第七章 ふたりきりの夜


 駅に向かう坂道を宮城とふたりで下りながら、彩子が懐かしむように言う。

「久しぶりよね。この道、ふたりで歩くの」
「うん、そーだね」
 
 どこか上の空でうなずいた宮城を、彩子が首をすくめて見た。

「ごめんね、突然」
「いや……ううん」
「でも、さんざん考えて出した結果なのよ」
「……」
「名前さんがね、私に会いに来て——」
「……え、」
「ドナーは自分がなるから手術が終わったら私とリョータに、よりを戻してほしいって」
「……」
「そうすればアンナちゃんも納得すると思うからって……。」

 当たり前だが初耳だった。しかし宮城は、そのまま黙って彩子の言葉に耳を傾けた。

「きっと、私がドナーになるのが一番いいんだと思うのよ。はじめから、そうしてればよかったのよね」
「彩ちゃんが……責任感じることじゃないよ」
「責任とかそういうことじゃなくて。私、アンナちゃんのこと助けたいのよ。」

 彩子はその場で、ゆっくりと立ち止まった。
宮城もそれに合わせて足を止める。すると彩子が躊躇いがちに言葉を続けた。

「それに、やっぱり私、リョータのことが——忘れられなかった」
「……」
「私たちがいままで一緒にいた時間のことを考えたら、こんなことで終わりにしたくないの。」

 そう言って宮城を見る彩子から、宮城は咄嗟に目を逸らしてしまった。そうするつもりなどなかったのに自分の中のなにかがそうさせた。例えるならば身体にぴったりと馴染んでいたはずのユニホームがクリーニングから戻ってきたら見た目も手触りもまったく変わっていないのに着てみるとどこかしっくりこない。そんな、違和感のようなものを彩子に感じたのだ。

「明日、アンナちゃんに会いに行きましょう。」

 思わず「えっ」と聞き返した宮城に彩子が真っ直ぐに通った声で言った。

「一緒に来て欲しいの、リョータに。」
「……」
「仕事が終わったら連絡するわ」

 そう言い残すと「じゃあね」と、笑顔で小さく手を振って彩子は改札の向こうに消えていった。


 *


 翌朝。宮城が朝食を食べ終えて、席を立とうとしとき彼女が起きたらしく居間へと入って来た。それを待っていたかのようにカオルが彼女に声をかける。

「名前さん、今日アンナの病院に行ってくるから、もし出かけるなら戸締りよろしくね」
「あ、うん……わかった」

 椅子に座って慣れたようにテレビのリモコンを操作する彼女を宮城はじっと見つめていた。その視線に気づいた彼女が、訝しげに宮城を見やって問う。

「……なに?」
「——え?……あ、いや……」
「遅刻、するよ?」
「あ……うん。いってきます」

 そう言って宮城は、慌ててそそくさと椅子から立ち上がり、居間を出て行った。

 宮城とカオルが出かけたあと、彼女は自分用の部屋としてあてがわれていた客間を片づけながら荷物をまとめた。来たときよりも、荷物がすこし増えている。大切なドナーに風邪でも引かれたら困ると思ったのか、あるいは、本当に親切心からなのか、秋物のカーディガンにセーター。それは、宮城が買ってくれたものだった。
 パンパンに膨らんだバッグを手に下げ忘れ物はないかと部屋を見回しているうちにひとつ返しておくべきものがあったことに、彼女は気付いた。ここへ来てすぐ、三人でドライブに行ったときに買ってもらった、宮城とおそろいの『7』の番号のストラップだ。結婚指輪はすでに返してあったしべつに返さなければならないような物でもないがこれを置いていくことで自分の気持ちを吹っ切ろうと思ったのだ。

 玄関の鍵を外から掛けて、ドアの横のポストにカギを入れたとき携帯が鳴り出した。電話の相手は神だった。至急、会って話がしたいと言うのでとりあえず応じると神は近くにある喫茶店を指定してきた。
 喫茶店に到着して神の姿を見つけた彼女は早々に目のまえの席についた。すると、とたんに神が「病院にこんなものが」と、一枚のファックスを彼女のほうに押しやった。そこには『宮城アンナの兄、宮城リョータはドナーを金で買った。』という内容が書きなぐってあった。
 言葉を失っている彼女に、神が言いにくそうに心当たりはないかと尋ねる。もう一度、よくよくその紙を見て、右肩上がりの角張った汚い文字は兄、竜のものに間違いないと確信した。いかにも竜らしいうやり方だと思った。

「兄貴だろうね、たぶん」
「……兄貴?」
「うん、私の。」
「……お兄さんは、納得されていないんですか?移植のこと——」
「手術、やめたから。」

 神の言葉をさえぎるように彼女がそう言った。神は「えっ」と、驚きの声をあげる。

「もともとの婚約者が、ドナーになるってさ。それなら問題ないでしょ?」
「……」
「もし適合しなかったら、そのときは、私の肝臓使えばいいよ」
「そんなこと……」
「もらったお金は返す」
「……」
「すこしずつでも、絶対返すから。それなら臓器売買にならないでしょ」

 テーブルの上に目線を落とし、しばらくじっと考え込んでいた様子の神がふと顔をあげて彼女を見て問いかけた。

「どうして、そこまでするんですか」
「……助けたいからだよ」
「……」
「とにかく、手術してあげてよ。お願いだから」

 そう言うと彼女は、足元に置いていたバッグに手を伸ばし、席を立った。


 *


 カオルがアンナの病室でリンゴを剥いている。すると寝たままの体勢でアンナが唐突にカオルに問いかけた。

「ねえ、お母さん」
「ん?」
「お父さんが死んだとき、どう思った?」
「え?そりゃあ……冗談じゃないって思ったよ」
「え?」
「これからどうずればいいの、って。」
「そっか……じゃあ、ソーちゃんのときは?」
「……」
「ごめん……。」
「——アンナ、名前さんのことなんだけど、」
「もういいってば、そのことは」

 そう言ってカオルの言葉をさえぎったアンナはプイッと顔を背けた。しかし、カオルは続けた。

「ねえ、アンナ。聞いて?」
「……」
「お母さんも、はじめはドナーになってくれるの、お金のためだと思ったの」
「……」
「でもね、いまは違うと思うの。名前さん、湖でアンナのこと怒鳴ったでしょ?」
「……うん」
「どうでもいい相手に……本気で怒ったりなんかできないって、お母さんは思うよ。」
「……。」

 アンナは窓の外を眺めていた。不意にアンナの目尻から一粒の涙が零れ落ちた。


← - back - →
VERTEX