三井との電話を切ったあと、いったんは仕事に戻った宮城だったが、ずっと彼女のことが頭から離れなかった。
その間も、仕事中に宮城の携帯に二度の着信があった。ひとつは彩子からのメッセージで『五時にはあがれそう』という内容。そしてもう一つは自宅からの着信であった。かけ直すと二回の呼び出し音でカオルが出た。パートから帰って来たら彼女の姿が見当たらないので部屋に行くと荷物が全てなくなっていたという。宮城はすぐに帰ると言って電話を切ると早退する事情を説明するためスタッフの元に走った。
大急ぎで自宅に帰り、彼女の部屋の前で呆然と立ち尽くしている宮城にカオルが、『7』の番号がぶら下がったストラップを差し出しながら言う。
「これが、テーブルに置いてあっただけで……」
「そう……」
「お兄さんのところに、行ったのかも……」
「——え。兄貴いること、知ってたの?」
しまったという顔で目を逸らしたカオルを宮城がまっすぐに見た。
「なにか、あったんだ?」
「……」
「ねえ、なにがあったの?」
「……」
「母ちゃん。」
「——!」
高校生の頃まで宮城はカオルを「母ちゃん」と呼んでいた。しかし、大人になり気づけば息子は母のことを「母さん」と呼ぶようになっていた。久しぶりに昔のように呼ばれたカオルは呆気なく観念して、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「……実は、このあいだ……。家に、来たの。」
カオルの声はかすかに震えていた。きっとよくないことがあったに違いないと宮城は思った。
「手術、やめて欲しいって言われて……」
「それで?」
「もちろん、お金で済むような話じゃないって、思ったんだけど」
「渡したんだね?」
「黙ってて、ごめんね……リョーちゃん。」
「……ちょっと出かけてくる」
短く言い置いて宮城は玄関を飛び出し自転車にまたがった。途中、携帯が鳴った。相手は、彩子だった。メッセージを読んだかと聞かれ、読んだけれど急用が入って行けないと思うと答えると、一応駅で待ってるから、来られたら来て欲しいと言われて電話は切れた。
宮城が向かった先はもちろん彼女と彼女の兄が住んでいたアパートだ。到着して、すこし乱暴にノックをすると、ドアはすんなりと開いた。竜はまるで宮城が来ることを予期していたように落ち着いた様子で「よぅ」と言う。
「名前ちゃん……来てない?」
硬い表情のまま宮城が単刀直入に言った。竜もそれに淡々と応える。
「来てたとしたら?」
「返してほしい」
「返してほしい?名前はお前の物じゃねーだろ」
「……」
「ましてや——てめえの妹を救うための、道具でもねえ」
「……名前ちゃん、どこにいるんだよ」
「教えるわけねーだろ」
「頼む——」
そう言って頭を下げた宮城を、冷ややかな目で見下ろしながら竜が言った。
「なんの因縁だろうな……おれは��あの頃�≠ゥらずっと、クソみてぇな人生送ってるよ」
宮城がゆっくりと頭をあげて、竜を見やる。
「お前と同じ立場ならな、俺も同じことするんだろうが……」
「……」
「お前が俺の立場だったら、お前、どーする?」
それは、過去に自分が神に対して放った言葉と同じだった。一瞬、喉が詰まった宮城はゴクリと生唾を飲んだ。そして竜がさらに言葉を重ねた。
「黙って、妹を差し出すのかよ」
「……っ、」
「なあ、どーなんだ?」
「……わかんねぇ……けど、ただ——」
「ただ?……なんだよ?」
宮城は勝ち誇ったような薄笑いを浮かべている竜を正面から見据えた。
「俺は、妹を苦しめるようなことはしねーよ。」
「……」
「名前ちゃんは、お前と一緒にいても幸せになれねーと思うぜ」
