第五章 壊れた絆
水に潜り浄化槽のメンテナスを終えてウェットスーツから作業着に着替えようとしていた宮城のもとに三井がやってくる。
「おい、宮城」
「はい?」
「悩のねえクラゲに音楽聴かせたって無駄だって言ってんだろーが」
「ええ? ミズクラゲは音に反応すんだってば。そーゆう実験が——」
「止めといたぞ、CD。」
宮城が言い切るまえに三井が言葉をさえぎって言った。宮城が唇を少々尖らせて「目の上のたんこぶめ…」とブツブツ小言をつきながらウェットスーツを脱いでいると「あ」と思い出したように三井が言う。
「そーいや、お前の携帯ずっと鳴ってたぜ?」
その言葉に宮城は「え?」とそばに置いてあった自分の携帯を手に取る。そのときちょうどまた携帯の着信音が鳴った。通話ボタンを押すなり、彼女の苛立った声が耳に響いた。
『もぅ、さっきからずっと電話かけてんのに!』
「ごめん、水の中にいたから……どしたの?」
『アンナが、病院からいなくなっちゃったって』
「ええ? いつ?」
『二時間くらいまえに、家に電話かかってきて。私だけだったから出るのちょっと迷ったけど……出てよかったよ』
「そか、ありあと。とにかく病院に電話して状況聞いてみるよ、あとで一度家に帰るから」
宮城はその電話を一旦切るとすぐに神の携帯に電話をかけた。電話に出た神からアンナがいなくなったときの状況などを説明される。
「——アンナは、大丈夫なの?」
『病状は安定していたし、無理をしなければ心配ないと思う』
「そっか……」
『俺もアンナちゃんの携帯鳴らしたんだけど……出なかったよ』
「……」
『夕べ、アンナちゃんに話したのか?』
「うん。病気のことも……結婚のことも」
『そうか……』
「無理言って外泊の許可出してもらったのに……なんか、申しわけねぇ」
『いや、こっちの方こそ……』
電話の向こうで自分がきちんとケアしていればこんなことにならなかったと謝る神に自分も他に心当たりをあたってみることと、なにか変わったことがあったら連絡をくれるように頼んで電話を切った。そのまま再度、自宅に電話を掛けると、二回の呼び出し音で相手が電話に出た。
『——もしもし。』
「あ、俺。アンナは? 家帰ってる?」
『ううん……まだ……』
「あ、母さんは?」
『パートじゃないかなあ? いないよ』
「……あのさ、このことは黙っててね」
『え……なんで?』
「とりあえず動揺させたくないからさ……あと、そのまま家にいてもらえる?」
『うん。……あのさ』
「ん?」
『アンナがいなくなったのって、私が……』
先の言葉を言いよどむ彼女に宮城はしっかりと否定するように言い切った。
「いや、それはちげぇーって」
『でも……急に現れて結婚しましたとか肝臓あげますとか言ったってなんだお前って感じでしょ』
「ううん、俺がちゃんと見てなかったからだよ」
『……』
「とにかく、なんかわかったら電話して?」
『……わかった』
宮城は彼女との電話を終えると少し悩んだ末にある人物の電話番号を電話帳から探し当ててその相手へと発信ボタンを押した。その電話をかけた相手とは彩子だった。当たりまえに仕事中だったようで、電話に出た彩子の声は押し殺したように低かった。
「仕事中だったよね、ごめんね……」
『どうしたのよ?』
「あのさ、アンナから連絡なかった?」
『えっ、こないだ電話で話したけど……』
「え、なんか言ってた?」
『ネイルしてもらったって話と……あと、結婚式楽しみにしてるって』
「そっか……」
『まだ話してなかったのね、私たちのこと』
「夕べ……話したよ」
『そう……なにか、あったの?』
「いや……。もし、アンナからまた電話あったら教えてくれる?」
『ええ……わかったわ』
電話を終えると三井に後のことを頼んで宮城はひとまずアンナが通っている高校に行ってみた。だが、とくにこれといった収穫はなかった。
