第八章 最後の夜
———翌日。病室で、手術前の回診にやってきた神に手術衣姿でベッドに横になっているアンナが揶揄うように言った。
「神先生、緊張してるの?」
「え? ははは、少しはね」
そう言って微笑む神にアンナとお揃いの手術衣を着た彼女が言う。
「ねえ、失敗しないでよね?」
「はい、任せて下さい。」
「頼りないわー」とわざと聞こえるように呟く彼女にアンナが笑いながらベッドサイドに彼女と一緒に立っていた宮城を見た。
「リョーちゃん、そんな深刻な顔しないでよー」
「……え、してねぇよ?」
「��リョーちゃん�≠ヘ、いつも深刻ヅラじゃん」
と、今度は彼女が揶揄うように言う。たまらず笑いだした宮城の横でカオルが優し気にアンナに聞いた。
「アンナ、退院したらなに食べたい?」
「うーん……カボチャの煮付け、かな」
「それ、名前さんの得意料理!」
「え? そーなの?」
そう聞き返したアンナに宮城が答えた。
「母さんのには負けるけどねっ」
「はあ?本気出したら負けないしー」
強がりを言って笑った彼女をアンナが見る。
それに気づいた彼女が「ん?」と首を傾げると、アンナがぽつりと言った。
「手術が終わったら、またネイルしてくれる?」
「……いいよ。」
彼女が微笑んでそう返事をしたとき看護婦が
二人、ストレッチャーを押して、アンナの病室に入って来た。
手術室へ入る直前までアンナの手をカオルが、彼女の手を宮城が握って、言葉にせずとも激励を送った。不安そうな表情の宮城を鼻で笑った彼女が手術室に入る直前、その手を放して小さな声で「大丈夫だよ」と、笑ってみせた。それに宮城も大きくひとつ頷いたのだった。
*
病室のカーテンの隙間から差し込んでくる日光から顔を背けるようにしてゆっくりと目を開けた彼女の目に入ってきたのはベッドサイドの椅子で眠っている宮城の姿だった。目の下のくまが時間の経過と宮城の疲労ぶりを物語っていた。邪気の無いその寝顔に、知らず知らずのうちに見入っていた彼女は、急にまぶたを開いた宮城から慌てて目をそらし、天井にその目を移した。すると起きたての宮城が声を発する。
「あれ……?目ぇ、覚めた?」
「ん、うん……。アンナは?」
「……大丈夫。手術は、成功したよ」
「……よかった。」
安堵の息をついた彼女を真っ直ぐに見て宮城がはっきりとした口調で言う。
「ありがと。」
「うん。……ねえ、」
「ん?」
「アンナのそばに居てあげなよ」
「いや、母さんがついてるから」
「そう……」
返事をしてから彼女がひとり言のように呟く。
「これで、一応は目標達成ってわけか……」
「えっ?」
そう聞き返した宮城の彼女を見ていた視線が、一瞬だけ戸惑ったように宙をさまよった。そしてそれを誤魔化すように宮城は言う。
「……ちょっと、神先生呼んでくるね。」
「私は、大丈夫だから」
「え?」
「そのまま、アンナのとこ行ってあげて」
「あ、うん……」
あいまいにうなずくと宮城は、彼女の病室から静かに出て行った。まもなくして神が来て診察を終えカルテになにかを書き込んでいた神に彼女が言った。
「ありがとね、手術してくれて。」
無言で小さく頷いた神に、彼女が力なく笑って言う。
「お腹に傷痕つけられた上に、しばらくまっずい病院食を食べさせられるんだろうけどさー」
「退院したら宮城さんに、美味しいレストランにでも連れて行ってもらってください」
「えー?先生がごちそうしてよ、お金持ちなんでしょー?」
それに対して神は「ぜんっぜん」と笑って軽く手を振り謙遜する。
「しがない勤務医ですから」
「……ちぇっ。」
「まあ……ランチくらいなら奢りますけど、しばらくは病院食で我慢してください」
「ハハ。はーい、先生っ♪」
痛みに耐えて、いつものように変わらず笑って見せる彼女を神は静かに微笑みながら見ていた。
*
手術から二日後、看護師に付き添われて病棟の廊下をそろそろと歩いていた彼女を見つけた宮城が驚きの声をあげた。
「えっ!もう、歩けるんだ?」
「痛くても、歩いたほうが回復早いんだってさ」
うらめしげに看護師のほうを見てそう答えると彼女が宮城に聞いた。
「アンナは?どんな感じ?」
「うん、これから行くとこ」
「そか……」
「よかったら、一緒に行く?」
彼女は少し悩んでから「そーだね。」と頷くと宮城に腕を取られながら集中治療室のある西病棟のほうへとゆっくりと方向転換した。
宮城に伴われて集中治療室にやってきた彼女を見てアンナがパッと顔を輝かせる。
「名前さん!」
照れ臭そうに軽く手を挙げた彼女にアンナが、「ありがとう。」と笑顔で言って、右手でピースサインを作って見せた。
アンナが集中治療室から一般病棟に移ったのはそれから八日後のことだった。
——彩子さん。
お久しぶりです。元気ですか?
手術が終わって十日目。
やっと普通の病棟に戻れて
外の景色を見られるようになりました。
たくさん心配かけてごめんね。
これからも、お仕事がんばってね。
アンナがようやく許可された携帯でメッセージを打ち終えたとき病室に母親が彼女を連れ立って入って来た。彼女がパジャマ姿ではなく、普段着なのを見てアンナは目を丸くする。アンナはこれから一、二ヶ月は入院が必要だが、彼女は回復も早く一週間ほどで一足先に退院することになったのだ。
「あれ?名前さん、きょう退院だっけ?」
「うん、お先にー」
「え、リョーちゃんは?」
不思議そうにあたりをキョロキョロと見回して聞いたアンナに彼女が言う。
「仕事でしょ」
「ええ! 迎えに来てないの?まったくもう!」
「三井さんたちに迷惑ばかりかけていられないでしょー?」
そう言ってたしなめるカオルにフンという顔をしてアンナが彼女に目配せをした。
「退院の日くらい……ねえ?」
そう言うアンナに微笑み返すと彼女は「じゃあここまででいいよ」と言ってカオルが持っていた荷物に手を伸ばした。しかしカオルは、首を横に振って荷物を渡さない。
「送っていくよ?」
「え……、いいよ」
「まだ、痛むんでしょ?」
「ぜーんぜんっ?」
そう言った彼女が「まあ痛いっちゃ痛いけど」とすぐに言い直した。そんな彼女を微笑ましげに見やったカオルがアンナに言った。
「じゃあ、明日も来るからね」
「うん。あ!名前さん」
「ん?」
「あの約束、忘れないでよね?」
「ネイルでしょ?ちゃんとやってあげるって」
アンナと笑顔を交わし、彼女とカオルは病室をあとにした。