第十章 いくつもの迷い


 宮城が一人ですべての罪をかぶることで事件は沈静化した。刑務所に収監された宮城は自分との結婚はなかったことにして自分自身の道を歩んでほしいという趣旨の手紙を書き彼女のかつて竜と住んでいたアパート宛に送ったが宛先不明で手紙は返ってきてしまった。

 警察に出頭する前、彼女とはこれ以上関わりを持たないと決めていた宮城も、最後に彼女の声を聞いてしまったことで、決心が揺らいでいたのも事実だった。罪を償ったとはいえ、彼女のことを堂々と迎えにいく資格が果たして自分にはあるのだろうかと拘置所の中で宮城は、そのことばかり考えていた。
 担当弁護士は執行猶予がついてもおかしくないケースだからと宮城に控訴を強く勧めたがどんなに重い罪が科されようとも控訴はしないつもりでいた宮城はその判決を受け入れ、判決拘留期間の二ヶ月を一年から差し引いた十か月という刑期が確定した。いずれにせよ、彼女の行く先が不明ということはそのまま宮城とのことも自然消滅するということに他ならない。
 宮城は彼女に対する強い未練が残っているのを感じながらも、それもまたしかたがないことだと自分自身に言い聞かせた。
 そして事件から二ヵ月後、宮城に一審の判決が下された。裁判長は宮城に懲役一年の実刑判決を言い渡したのだった。


 *


 事件から、ちょうど一年が経った冬のある日、宮城は、十ヶ月の刑期を終え刑務所の外に出た。一年ぶりに吸う外の空気は、格別にうまかった。
 一応、刑務所に一礼してから刑務所の前を通り過ぎると見慣れた車が停まっていた。運転席から三井、そして助手席から、アンナが満面の笑みを浮かべ宮城に向かって手を振っていたのだ。一瞬彼女の姿を探そうとしていた自分に気付き宮城は思わず苦笑いをしていた。
 それにしてもアンナがあんなに元気になって。そう思った途端、なんの前触れもなく宮城の両目から涙が溢れ出して頬を濡らした。空を見上げて涙を乾かすと宮城は三井の車のほうに向かって、ゆっくりと歩き出した。
 車に乗り込んだ宮城に向かって三井が、芝居じみた口調で言う。

