仕事を終えて、しばらく海を眺めていたことですっかり日が落ちてしまっていた。宮城が自宅に続く長い坂道で自転車を押しながら上っていると街灯の脇で、空を見上げながら佇んでいる彼女の姿を見つけた。
「おーい、なにしてんのー?」
足を止めた宮城が後ろ姿の彼女に声をかける。彼女は振り返って「あ、おかえり」と言った。
「ただいま。寒くない?」
「うん」
宮城は自転車のスタンドを下ろして彼女の隣に並んだ。すると彼女が夜空を見上げながらやけにあかるい口調で言った。
「見たよー」
「え?」
「新聞」
「……」
「風俗嬢、三百万で肝臓を売る!……ってやつ」
「……あ、そ?」
「あれだよねー。これまた、風俗嬢ってのがみんなおもしろいんだろうなー」
「関係……ねーでしょ。」
「はははっ!関係あるに決まってるじゃん。私が風俗なんかやってなかったら、私に声なんてかけなかったでしょー?」
「……。」
少しの沈黙が二人の間に流れる。そして宮城がぽつりぽつりと言った。
「あのときは必死で……そんなん、考えてる余裕なかったよ」
「……」
「アンナの命さえ助かれば、それでいいって……ほんと、ただそう、思ってたからさ」
「……そうだよね」
「でもさ、いまは違うよ?」
「違うって?」
「名前ちゃんのこと、苦しめたくない」
彼女は、零れ落ちそうになる涙を堪えるように唇を硬く引き結ぶと、振り返って寄っかかる様に腰を預けていたガードレールに両手を付いて空を見上げて言った。
「今夜ね?流れ星がたくさん見えるらしいよ」
「え、ほんと?」
そう聞き返したあと宮城も彼女とおなじようにガードレールに両手を付いて、夜空を見上げた。
「さっきアンナから連絡きてさ、」
「……」
「かわりに、願い事しといてって」
「へえ……」
「ふたご座のほうから、流れ星が流れるらしいんだけど……」
彼女が「ふたご座ってどっち……」と、ひとり言のようにつぶやきながら夜空をキョロキョロと眺めている。
「……でも、ここからじゃ、見えねーと思うよ?明かりもあるしさ」
「えー、そうなんだあ……」
「……あ。展望台行ってみる? あそこなら、もうちょい見えるかもしんねーけど」
彼女はややあってから、ふぅと白い息を吐くと「じゃあ……」と言葉を漏らした。
「……来年。」
「……えっ?」
「来年、連れてってくれる?」
「う、うん……いーけど」
「約束だよ?」
「……うん、約束ね。」
宮城からの返事のあと、少しの沈黙が流れる。すると彼女がとつぜんぽつぽつと話しはじめた。
「でもさあ、流れ星に願い事って、普通に無理だと思わない?」
「ん?」
「だって、一瞬じゃん?いつくるかもわからないし」
「……それだけ強く願ってないと、叶わないってことじゃん?」
「え?」
彼女はそっと宮城を見やる。宮城は彼女を一瞥もせずに暗い空を見上げたまま言った。
「その一瞬で唱えられるぐらい、ずーっと思ってねぇと、叶わないんだよ、きっと」
「ふうん……」
彼女もまたゆっくりと真っ暗な夜空を見上げて言った。
「このままがいい……」
宮城は不意に彼女のほうを見下ろした。とても綺麗な彼女のその横顔に、宮城は目を奪われる。
「叶うかな……」
「……きっと、叶うよ。」
彼女が宮城の言葉に綺麗に微笑んだ。その横顔を宮城はずっと見つめていた。
*
「三井さん!さっきも記者だって人が押し掛けて来て……」
翌日、水槽のメンテナンスをしている三井の元へ男性スタッフが慌てた様子で駆け寄ってきた。
「やっぱり、宮城さん……」
「馬鹿言ってんじゃねーよ!」
水槽から体ごとをそのスタッフに姿勢を向けると強い口調で三井が言う。そしてすぐに水槽へと姿勢を戻して作業をしはじめる三井にスタッフが「そう、ですよね……」と自分を納得させるかのようにつぶやいたときだった。
「三井さんっ!!」
また他のスタッフが血相を変えて大慌てで三井たちのところへと走って来た。そんなスタッフの姿を見やる二人。
「宮城さんが……!」
「あ? どうした?」
三井が聞き返したあとスタッフから内容を聞くや否や三井らは慌てて事務所へと走った。聞けばその日のうちに宮城は、辞表を書き上げて上司に提出したと言うのだ。上司も新聞に書かれていたことがすべて本当だとは、決して思ってはいないとは言ったものの、宮城が自ら辞表を出したことに内心ほっとしていることはその表情からも明らかだった。
「なにも、おまえ……。辞めなくたって……」
事務所で自身の荷物を整理している宮城に三井が言う。宮城は三井の言葉を遮るように「これ、お願いします」と一枚のCDと束になったノートを手渡す。
「たまに生産室のミズクラゲに聴かせてやってね」
「……宮城」
「あとそれ、観察ノート。三井サンに任せるのはちょっと心配だけど、まあ大丈夫っしょ。」
「……」
「……じゃあ、三井サン」
そう言って宮城は、三井の前に右手を出した。三井は眉間に皺を寄せながら宮城を見据える。
「ありがとーございました」
「……っ、バカヤロー!!」
三井は差し出された右手をパンと叩き落としてそのまま宮城の肩に腕を回して抱きすくめた。
「おめぇみてーなクラゲ馬鹿がっ、水族館辞めてどーすんだよ!」
「……ハハハ。」
結局、三井たちの反対を押し切って宮城はそのまま水族館を去った。
水族館を出たころ彼女が急に倒れたとの連絡が母親から入った。彼女はすぐに意識を取り戻したようだが宮城は念のため神に電話をかけて彼女のことを説明し、どうすればいいのかを聞いた。
彼女に呼吸の乱れなどがなければとりあえずは安静にしていれば問題ないだろうとのことだったので、一先ず安心する。
『——じゃあ、お大事に』
と、そう言って、電話を切りかけた神を宮城が「……あのさ、」と引き止めた。
「実は、今日——」
そこまで言っただけで神は、すべてを理解したように『うん』と、相づちを打った。
「辞めて来た、会社」
『そうか……水族館、辞めたのか』
「ああ、病院にも迷惑かけちまって……」
『いや、俺は最初からある程度は覚悟してたから。でも俺は、辞めることができなかった』
「うん……」
『不正を認めてしまうとこの先この病院では移植手術が出来なくなってしまうから』
「……本当に悪かった。ごめん」
そのとき電話の向こうで「神先生」と神を呼びに来た看護婦の声がした。神は「いま行くよ」と電話をすこし離して答え『あ、悪いな』と、宮城に謝罪すると、そのまま言葉を続けた。
『——宮城、覚えてるか?』
「……ん?」
『以前、大切な人がアンナちゃんとおなじ状況になったらどうするか、って聞いたこと』
「えっ?あ、ああ……うん」
『あれ、考えても考えても答えは見つからなかったよ』
「……」
『でも、よかったと思う。アンナちゃんを、助けられて。なんか、矛盾してるよな……』
「……」
『そんなことより宮城。アンナちゃんと名前さんをしっかり守ってあげろよ』
神はそれだけ言うと『まだ診察があるから』と電話を切った。