宮城のその言葉で憎しみに顔をゆがませる竜に「じゃあ」と言い置いて宮城はその部屋をあとにした。
そのまま宮城は彼女が働いていたところや行きそうな場所を探し回った。たが、彼女は見つからなかった。すでに日が暮れて、時刻は夜の八時を回っていた。
彼女が通りはしないかと、道行く人の顔に目を凝らしていると駅前に立っている彩子の姿が飛び込んで来る。驚いて近寄って行くと、やってきた宮城を見て彩子がぱっと顔を輝かせた。
「……もしかして、ずっと、待ってたの?」
「ええ。やっぱり、来てくれたのね……」
「あ、その……」
宮城は困って、あいまいにうなずいた。
「まだ間に合うわよね、面会時間。行きましょ?アンナちゃんのとこ」
そう言うなり、彩子が先に歩き出した。しかし宮城は、その場で足を止めたままだった。
「……リョータ?」
振り返った彩子に宮城は深々と頭を下げる。
「ごめん……っ」
「え……」
「彩ちゃんの気持ちはすごく嬉しい。でも……」
「でも……?」
「ドナーになるって、言ってくれたけど……無理してんだよね?」
「……」
「彩ちゃんのことはよくわかってるつもりだよ?本当は、ドナーになること決心しきれてないんでしょ?」
「……」
「もう、大丈夫だから。」
二人の周りを、仕事帰りや飲み帰りの人たちがガヤガヤと騒がしく往来している。
「はっきり言ってよ……優しくなんかしないで」
「……」
「私だってね、リョータのことはよーくわかってるつもりよ」
「彩ちゃん……」
「リョータの中で、もう答え出てるんでしょ?」
宮城が苦渋をにじませながら、小さく頷いた。
「ごめん……」
「……」
「彩ちゃんとは……結婚できない。」
その言葉を探るように、じっと宮城を見ていた彩子。しばらくしてから彩子が「そう、わかったわ……」とつぶやくように言った。それに対して宮城がまた頭を下げて謝罪する。
「ごめんね」
「もう、謝らなくていいわよ。」
彩子は、泣くところを見られたくなかったのか宮城から顔を背けるとそのまま踵を返して駅へと向かう人混みの中に消えていった。
*
自転車を押して、ノロノロと坂道を上っていた宮城は家の門の前にたたずむ人影に気付いて足を止め暗がりの向こうに目を凝らした。はっきりとは見えないが、それが彼女であることが宮城にはわかった。宮城は、自転車に飛び乗るようにして勢いよくペダルを踏み出す。
宮城が着くと、彼女はなにか白い封筒のようなものを家の郵便受けに入れようとしているところだった。
「どこ……行ってたんだよ」
声をかけた宮城に、びくっと肩を揺らして振り返った彼女が「これ……」と言って、封筒を差し出して来る。
「おばさんに、返しておいて」
「……」
だが宮城は、それを受け取らなかった。彼女は宮城のダウンジャケットのポケットに、無理やりその封筒をねじ入れて言った。
「離婚届け、あとで送るから……」
そう言い残して立ち去ろうとする彼女の背中に向けて宮城が声を掛ける。
「名前ちゃん」
その声に一度歩む足を止めかけた彼女だったが立ち止まらずに、歩みを進める。たまらず宮城が走って後を追い、思い切り彼女の腕をつかんだ。突然の衝撃に、彼女が宮城と向かい合うかたちになった。少しの沈黙を置いて俯いたままの宮城が口の中でつぶやくように言う。
「……戻って来てよ」
「……は? なに、言ってんの」
「戻ってきて、欲しいんだ」
「……」
宮城は彼女の腕をつかんでいた逆の手で『7』の番号がぶら下がったストラップを彼女の手の平に乗せて言う。
「そーいう、契約でしょ?」
刹那、流れ星がひとつ。まるで、いまのふたりの心の嘆きの声が一つの光を伴っているかと思えるように、二人の頭上を越えて流れていった。