その翌朝、宮城の部屋で水槽のクラゲを眺めていた彼女に宮城が背後から声を掛けた。
「荷物、全部おもてに出しといたよ」
宮城の声に首を振り返えらせて「うん、ありがと」と短く答えた彼女がまた水槽に視線を戻してぽつりと言う。
「この子たちとも、今日でお別れかあ……」
名残り惜し気にそう言うと、彼女がおもむろに立ち上がり署名済みの離婚届を宮城に差し出した。宮城はそれを躊躇いながら受け取るとズボンのうしろポケットから封筒を取り出す。
「これ……」
「……ん? なにそれ?」
「百万。」
「……」
「約束の、成功報酬……デス。」
封筒を手にしたとき彼女の顔が一瞬悲しそうにゆがみかけた。だが彼女はそれを押し隠すように咳払いして受け取ると宮城に向かって「ありがとね」と右手を差し出す。
「うん……ありがとう。」
宮城も手を差し出し、ふたりは強い握手を交わした。
彼女の荷物を積み終えた小型トラックの荷台はもったいないくらいにスカスカで、宮城が贈った自転車ですら横に倒して乗せられるほどだった。
彼女が改まった態度で送りに出て来たカオルと宮城に「お世話になりました」と小さくお辞儀をした。それに応えるかのようにカオルが言う。
「名前さん」
「ん?」
「いつでも、戻ってきていいからね?」
「……。ありがとう、いままでたくさん」
そう応えた彼女と宮城の視線が重なったが二人とも言葉を口にすることはなかった。エンジンが始動したのを合図に彼女が「じゃあ、」と言って、トラックの助手席に乗り込む。あっけないくらい簡単にトラックは走り出して、すぐに宮城たちの視界から消えていった。
「よかったのよね、これで……」
カオルが自分で自分に言い聞かせるかのようにぽつりとつぶやく。宮城は母親のその言葉にあいまいにうなずくと、自分の自転車にまたがった。
「じゃあ、仕事行ってくるね」
「うん、いってらっしゃい。」
自転車で坂道を下って行きながら宮城は世界が一変してしまったかのように目に入るもの全てが色褪せて見えることに気付いた。そして同時に、まるで自分の身体の一部がもぎ取られてしまったような途方もない喪失感に襲われた。宮城は自分がいま、かけがえのないものを失おうとしていることに気付いたのだ。
道路が通勤ラッシュで渋滞していることを祈りつつ宮城は大きくハンドルを右に切りトラックが走り去っていった先の道を全速力で走り出した。
彼女を線路で見かけたあの日——自分にはもう、走る理由がないと思った。しかし、もしも本当に走る理由、そんなものがあるのだとすれば宮城は今だと思ったのだ。
トラックの中、カーラジオから流れてくる音楽に合わせて小さく鼻歌を歌っていた運転手が突然「あれっ?」とバックミラーを見やる。
「忘れものでもあったんですかねー?」
「えっ?」
運転手がバックミラーを指差したので、彼女はサイドミラーを見た。そこに映っていたのは宮城の姿だった。とっさにどこか停めやすいところで待っていてくれるよう運転手に頼むと彼女はトラックを下りた。自転車を下りて膝に手を当てハアハアと肩で荒い息をしている宮城に彼女が言う。
「足も速いけど、自転車も負けてないね」
「……っ、行かないで、くれない?」
「え……?」
「行かないでよ……」
「……無理、でしょ」
心が激しく揺らぐのを感じながら彼女は宮城への思いを断ち切るようにもう一度「無理だよ」と言ってトラックのほうにゆっくりと戻った。
呆然とその場に立ち尽くすしかできない宮城。ほどなくして発進したトラックは、宮城の前から見えなくなったのだった。
*
宮城は水族館に着くといつものように自転車に鍵をかけた。ふと海に視線を向けて宮城は誘われるように水族館の館内ではなく海の方へと歩いて行く。辿り着くと宮城は思わず足を止めた。そこにはコンクリートに座って海を眺める彼女の姿があったのだ。宮城はここで彼女と会った日の事を思い出す。「一緒に、飲みます?」と、缶ビールを差し出されたあの日、彼女は「知ってる?」と、クラゲの話をした。
宮城の気配に気付いた彼女が、座ったまま振り返る。宮城の姿を見て一瞬目を見開いた彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「——まだ、開いてなかった……」
「……」
「ここのクラゲ、最後にもう一回だけ見たかったんだけどね」
「……」
「……じゃあ。」
彼女が宮城の前を通り過ぎようとしたとき宮城の手が彼女の腕に伸びた。もの凄い力だった。
それは、あの踏切で宮城が彼女の腕をつかんだときのような、必死さを感じさせた。そして次の瞬間、彼女はその腕を強く引き寄せられて宮城の腕の中に抱きすくめられていた。
「俺には、名前ちゃんが——」
「……」
「名前ちゃんが必要なんだ……どうしても」
彼女も宮城の背中に手を回した。その手に力を込めた瞬間、彼女の瞼から一筋の涙が零れた。
宮城の力が強すぎて息が苦しいくらいだったがそれとは裏腹に冷え切っていた体が温かくなっていくのを彼女は感じていた。
第八章 完