は豹変するからよ」
どうせまた、彼女にでもこっぴどくやられたのだろう。そんなことを思いながら宮城はちょっと困ったような笑みを浮かべた。
「彩ちゃんなら大丈夫スよ」
「おいおい、ほんとかァ?」
「ダイジョーブですって。」
そう言ってから、宮城は心の中でもう一度繰り返した。そう、彩ちゃんなら大丈夫、と――。
彩子と付き合いはじめてから、かれこれ十年が経とうとしている。出会ったのは高校時代。そして彼女とは同じ大学の同級生でもあった。三井は高校の部活の先輩であることもそうだが彼も同じ大学だったこともあって、宮城と彩子が入学してくるや否やバスケはもちろん、他にもサークルに所属していた三井から誘われたのが、スキューバダイビングのサークルであった。始めは半信半疑で先輩の顔を立てる気持ちで参加した宮城と彩子であったが、まんまとスキューバの魅力にのめり込んだのは宮城のほうだ。そのあと互いにバスケ以外で興味を持ったスキューバダイビングを通し彩子との関係がより深いものとなっていった。
なので三井はバスケ以外にも一緒にスキューバダイビングを楽しんだ一人でもあると同時に彩子との距離を縮めてくれた、恋のキューピットでもあるのだ。なんの因縁か現在は宮城が勤めている水族館で三井と二人そろって働いている。つまり海とは無関係の職場を選んだのは三人のうち宮城の婚約者の彩子ひとりということになる。
彩子のいいところを語らせたらきりがないが、なんと言っても彼女の協調性だ。
母と妹と三人暮らしの宮城にとって自分の家族との関係が良好であることはとても大事なことであったからだ。結婚したからといっておいそれと家を出て行くことができない理由が宮城にはあった。いまはもう高校三年生になっている少し歳の離れた妹のアンナが肝臓に生まれつきの重い病気を抱えているのだ。その点も彩子はよく理解してくれている。そのアンナがまだ小学生の頃からの付き合いなのでアンナはそれこそ実の姉のように彩子を慕っているし彩子も十分すぎるくらいそれに応えている。彩子のウエディングドレスを見立てに行ったつい先だって、アンナはまるでそれが自分の当然の権利であるかのように二人について来た。結婚すればひとつ屋根の下で暮らすことになる宮城の母のカオルも彩子のことは昔から大のお気に入りだ。水族館から自転車で二十分ほどの宮城の家の台所で仲良く肩を並べて、楽しそうに料理をする二人の姿をこれまでに幾度となく見てきた。
(彩ちゃんなら、ダイジョーブだ……)
宮城が心のなかでもう一度そうつぶやいたとき三井が「おい」と、宮城の肩をつついた。
「どうしたんだよ」
「えっ、……なにが?」
「お前さっきからずーっと同じとこ磨いてるぞ。なんかあったのか」
「あ、いや。べつに……。」
宮城は曖昧に語尾を濁すとデッキブラシの先を少しだけ横にずらし、ブラシの柄を握る手に力を込めた。
*
彼女にとってその日は最高で最悪な日だった。
最高だったのは、恋人からつぎの連休に一緒に実家に行かないかという誘いの連絡が来たこと。つまり彼氏が自分の両親に会ってほしいと言ってきたのだ。これまでフレンチレストランで雇われシェフをしていた彼がようやく自分の店をもてる目処が立ったことが、その限りなくプロポーズに近い言葉の裏にあった。恋人である彼から届いたメッセージを何度も読み返しながら自身のアパートに帰ってみると、そこには思いがけない人物が彼女を待っていた。実の兄の竜である。これが、最悪な出来事の始まりだった。
「よぅ、カギ開いてたぜー?」
パリッとしたスーツを着こなし笑みを浮かべる竜を見たら大抵の人間は��普通にいい人そう�≠ニ思うだろう。しかし彼女はだれよりも兄の本質を知っていた。
「なんでいんのっ!」
思わず怒鳴り声を上げた。しかし竜は、とくに気にも留めずに「ほらよ」と言って海外製のクッキー箱を彼女に向かって差し出す。
「土産だ、なかなかいけるぜ」
「……いらない」
「おまえ捜すの苦労したんだぜ、妹訪ねて三千里ってな」
いったい兄はどうやってここを見つけ出したのか——。彼女は、兄の動物的なまでの嗅覚の鋭さと執念深さに内心驚きと恐れを感じたがそれを押し殺すように再度、声を張り上げた。
「なにが苦労だよっ!借金ひとに押し付けといてふざけんなっ!」
二年ほど前、竜は知らないうちに妹を闇金融の保証人にしたてた上でそのまま行方知れずとなっていたのだ。そのせいで彼女は兄の作った借金を返すために、それまで勤めていた職を辞めざるを得なくなり彼氏には秘密にして今もまだ風俗店で働いているのだ。
だが、それもあとすこしの辛抱だった。店への前借り分が、あと数日で完済できる。そうなれば彼女は晴れて自由の身になれるのだ。それだけにこのタイミングで兄が現れたことは彼女にとって最悪中の最悪だった。
「や、悪かったってー。ほんとに悪かった」
竜が頭をさげる。だが彼女はそれが単なる演技であることを知っている。この手でこれまでに、何人もの人をだまして金を巻き上げてきたのだ。彼女本人も何度か金を貸して踏み倒されてきたがまさか実の妹にそこまでのことをするとはさすがに予想できなかったのだ。
彼女はものすごい形相で兄である竜を睨みつけ玄関を指さした。
「出てって!」
「ったく、わかったよ。」
「出てってよ!」
「はあ、うるせーな。わかったって、お前にちょっくら報告したいことがあって来ただけだ」
「報告?」
「借金、ぜんぶ返せることになってよ」
どうせまた口から出まかせだろうと思ったが、とりあえず兄からの次の言葉を待った。
「お前、いくら出してくれたんだっけっか?」
「出したんじゃない……。あんたが勝手に借金の保証人にしたんでしょうが!」
口籠る竜に彼女が、ぶっきらぼうに聞いた。
「その金は?」
「あ?」
「お金!」
「あー、今日はちょっとな……」
「やっぱり……」
怒りに燃えた目で睨みつける妹の視界から逃れるように竜は「今週中にはなんとかなる、いま、手持ちねーんだ」と最後まで言うか言わないかの速さで彼女の手にしていたバッグを奪い取った。
「!!……なにすんの!」
「すぐ返すって」
竜は彼女に背を向け、あっという間にバッグの中から彼女の財布を抜き取る。
「返してよ!」
つかみかかっていった彼女をふりほどきながら財布の中を確かめていた竜がふとその手をとめて彼女のほうを見た。
「おまえ、これって……」
竜が手にしていたのは彼女が働いている風俗店の名刺だった。その名刺には彼女の自筆で『楓』と書かれている。すぐさま竜の手からその名刺をひったくった彼女であったが竜はそれですべてを理解したらしい。
「マジかよ。そうだったのかよ?」
そうつぶやいたかと思うと竜がふいに、彼女を抱きしめた。彼女は、突如走った嫌悪に顔を引き攣らせる。
「……っ、離してよ!」
「……悪かった、サイテーだよなー、俺。」
彼女は竜を力いっぱいに振りほどき部屋を飛び出して行った。気が付くと海岸沿いに沿って走る国道に出ていた。海の向こう側、晴れた空の下に灯台。そしてその手前には、水族館が見えた。
彼女は無意識にその足を水族館のほうに向けてゆっくりと歩き出していたのだった。