その日は中学校の修学旅行が二つ重なっていたので大忙しだったがその団体が帰っていくと館内はさっきまでの喧騒が嘘のように静かになった。手元の時計に目をやると、そろそろ閉館の時間になろうとしている。どうりで静かなはずだわ……と苦笑いしながら宮城は自分が企画した二十種類のクラゲが展示されている『クラゲファンタジーホール』に入った。
するとそこで、食い入るように水槽のクラゲを見ているひとりの女性の姿に目をとめた。自分の苦労して企画した展示物を、熱心に眺めてくれている人の姿というのはいつ見ても嬉しいものだ。
「あのう、」
「……」
「そろそろ、閉館の時間なんですけどぉ……」
遠慮がちにかけた宮城の声はどうやら相手には届かなかったらしくその女性は夢中で水に揺蕩うクラゲの群れを眺めている。
「すみません、お客さーん……」
宮城はもう一度声をかけた。だが女性は気付かない。髪を赤みがかった茶色に染めた自分よりもすこしばかり歳の若い女性だった。少々一般のOLにはない派手さを感じさせる一方で、その横顔はどこか寂しげで、悲しそうだった。
(ま、もう少しぐらいなら構わねーか……)
そう思い直した宮城は女性と少しばかり距離をあけた横に並んで一緒に水槽のクラゲを眺めた。
「これ見てるとなんだか落ち着きますよねえー」
「あっ、……」
宮城の存在にようやく気付いたらしい女性が、声を洩らす。宮城が、ぺこっと軽く会釈をすると、女性がまた水槽に向き直った。
「この子たちさぁ、一生海の中漂って生きてるんだよねえ……」
そう言った女性の口調はまるでクラゲに憧れているようだった。
「うーん。ただ漂ってるってだけじゃないんですけどねえー。」
「え……?」
「海流とか波の力のほうがずっと大きいんでね、自分の好きなとこへ行けるわけじゃないんスよ」
「へえ……」
「ここでは、人口的に水流を作ってるんで。」
「……なんで?」
「え?あぁ……。そうしねーと底に沈んじゃうんですよ。うまく漂えずに、死んじゃうことだってあるんスよ?」
「かわいそう……」
「あー、そうかもしんないね。でも、ザンネン。
クラゲには楽しいとか辛い悲しいって感情はありませんっ」
「そんなの、わかんないじゃん……」
「んー。感情を持とうにも悩がないデスからねー」
「ノウ?」
女性が宮城を見やり、初めて聞く言葉のように宮城の言った言葉を繰り返した。宮城は、そんな彼女に視線を合わせ、自分の頭を中指で指差して言う。
「脳ミソ。」
女性はしばらく何かを考える様子を見せてから言った。
「そっか……悩がなきゃ悩まなくていいんだ」
「えっ」
聞き返した宮城に答えないまま女性は再び視線を水槽へと移した。宮城もそれにつられるようにして水槽の中のクラゲたちを眺める。
「すんませーん!閉館しまーす」
二人が反射的に声のするほうを振り返るとその声の主は飼育員専用のつなぎを着た三井だった。
「……、じゃあ。」
女性がぽつりと言って、宮城に向かって小さくペコリと頭を下げる。
「あ……。ありがとうございましたー。」
出口に向かう女性の背を見送る宮城に近づいて来た三井がすこし怪訝そうな表情を浮かべて声をひそめた。
「なんだ? 知り合いか?」
宮城は「いや」と言い首を横に振った。しかしまさかさっきの彼女が自分の人生を変えることになろうとは、いまはまだ夢にも想像できないことだった。
*
母のカオルから、アンナが倒れたとの知らせが入ったのは、水族館が閉館して二十分ほどたったころだった。彩子との結婚が決まったと思ったら妹が倒れる。電話を切った宮城は、心のどこかでやはり良いことと悪いことはおなじようにやってくるのだと、妙に納得している自分がいることに気付いた。
病院の面談室で二人にアンナの病状を説明したのは東京の国立大学病院から新たに赴任してきた神宗一郎という若い医師だった。そう、宮城とは高校以来の再会である。
「あ。」
面談室に入ってくるや否や顔を合わせた宮城と神が同時にそう声を出した。それを見たカオルが「知り合いなの?」と宮城に問う。
「え……ああー……。コーコーんときの」
その宮城の言葉に微笑みながら「その節は息子がお世話になりました」と、神に向かって丁寧に頭を下げるカオルに対して宮城が言う。
「べつに、世話なってねーし」
「お医者さんと知り合いなんて〜。リョーちゃんやるわね」
「……ほっといてよ」
そんなふたりのやり取りを微笑ましく見ていた神が「よろしくお願いします」と頭をさげてから机を挟んだ二人の目の前の椅子に座った。
小さい頃からずっとアンナを診ていた先生から引き継いだとのことだったが相変わらず年齢の割に落ち着いた雰囲気で信頼できる男であることに宮城は少しほっとした。
「このまま入院していただくことになりますが、いまのところ意識もはっきりしていますし血圧も脈拍も、すべて安定しています」
そう言ってカルテから顔をあげると神が早々に切り出した。
「ところで——アンナさんの肝臓の状態のほうなんですが……」
すがるような目で神を見ていたカオルがごくりと唾を飲む音がかすかに聞こえた。
「ビリルビンの数値が、4になりました。」
思いがけない告知に言葉を失う宮城とカオルに神が感情を抑えた静かな口調で言った。
「ご存知だと思いますが肝臓はとてもタフな臓器です。しかし一旦悪くなると元に戻ることはありません」
「……」
「このままでは、もって一年というところです」
「ずっと、数値も安定していたのに……」
しぼりだすように言ったカオルの目から落ちた涙が、ひざの上で握りしめた手の甲を濡らした。
「私共もこれ以上悪化しないことを願っていましたが、残念です。そろそろ移植を考えられたほうがいいかと……」
「もうそれしか道は、残されてねーってこと?」
確認するように聞いた宮城に神がうなずいた。
「だったら俺の肝臓使って。アンナとおなじ、O型だし」
「そうですか。ではまずドナーになる意志をしっかり持ってから……」
「意志ならもうある。それしか方法がねーなら、俺から移植して欲しい」
「……わかりました。ではお兄さまの肝臓が適合するかどうかを検査してみましょう」
「お願いします」と頭を下げた宮城の横で母のカオルは、さらに頭を低くしていた。
「——私も、検査をお願いします」
「お母さまの血液型は?」
「A型です」
「そうですか……」と、メモを取りながら神がつづける。
「まずは血液型が同じお兄さまの血液検査と、CT検査の結果を見てからにしましょう」
「……よろしくお願いします」
そう言って、もう一度頭を下げて椅子から立ち上がりかけた宮城たちに向かって神が、穏やかな口調で言った。
「骨髄などと比べれば、肝臓は適合しやすい臓器なんですよ。」
「……」
「なので、健康な肝臓でサイズが合って血液型が同じであれば比較的成功率は高いんです。がんばりましょう。」
神が最後に見せた笑顔に宮城たちは希望の光を見た気がしたが、それが幻であったことに気付くまでに、そう時間はかからなかった。