閉館間際の水族館内でクラゲの水槽の前でたたずむ、ひとりの女性がいた。閉館作業のため館内を見まわっていた三井が、その女性の背中に声をかける。
「すんません、もうすぐ閉館なんですけどー」
「あ、出ます……すみません……」
「……? ありがとうございましたー」
三井の声に俯きながら振り向いた女性が、そそくさと三井の横を通り過ぎていく。
「……彩子?」
三井が振り向いて不意にそう言うと彩子も足を止めて三井のほうを振り返った。
「言えよ。知らねーやつだと思ったじゃねーか」
「……」
「なんだ、ひとりで来たのか?」
「いや……その……」
「あ?」
「……」
先を言い淀む彩子に、三井が思いついたように言った。
「俺よ、これから木暮と飯食いに行くんだ」
「え……」
「おまえも来いよ」
それから一時間後———。近くの飲食店に三井と木暮、そして彩子がいた。
彩子が宮城の家で見た出来事とアンナのことをふたりに説明した。驚愕の事実に絶句する三井と木暮。すると彩子が、ぽつりとつぶやく。
「あの子、リョータの家に住んでるみたいだったの……」
「たしかに。言ってた、住んでるって」
木暮が真剣な表情で、思い出したように言う。
「木暮さん、彼女のこと、知ってるんですか?」
「ううん、こないだ三井とスーパーで偶然二人に会っただけだ。そのときが、初めてで最後……」
「そう、だったんですか……」
今度はすこし考えるようして眉間に皺を寄せていた三井が言った。
「んで、俺んちで飯食ったんだよ……いとこって言ってたよな?」
「うん、言ってたな」
「歳も、俺らより少し若いくらいだろ?たぶん」
「ああ。でも彩子の話が本当だとしたらさ……」
「……あ? なに。」
「宮城が、アンナちゃんの肝臓のために結婚したって、ことか……?」
木暮の言葉にその場が一瞬にして凍りついた。そして彩子はずっと、うつむいたままだった。
「なにしてんだ……アイツ。」
三井がそう言って、後頭部を乱暴にガシガシと掻いた。
「わたし……なんかもう、どうしたらいいのか、わからなくって……」
そのまま三人の間に沈黙が流れた。その沈黙を破ったのはボソリと呟いた三井のひと言だった。
「——もしかして、金……渡したのかよアイツ」
その言葉に木暮と彩子が三井を見やる。一気に視線を総なめした三井が焦ったように矢継ぎ早に言う。
「だ、だってよ、ンなことでもねーと結婚なんてしねーだろうが」
「……」
「なあ、それってよ……」
「……」
「犯罪になるんじゃ、ねーのか……?」
三井の問いかけに、木暮も彩子もなにも反応は見せずに、ただ、うつむくだけだった。
*
それから数時間後、彼女は宮城が運転する車の助手席に座っていた。自分がどうせ家にいても、とくにやれることもないし、もしもほかになにか思い出したときに宮城の近くにいたほうが都合がいいと考えたのだ。
スピードメーターの横の時計がそろそろ午後の七時を指そうとしていた。宮城は山梨に向かっていた。神奈川県との県境を越えて、すぐのところなので、九時までには着けるはずだと言ったあと宮城が「アンナの父親との最初で最後の思い出の場所なんだ」と話し始めた。
「それが、山梨なの?」
途中、砂利を敷き詰めただけの簡素な駐車場に車を停めた宮城に彼女がそう聞き返したが宮城はそれきり口を噤んだ。
「——で? どうすんの、これから」
「明日、ほかも見に行ってみよーと思ってる」
「じゃあ、今日は車で一泊?」
「いや、送るよ……。一度、家まで」
「え?」
「俺は明日また、出直すから……」
「……じゃあいいよ、付き合うよ」
「……ごめんね。とても、心強いデス……」
「またそれー? 別料金もらわないとね。」
彼女が窓の外を見ながら笑って冗談を言うと、宮城もそれにつられて情けなく笑った。
結局その日は車の中で夜を明かし、翌日昼食を取ったあと宮城が近くの自動販売機で買って来た缶コーヒーを持って車の中に戻り、それを彼女に差し出した。「サンキュ」と言って差し出された缶コーヒーを受け取る彼女に宮城が、ひとり言のように言った。
