第九章 引き裂かれた絆
彼女は宮城と一緒に、水族館の館内にいた。
クラゲファンタジーホールの中程にあるグラスタワーの中に入って泳いでいるクラゲを見た彼女が思わず歓声をあげる。
「すごーい。これぜんぶ、生きてるんだよね?」
「うん。クリスマスが近づくと、これをやるのが最近の恒例行事なんだよ」
「クリスマス、かあ……」
「ん?」
「初めて会ったときってさ、まだ暑かったよね」
「あー。そう言や、そーだったねぇ」
「なんだか、あっという間だね」
「……」
「いろいろありすぎて、あっという間……」
「これからは……ゆっくり行こーよ。」
「……そうだね。」
微笑んで言った彼女に、宮城も微笑み返した。そのまま二人並んで、はじめて出会ったクラゲの水槽の前でただただ揺蕩うクラゲをじっと眺めていた。
その日、パートから帰宅したカオルは、玄関で彼女から出迎えられたことに驚きのあまり思わず目を見開いて固まってしまった。
「……おかえり。また……お世話になります」
彼女は照れたようにそう言ってから小さく頭をさげた。カオルは、驚きでこわばっていた表情を解くとニッコリと微笑んで言った。
「名前さん、おかえりなさい。」
「……、ただいま。」
彼女は一瞬言葉に詰まったが、すぐに微笑んでカオルにそう返した。
その日の仕事を終え彼女とカオルの待つ自宅に向かって自転車のペダルを漕ぐ宮城の足取りは、ずいぶんと軽かったが、家まであとすこしというところで、ふとその回転が緩まった。門のそばに人待ち顔で見知らぬ女性が立っていたのだ。
「——ただいま。」
居間に入って来た宮城の沈痛な表情を見た瞬間彼女とカオルの顔に浮かんでいた笑みが、すっと消えた。
「おかえり……」
そう応えながら彼女は、自分たちの身になにかよくない事が起きたことを悟った。同時に宮城が小さな声で言う。
「いま、家の外で新聞記者と会った。張り込んでたんだってさ」
「えっ」と絶句したカオルの指先が、かすかに震えた。
「それで、なんだって?」
カオルの代わりにそう聞いた彼女に、さっきの記者がよこした名刺を見せて宮城が答える。
「アンナの手術のこと……ぜんぶ知ってるみたいだった。明日の新聞に載るって」
「……あいつが、兄貴がチクったんだね」
「うん、たぶんね……」
宮城が記者から聞いた掲載内容を一通り二人に説明したあと宮城と彼女の顔をおろおろと見比べながらカオルが言った。
「どうしたらいいの……」
「私がこの記者に会って、直接説明するよ」
「そんなことしたら、向こうの思うツボじゃん。言わなくてもいいことまで言わされるって」
「言わなくてもいいことって?」
「えっ? それは……」
言葉を濁した宮城をジロリと見て彼女が言う。
「私が、風俗嬢だったってことでしょ?」
彼女の口から出た思いがけない言葉にカオルの小さく息を呑む音が聞こえた。
「水族館に勤めてる普通の人間がついこのあいだ知り合ったばかりのどこの馬の骨かもわかんない風俗嬢なんかと結婚するはずない——」
「……」
「どうせ、そんなふうに思われるだけだって……そう思ってんでしょ?」
「……思ってねーし。俺はただ」
「きれいごと言わないで!」
そう叫ぶなり彼女が両手をテーブルの上に叩きつける。その反動でグラスが倒れて、テーブルに小さな水溜まりを作った。
「私だって、自分があんたにふさわしい人間じゃないってことぐらい、わかってるよっ!」
「ちがうくて、名前ちゃん、聞いてよ」
反論しようとした宮城を彼女がさえぎった。
「——私、嬉しかったよ。私みたいな人間だって、必要としてくれたこと……ほんとに嬉しかった」
「……」
「あんたたちが助けてくれて嬉しかった。だからあんたたちがどう思ってようと私は……偽装結婚なんて言ってくる奴らを許さない」
「……」
「少なくとも、いまの私の中では偽装結婚なんかじゃないから……」
「俺は……」
「……」
「名前ちゃんのこと、守りたいだけだよ。」
「……。」
シンとなる室内に八時を告げる時計の鐘の音が虚しく響き渡った。
*
翌日の仕事の昼休み時間。宮城は駅まで自転車を飛ばした。『日刊タイムス』は名目こそ夕刊紙とはいえ、遅くとも昼前には第一版が駅の売店に並ぶからだ。
宮城たちのことが書かれていることは、新聞を手に取るまでもなくすぐにわかった。売店の新聞ケースの前面に『——神奈川県内の病院で臓器売買!?』と、大きく印刷された紙が貼られていたからだ。素早く一部を抜き取って代金を支払うと宮城は人混みから逃れ、すぐに新聞を広げた。
��神奈川県内にある私立大学付属病院で、不正な臓器売買による生体肝移植が行われた疑いが——��
そう冒頭に書かれた新聞には同市内にある水族館に勤務する男性A氏、肝臓移植を必要とする妹、突然知り合った同市内の風俗店で働く風俗嬢の女性B子さん。病院ぐるみの臓器売買事件……と、
そのような内容が記されてあった。
記事を読み終えた宮城の顔からはすっかり血の気が引いていた。そして、新聞に書かれたことが病院や水族館の関係者や彩子たちに知れ渡るまでには一日もかからなかった。
とりあえず宮城が水族館に戻るとすぐにそれを出迎えに来た三井が神妙な面持ちで宮城を見やる。
「おい、おまえ……大丈夫かよ」
「……まあ、あまり。」
「デマだろ?こんなん……」
「……」
「お前にも理由があったんだよな?」
「……、」
「なあ、みや——」
三井の言葉を遮って宮城が視線を逸らしながら言う。
「三井サンたちにも、迷惑かけっかもだけど……ごめん。」
「……宮城。」
——その日の仕事の帰り際、水族館の事務所内でパソコンの前で頭を抱えていたスタッフに三井が声を掛けた。
「なんだおまえ、さっきから固まってんぞー」
「あ、三井さん。これ……」
スタッフがそう言ってパソコンの画面を指差した。水族館専用に作っていた掲示板だ。そこには宮城と彼女の臓器売買疑惑の誹謗中傷とも取れる書き込みが多数書き込まれていたのだ。
「この手の書き込みがウチの掲示板にもたくさんあって……」
「だから、ガセだって言ってんだろーが」
そう言って三井がスタッフの頭を叩いたとき、
その場に宮城がやってくる。
「あ、宮城さん……」
「なに? みんな集まってなにしてんの?」
「ああ、いや……」
気まずそうに目を逸らしたスタッフの目の前にあるパソコン画面を宮城はなんの気無しにのぞき込んだ。そして内容を確認した宮城の顔が徐々に強張っていく。それを見兼ねたスタッフが言う。
「とりあえず……閉鎖しましょっか、ホームページ」
「おう。そーしろそーしろ。」
三井がすかさず賛成の意を表すと宮城があっけらかんとして口を挟んだ。
「ええー?楽しみにしてる人もいんだし、そんなことしなくてもいーっしょ」
「宮城さん……。んー、そーすかねぇ?」
そう言うスタッフに宮城が小さく頷くとそばにいた三井がぼそりと得意げに言った。
「��嵐が過ぎるまで待て�=c…ってか。」
「え……?」
「だな。それがいちばんだな!」
そう言い切った三井に宮城は、うんと頷いた。