彼女が退院したその日の夕食。テーブルの上にずらりと並んだ料理を見渡しながら宮城が言う。
「え。やけに豪華じゃねーの?」
「だって今日は、名前さんの退院祝いだもの」
カオルはそう言うと彼女に「さぁ、食べて食べてっ!」と促した。病院での味気ない食事つづきだった彼女にとって久しぶりの家庭料理は何よりものご馳走だった。ひとくち料理を口にふくんだ瞬間、思わず頬をゆるめた彼女にカオルがそっと語りかけるように言った。
「名前さん」
「ん? なに?」
「このまま、ウチに居てもいいのよ?」
「え?」
「名前さんさえ、嫌じゃなければだけど……」
一瞬、気まずそうに目を伏せた宮城をちらっとカオルが見やると「ね?」と宮城にすかさずうながす。それを見ていた彼女が咄嗟にさえぎった。
「いや、いいよ。出てくよ。そういう契約だし」
カオルがそれでいいのかというような顔つきで再度、宮城のほうを見た。それに観念したように宮城が口を開く。
「——じゃあ。次に住む場所が決まるまで、いたらいーんじゃない?」
言葉につかえながらそう言った宮城に彼女は、緩みそうになった頬を引き締めて「うん」とだけ答え、食事を続けた。
数日後、宮城が休みの日にふたりは不動産屋を何軒か回った。店頭でもなかなかいい物件が見つからず実際に部屋を見に行くことができたのは、家を出てからかれこれ、四時間近くたってからのことだった。
駅から海に向かって十五分ほど歩いたところにあった、ワンルームマンションの一室を見回している彼女に不動産屋の担当者が言う。
「条件から見ても、六畳のワンルームってとこが精一杯ですかねえ」
「そうなんだあ……」
悩んでいるのかそれとも具合があまりよくないのか少し顔をしかめながら彼女がそう返事をしたとき、担当者の携帯が鳴り出した。
「——あ、ちょっと失礼します」
携帯電話を片手に担当者が部屋を出て行くのを見届けて彼女がバルコニーへと移動する。そして手すりに肘を乗せた彼女がぽつりとつぶやいた。
「星、見えるかなあ。」
「え?」
「星。」
「あー……どうだろうねえ」
そう言い返したあと宮城もバルコニーに出て、彼女の隣に並び小さな声で「あのさ」と言った。
「ん?」
「ホントに、ひとりで大丈夫?」
「え?」
聞き返した彼女の視線と宮城の視線がまともにぶつかった。しばらく沈黙が続いたあと、彼女がその視線を逸らしてボソリと言う。
「心配しないで」
「……」
「一人で、やり直すって決めたから」
「うん、そっか……」
結局その日のうちに彼女は決断を下しきれず、
また出直しますということで、最後の不動産屋を出た。
「付き合ってくれてありがと。近いうちに自分で決めてくるから、もういいよ」
帰り道、彼女は宮城にそう告げる。宮城は少々ためらいながらも無言でうなずいた。それを見て見ぬふりをした彼女は「ねえ、今日の晩ごはんはなにかなぁ〜?」と言いながら、いつものように笑顔を向けた。
宮城と自分は所詮、住んでいる世界が違う人間なのだ。人の好意に期待したり、変な希望をもったりしないこと。それが自分で決めたルールじゃなかったのか。
早いうちに希望の芽を摘んでおかないとあとでもっと辛い目や悲しい目に遭う。彼女は、何度も何度も、そう自分に言い聞かせたのだった。
*
退院してからちょうど一週間後、彼女は術後の検診のために宮城の運転する車で病院に行った。いくつかの検査と神の診察を終えて、宮城が待つアンナの病室に行くと中から人の話し声が聞こえてきて、思わず病室の手前で彼女は足を止める。開け放たれていたドアの陰からそっと中を覗くとアンナのベッドを囲むように宮城、三井、そして彩子がいた。三井がなにか冗談を言って笑わせているらしく病室が陽気な笑い声で包まれている。
もしも、アンナの身になにも起きていなければこれが本来のあるべき姿なのだ。
病室の白い壁に吊るされた色とりどりの千羽鶴やアンナのクラスメートからの寄せ書きが自分は部外者なのだという事を彼女に強く実感させた。
彼女がドアから離れて後ずさりしかけたとき——まるでその気配を察したかのように彩子がふいに彼女のほうを見る。彩子は彼女に向かって微かに頷いて目配せすると、すぐに病室から出てきた。そのまま二人は病院の屋上へと向かった。
屋上に出ると、真っ青な空に刷毛でさっとひと撫でしたようなすじ雲が浮かんでいた。ふたりは自然とベンチに並んで腰を下ろす。
「具合、どう?」
「ふつう」
彩子の問いかけにそう短く答えた彼女の言葉に「そう」と小さく頷くと彩子は真っ直ぐに彼女を見据えて言った。
「ありがとう」
「え?」
「アンナちゃんを、助けてくれて。」
彩子の言葉になにも答えようがなく彼女は首をすくめた。彩子はそんな彼女に微笑みかけて青い空を見上げる。
「私ね——。」
空を眺めていた彩子がふと彼女のほうを見た。
「あなたがいなかったらドナーになるなんて言い出さなかったと思うのよ」
「……」
「正直、嫉妬もしてたしね」
そう言って彩子はひとりでおかしそうに笑うと言葉を続けた。
「でも、リョータにはっきり言われたわ。結婚できないって」
「……え、」
「そうしたらなんか、スッキリしたの」
「……。あんたってさぁ、」
「え?」
「ほんと、いい女だね。」
「……でしょ? よく言われるのよー?」
そう言って笑う彩子に彼女が、白い歯を見せてうなずいた。
「——リョータのこと、よろしくね。じゃあ。」
それだけ言うと彩子は一度も振り返ることなくそのまま屋上を横切って、階段室の中へと消えて行った。
*
三井たちが帰ったあと急に静かになった病室でアンナがあらたまった口調で宮城に問う。
「リョーちゃん」
「うん?」
「名前さんと、どうするの?」
その質問に少し間を空けてから宮城が答えた。
「出て行くことになったよ」
「……そっか」
「うん……」
「前にさ、私が助かるならどんなことでもしようと思ったって、リョーちゃん言ってたでしょ?」
「うん」
「でもさ、だれでもよかったわけじゃないよね」
「……。」
宮城はすぐに答えることができなかった。あのときはアンナの命を救うためなら誰でもよかったというのが正直なところ、本心だったからだ。
「それは……」
と、言い淀む宮城にアンナが重ねて言った。
「名前さんじゃなきゃ、ダメだったんでしょ?」
「……」
「私は……リョーちゃんが選んだ人が名前さんでよかった」
「……」
「そう、思うよ」
それに関しては宮城もおなじ気持ちだったが、宮城は「そっか」とだけ短く言ってあとの言葉は飲み込んだ。