「お勤め、ご苦労さんでござんしたァ!」
「うっわ。ハハハ……いたみいりマース」

 そう言い返した宮城にアンナが白い歯を見せて笑う。

「なんか食いたいもんあるか?奢ってやるぜ」
「うーん……やっぱ、かぼちゃの煮付けかな」

 その言葉に一瞬アンナが寂し気な表情をする。アンナも彼女のことを思い出したからだ。お陰で車のなかがとたんにしんみりと静かになってしまった。

「……名前さんから、手紙来た?」

 アンナの質問に宮城が首を横に振った。

「ううん、来てないねえー」
「そっか」

 アンナがそう言って弱々しく笑って言う。

「人生、いろいろだもんね」
「生意気言ってんじゃねーよ」

 と、アンナに突っ込みを入れて三井がアンナのおでこを小突いていると、宮城がしみじみとした口調で言った。

「——でも、ほんとよかった。アンナが……元気になって」

 ややあって三井が「ったく、辛気臭えなあー」と呆れていると、アンナはそれを見て楽しそうに笑うのだった。


 *


「神先生、午後の患者さんは以上なんですが……いつものお客さんが」

 看護婦にそう伝えられ待合室を見やる神の目にアンナの姿が見えた。目が合うや否や「やっほ〜!」と、呑気に手を振るアンナに神が情けなく笑った。

「そろそろ受験でしょ?」
「うーん」
「じゃあ、こんなとこ来てるヒマがあったら勉強しなきゃね」

 そう言って神は、待合室のアンナが座っている目の前のソファーに腰を下ろした。

「元気な顔見せに来てんの!私の主治医はずっと神先生だからね〜」
「今はもう内科なんだけどなー」
「へへ、そっか」

 そう言うとアンナは「あ」と言って鞄の中から一枚のパンフレット取り出して神に手渡す。

「入賞したの!」
「……へえー、すごいね」

 そう言ってパンフレットを広げる神。そこには『高等学校美術コンクール入賞作品展』と記されていた。

「アンナちゃん、おめでとう」
「ありがとうっ!私の神奈川での最後の集大成、見に来てやってください」
「え?……引っ越すんだ?」
「うん。だから一年かけて頑張った成果をお世話になった人たちに見せたくて!」
「そっか、もう一年経つんだね」
「なんか、あっという間だよね……」
「そうだねえ……」
「……名前さんからは、連絡ない?」
「……うん」

 神とアンナは、二人それぞれの思いにふけっていた。


 *


 ��AQUA STAR PET SHOP�≠ニ看板が飾られてある小さな熱帯魚店の外で、ショーウインドウの窓ふきをしているひとりの女性がいる。彼女だ。
 宮城が警察署に行ってすぐに彼女は宮城家から忽然と姿を消した。その事実をカオルもアンナも拘置所にいる宮城には伝えなかった。
 しかし実は、宮城が警察署に行ってから二ヵ月ほどが経ったときに彼女は一度カオルとアンナがいるはずの宮城家を訪ねていた。

『いつでも、戻ってきていいからね?』

 と言ったカオルの言葉が過ぎったからだ。だが着いた途端、ひと目で家の中に誰もいないことがわかった。郵便受けはガムテープで目張りされ、玄関には赤地に白い文字で『売家』と書かれた札が貼られていた。そしてその下には、不動産屋の名前と電話番号が記されていたのだ。彼女はそれを見て、静かにその場をあとにしたのだった。

 彼女は今日もいつものように店の前で窓を拭いていた。作業が終わり店の中に入って届いたばかりの段ボールを開け仕分け作業をしているとピコピコピコーン♪と軽快な出入り口の呼び鈴が鳴り自動ドアの開く音がした。

「いらっしゃいませー」
「へえ……こういうお店で働いてたんだ」

 思わず振り返った彼女に「お久しぶりです」と神が柔らかく微笑んだ。「お前かよ」とでも言いたげに思わず小さく舌を打ち鳴らした彼女に神が緩く笑う。そうしてそのまま二人は店先のベンチで缶コーヒーを飲んだ。

「色んな病院を探したんですけど、全然見つからなくて」
「……なにしてんの、こんなとこで」
「ん? まあ……僕もたまには休暇をね」
「へえ」
「前の病院のナースの子からこれ、偶然ネットで見つけたって」

 そう言って神は彼女に一枚のコピー用紙を手渡す。そこにはこのお店の紹介記事と共に店内の写真の隅に映っている彼女の姿があった。

「なるほどねー」
「ちゃんと検診、受けてますか?」
「べつにどこも痛くないし」
「その分、ちゃんと診てもらわないと……」
「だって、タダじゃないじゃん」

 そう言って受け取ったコピー用紙を眺めていた彼女が神にその用紙を、少々荒っぽく返す。それを受け取りながら神が言う。

「まあ、それはそうだけど……アンナちゃんも心配してましたよ」
「……会ってんの?」
「うーん、ときどき今の病院に訪ねて来るから」
「……あのさ、私がここで働いてること、黙っててもらえないかな」
「……。」

 神はなにも言い返さずに、鞄から一枚のパンフレットを取り出し、それを彼女に差し出した。

「……なに、これ?」

 言いながら彼女が、受け取ったパンフレットを開くとその中には『高等学校美術コンクール入賞作品展』と書かれていた。

「アンナちゃん。入賞したんだって報告に来てたから」
「……。」
「喜んでましたよ、すごく」

 彼女は、神から受け取ったパンフレットを折りたたんで、すくっとベンチから立ちあがった。

「——こんど、高級イタリアン奢ってね」
「……。」

 彼女は神に背を向けて「これサンキューね」とパンフレットを軽く翳して言い置くと店の中へと戻って行った。


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