その後、病院にも行って神にも会ったが電話で聞いた以上の進展はなく、アンナの病室に行って見つけた、スケッチブックのウェルカムボードのデザイン画に荒々しくつけられた黒いバツの筆跡が宮城の気持ちを一層暗くした。
その頃、居間でぼんやりとテレビの画面を眺めていた彼女は玄関のドアが開く音にピクリと体を震わせた。カオルが帰って来たのだ。カオルは、彼女に「ただいま」と言いそのまま台所に行って冷蔵庫の中をゴソゴソしはじめる。その背中に、「おつかれ」と声をかけた彼女にカオルが言う。
「ちょっと、病院いってくるから。」
病院に行かれるとアンナがいなくなったことがバレてしまう。思わず「えっ、なんで?」と聞き返した彼女にカオルが手にした保存用タッパーを見せた。
「これ、アンナの大好物なのに夕べ食べなかったから……かぼちゃのコロッケ。」
「……揚げ物とか、ダメなんじゃない?」
「でも、アンナともう一回ちゃんと話したいし」
「……。」
どうしたものかと彼女が考えあぐねていると、突如玄関のチャイムが鳴った。「ごめんね、ちょっと出てくれない?」とカオルに言われて彼女が玄関のドアを開けるとそこにはスーツ姿の三十代くらいの女性が立っていた。彼女のあとに従って居間へと入って来たその女性を見てカオルが目を丸くした。
「彩子ちゃん……」
��彩子�≠ニいう名前に驚いて彼女はあらためて彩子の顔を見た。
「すみません、突然……」
会釈する彩子をカオルが訝しげに見て首を傾げながら問う。
「どうしたの?」
「アンナちゃん、なにかあったんですか?」
「えっ」
聞き返したカオルに彩子も驚いたように「え」と口を押えた。彩子のそばであきらかにまずいという顔をした彼女を見逃さなかったカオルがすかさず問う。
「なにか、聞いてる?」
「いやぁ……」
はぐらかそうとする彼女にカオルが強い口調で「なにがあったの!」と言った。仕方なく彼女が溜め息をひとつ吐いたあと、言いにくそうに顔を顰めながら言った。
「病院……抜け出したんだってさ」
そのひと言に言葉を失うカオルに、彩子が頭をさげた。
「私のせいですよね。私が……移植の話、断ったから……」
「あんたのせいじゃないよ」
答えたのはカオルではなく彼女で、その言葉に彩子が頭をあげて彼女を見やる。
「私の肝臓が気に入らなかったんでしょ」
「えっ、それって……」
彩子がなにか言い掛けたとき「ただいま」という声と共に、宮城が姿をあらわした。
「え、彩ちゃん………」
だれがどう見てもあきらかに気まずそうにしてオロオロとお互いに視線をあらぬほうに巡らせている宮城と彩子の二人をとりなすように、彼女が言った。
「手術終わったら、すぐ離婚するからさ。そもそも私たち、べつにそういうんじゃないしね。」
「——え、離婚って?」
「あ、ああ……うん。結婚したんだ、俺たち」
彩子の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが他人である彼女から見てもわかった。
「そう……」
呆然とした様子で彩子が玄関に向かう。自然とそれを追う宮城。その途中でふと立ち止まり宮城のほうを振り返って彩子が聞いた。
「アンナちゃん、見つかったの?」
黙って首を横に振るだけの宮城に「なにかあったら私も連絡するわ」と力なく言い置いて彩子は帰って行った。
居間に戻ってきた宮城にカオルがなじるように声を荒げた。
「なんで話してくれなかったの!?」
「心配かけたくなかっただけ」
「私はアンナのこと心配しちゃいけないの!?」
「そーじゃなくてさぁ……」と、宮城が溜め息混じりに、なだめるように言った。
「捜索願も出しておいたし、少し落ち着こ——ぜ」
カオルはその言葉を聞いて、一気に力が抜けたように、すとんと椅子に腰を下ろした。