「俺、アンナのこと全然わかってなかったなぁ」
「いいお兄ちゃんとしては……妹のこと、ぜんぶわかってて当然?」
「いいお兄ちゃん、か……」
「どっからどう見てもねー」
「ちがうね、ぜんぜん……」
彼女がそうぼそりとつぶやいた宮城を見やる。
「実は俺……兄貴がいてさ」
「……え。」
「俺が小学生の頃、海で死んだ」
「……」
「バスケがしこたま上手くてねー。練習付き合うって約束だったのにさ友達と釣り行きやがって」
「釣り……?」
「もう帰ってくんなー!って……そのまま本当に帰ってこなかった」
そう言ってふっと自嘲する宮城を横目にして、彼女はずっと、正面を見据えながら聞いていた。
「責任感、か……」
彼女がそうつぶやいてから宮城のほうを見た。
「ん?……どーかな。」
「……」
「アンナ、まだ生まれてなかったからねぇ……そのあと引っ越してきて、親父も死んで……」
「……」
「俺が、宮城家のキャプテンになんねーとって、ずっと自分本位に、思ってた気ィする」
「キャプテンねえ。馬鹿だよねー、あんたって」
「……はは、そーかもね」
薄く笑った宮城に彼女はもう一度「バカだよ」と笑って言った。そして彼女は思い出したように続ける。
「だからか……」
「うん?」
「海好きなの、そういう理由?」
「……」
「海のどっかに、その死んだ兄貴が——いるような気がする?」
「……どーなんだろーねぇ。」
しばらく、二人のあいだに沈黙が流れた。ややあって、宮城が手に持っていた缶コーヒーを飲む仕草を横目に見た彼女が、ぼそりと言う。
「手術が、終わったらさ……?」
「ん?」
「彼女のとこ、戻ればいいじゃん」
「もう……彼女じゃねーから。」
「わかってんでしょ? あの人がまだ……自分のこと好きだって」
そのまま何も言い返さず車の窓を開けて窓枠に肘を乗せ外を眺める宮城の姿にふいに彼女が笑いだした。
「——えっ、なに?」
と、聞いた宮城に彼女が笑いながら言う。
「やっぱ、あんたたち兄妹だわ」
「え?どーいう意味?」
「だって、爪のかたちがそっくりだもん」
「え、……そう?」
「気が付かなかった」と自分の爪を眺める宮城を見ていた彼女がふと思い出したように言った。
「そういえばさ……アンナにネイル塗ってあげたとき」
「うん?」
「オレンジ色のネイルを見て『海の色だー』って言ったんだよねえ……」
「へ?」
「あれ、どういう意味なんだろ……」
「オレンジ色の……海?」
「たしか私の中で海と言ったらオレンジなのって言ってて」
それを聞いて、しばらく考え込んでいた宮城が携帯を取り出してどこかに電話を掛けはじめた。
「あ、もしもし?いや……ううん、まだ。あのさオレンジ色の海——って、心当たりない?」
電話の相手はカオルだった。母親の言葉に一つうなずいている宮城の表情が徐々に青ざめていくのがわかった。
「え、そーなの?……マジ?」
そのあと少し話をしてから電話を切った宮城に彼女が聞いた。
「なんだって?」
「たぶん、道川湖のことを言ってたんじゃないかって……」
「道川湖?どこそれ……」
「——ここ。山梨。」
「え……? ってか、海ないじゃん。山梨には」
「アンナが小さいときに親父が一度、連れてったらしい。」
「……」
「山梨に連れて来た、ってのは知ってたけど……道川湖に行ったのは知らなかったなあ」
「え、……てか、父親って……」
「そのあと間もなくして死んだ。海の事故でね」
彼女は目を見開いたあと、気まずそうに微かに顔を俯かせた。
「そう、だったんだ……。」
「アンナを連れて来たとき夕陽でその湖が真っ赤に染まってて、それ見てアンナがオレンジ色の海だって……」
「……」
「どうして覚えてるんだろうって、母さんもびっくりしてた」
「ああ……じゃあ、そこかもね」
「うん、行ってみよ!」
宮城はエンジンを掛け慣れたようにハンドルを切ると、そのままスピードを加速させて、目的地まで車を急いで走らせた。