朝から黙々と部屋で引っ越しの準備をしていた彼女に宮城が「おはよー」と声をかけた。作業の手を止めないままで彼女が「おはよ。」と挨拶を返す。
 先日決心した通り、彼女は宮城に頼ることなく一人で部屋を見つけ出し、一人ですでに引っ越し業者との話にも折り合いを付けていた。

「あー、手伝おっか?」
「大丈夫、仕事でしょ?」
「……」
「明日の朝、引っ越し屋さんくるから」
「ふうん……そっか」

 そう頷いてから宮城がふと「あ……てかさ」と思い出したように聞いた。

「新しいとこ——」
「うん?」
「こんど住むとこさ、どこらへんなの?」
「……。いいじゃん、どこだって」

 彼女はフフンと笑って本日初めて宮城を見た。しかし宮城は微笑みもせずに真剣そうな面持ちで彼女を見ていた。それになんだか気まずくなった彼女は宮城から顔を背けてまた作業に戻る。

「私と関わらないほうが、あとあと面倒なことに巻き込まれなくていいんじゃない?」
「そんなこと……ねーよ」
「……」
「……」
「まぁ……いいとこだよ。駅からすこしだけ遠いけどね」
「……そっか」

 彼女が「うん」と頷いたとき分厚い布団を抱えたカオルがやってきて、気まずい空気を打ち破るように明るい口調で言った。

「名前さん、これ持ってく〜?」
「あ……」
「冬物、必要でしょ?」
「うん! ありがとう、いただく!」

 ことさら元気に答えると彼女は宮城に背を向けるようにしてカオルからその布団を受け取った。
 ——その日の夜。彼女と宮城、カオルの三人は、そろって最後の夕食をとった。

「今日はね〜、最後だからって名前さんが作ってくれたの」

 カオルの言葉に宮城が「へえー」と、感心した声を上げて彼女のほうを見て聞いた。

「どれ、作ったの?」

 聞かれた彼女は宮城のほうを見向きもせずに、黙ってかぼちゃの煮付けを箸の先で指した。

「ええー?またぁ?」

 宮城がそう言って笑うと彼女は唇を尖らせながら言った。

「このあいだ……おいしいって言ってたから」

 そんな彼女を微笑みながら見やった宮城が箸を持ち直して「どれどれー?」と言ってかぼちゃの煮付けを口に入れた。とたんに宮城がうんうんと大仰に何度もうなずく。

「ほんっとに、おいしーよ。」

 宮城の言葉で思わず表情をややゆるめた彼女にカオルが茶化すように言う。

「もうすっかり得意料理なんじゃない?」
「だれでもできるよ、これくらい」

 ふたりのやり取りを楽し気に見ていた宮城が、「あっ、そうだ」とポケットから小さな鍵を取り出して彼女の目の前に置く。

「ハイ」
「……ん? なにこれ?」
「自転車の鍵デス。まあーなんつーか、引っ越し祝い?みたいなもん。持って行きなよ」
「え?」
「ほら、駅から遠いって言ってたっしょ」
「……」
「だから、仕事帰りに買って来た」
「あ、そうなんだ……うん、ありがとう」

 彼女の口調はどこか、歯切れが悪かった。だがその理由を宮城は、すぐに知ることになる——。
 夕食後。いつものように、部屋でクラゲに餌をやっていた宮城。すると開けっ放しだったドアをコンコンと叩く音がした。振り返るとそこに彼女が立っていて遠慮がちに宮城に声をかけてきた。

「あのさぁ……ちょっと、頼みたいことがあるんだけど」
「えっ、なに?」
「じ、じてんしゃ……」
「へ? うん、自転車がどーたの?」
「実は……乗れないんだよね、私……。」
「え。」

 十分後、二人は近くの公園にいた。人気の無い寒い夜の公園は、まさに自転車の練習にはうってつけだった。
 ハンドルにしがみつきながらサドルの上で体をふらつかせている彼女に、自転車の荷台を両手で支えながら宮城が問う。

「ねえ、ほんとに乗れねーの?」
「ウソついてどーすんのさ……」

 彼女の返しにおかしそうに宮城が笑うと「はい漕いで」と声を掛けた。彼女は言われたとおりにペダルを踏み、宮城はそれについていく。

「まだ、離さないでよっ!?」

 彼女の口調はあいかわらず強気だが、その声は微かに震えていた。

「ハイハイ」

 と、答えながら宮城が手を離したとたん彼女の身体が自転車ごと大きく左に傾いた。慌てて足で地面を蹴って自転車を支えた彼女が、バッと顔を振り向かせて口先を尖らせる。

「も〜う、離さないでって言ったじゃーん!」
「や、そーだけど……いつかは、離さねーと」

 その宮城の言葉に一瞬だけ表情を暗くした彼女がプイッと正面を向き直して「……もう一回」と言った。宮城は言われるがままに荷台に手を添え彼女がペダルに足をかけるのを待った。

「はい、漕いで?」
「う、うん……」
「……そうそう、まーっすぐ前見てぇー」
「離さないでよっ?」
「わかってるって」

 そう言いながら宮城が、もう一度荷台から手を離すと五メートルも進まないうちに彼女はバランスを失う。そうして振り返り先と同じように声を張る。

「まだ離さないでって言ってるじゃん!」
「てかさ、子供の頃とか練習しなかったの?」
「——兄貴に……教えてもらったんだけどさあ」
「え?」
「五歳のとき。公園で。うしろ持ってもらって。
でも、ぜんぜん乗れるようにならなくてさ……」
「あー。運動神経、悪い系だ?」

 揶揄う宮城に彼女が「うるさい」と言い返したがその顔には、はにかんだような笑みが浮かんでいた。

「練習してたらいつの間にか夜になっちゃって。続きはまた明日って約束して家に帰ったら、親がいなくなっててさあ」
「……」
「夜逃げ、ってやつ?」
「そか……」
「もう、自転車どころじゃなくなってさぁー」
「……」
「あのとき、自転車に乗れるようになってたらさ、いまごろあのクソ兄貴とも縁、切れてたのかな」
「……じゃあ今度は、ぜったい乗れるようになんねーとね」
「うん。……よしっ、もう一回!」

 彼女はそう言ってうなずくと再びペダルを漕ぎ出した。それまで、グニャグニャと蛇行していた車輪の跡がいつの間にか一本の線になっている。宮城はそっとまた自転車の荷台から手を離した。宮城の手が離れたことに気付かないままで今度はバランスを失うことなく彼女はペダルを漕ぎつづける。その場に立ち尽くしたまま宮城はどんどん遠ざかっていく彼女のうしろ姿を見ていた。
 そうして、自転車を停めて振り向いた彼女が、満面の笑みで言う。

「——乗れた!」
「うん……。乗れた、ネ。」

 公園内の街灯が二人の影を照らし出していて、その頭上を一筋の流れ星が流れていった。


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