それから約五ヶ月が経とうとしていたある日のこと。自宅に戻ったとき目に映った光景に彼女はその場に膝から崩れ落ちた。部屋の中が何者かによって荒らされていたのだ。安いアパートだったからか、鍵がいとも簡単に壊されている。
しばらく呆然としていた彼女であったが、ようやくおもむろに立ち上がり部屋の中へと入った。何よりも一番先に探した物は自分名義の通帳だ。やはり、それだけがなくなっていた。兄——竜だと思った。それしか考えようがなかった。
気が付くと彼女は浜辺に来ていた。ふと携帯の画面をつけて電話帳から『宮城リョータ』の文字を無意識に探す。しかし宮城を探し回ったあの日と同様に発信ボタンを押しかけて手を止めた。彼女はそのまま携帯電話を砂浜へと放り投げて、ひとしきり膝を抱えて泣いたのだった。
同じ日——。夜遅く自宅に帰って来た神の携帯の着信が鳴る。液晶画面を見て相手を確認すると、少し驚いた表情をした神は、すぐに電話に出た。
「——もしもし?」
『……』
「……名前さん?」
神の呼びかけに応答はない。電話の向こうでは時折り波の音がザザッ…と鳴っていた。その音に耳を澄ましてみれば、なんとも弱々しい声が神の耳に届いた。
『私も——北海道、行こっかな……』
「えっ……?」
『ほんとに、警察に行ったんだよね……?』
「宮城さんの覚悟、わかってあげてください」
『じゃあ、やっぱアレ……人違いだったんだ』
そう電話の向こうでつぶやいた彼女に神は何も言い返せなかった。
『クソ兄貴が——』
「……」
『貯金も……全部、もっていかれた』
「……。落ち着いたら宮城に電話してみて——」
『いい。なんかもう……疲れた。』
神の言葉を遮って、彼女がぽつりとつぶやく。
刹那、ひとり言のように語り出した。
『……ときどきさぁ、ぜんぶ夢だったんじゃないかなって、思うんだよね』
「……夢?」
『あの人に出会ったのも、あの家で暮らしたのも手術したのも、ぜーんぶ』
「夢なんかじゃ……ないですよ」
『……え?』
「わかってるんじゃないですか? 夢なんかじゃないって」
『……』
「あの家も——あの人も。」
彼女は言葉を返さずに力なく笑うと、涙をこぼした。神はずっと彼女の泣き声を、電話の向こうから寄り添うように聞いていた。
受け入れるだけ認めるだけが優しさじゃない。そんなことは知っている。でもどんなに考えても心は読めないし、思い通りにはならないし、納得していなきゃ、なにひとつ響かない。望んだって望まなくたって本当は、はじめからなにもない。彼女そう自分に何度も言い聞かせてきた。どうせこれから先も、ずっとこんな人生を送って行くのだろう。幸せになれない恋で、ごめんね——と。
*
その日の夜———彼女は夢を見た。大人になった今の自分が今の姿のままで昔、兄と両親と一緒に住んでいた家にいる。突如、乱暴に開け放たれた玄関の扉。入って来たのはこの世でたった一人の血のつながった兄妹、竜だった。顔面傷だらけで学ランを着崩している。ということは兄はきっと夢の中では高校生くらいなのだろうと思った。
「また喧嘩してきたの……?」
「……うるせーな」
言葉の通りめんどくさそうに言い返した竜が、ドカンとテーブルを挟んだ彼女の目の前に座る。
「今度は、どこの奴らと?」
「あン?……ショーホク。」
そう言って、目の前に置かれたままだった妹の作った晩ご飯のチャーハンをガッと口の中にかき込んだ兄、竜。
「……冷めてるでしょ、温め直すよ」
立ち上がった妹の手をつかんでそれを阻止した竜が「いいから座れ」と言う。素直にしたがって彼女は座り直した。彼女は、それにしても大人になった今の自分と高校時代のまま時間が止まっている兄が一緒の空間にいるなんてなんだか笑えるなと呑気なことを思う。しかも兄は大人になった妹の容姿にはとくに気にも留めずにいつもと変わらぬ様子で話しかけてくるのだ。その光景が彼女にとっては夢ながらにも滑稽で、それでいてなんだかすこしだけ嬉しかった。
「もうやめなよ、ケンカなんて。」
「……」
そのまま沈黙が続くのかと思いきや突然持っていたスプーンをカンッ!とテーブルに叩きつけるように置いた竜がうつむいたままで、ぽつぽつとつぶやく。
「どーせみんな、優等生でよ」
「え?」
「ワルぶってるふりしてちゃんと家族もいりゃあダチもいる。居場所があんだよ。」
「……」
「やりてえこともある、ただのコーコーセーだ」
はっとした。彼女は夢の中を彷徨いながらも、この瞬間に思い出したのだ、この会話を。あれは兄が高校三年生のころ。時期はたしか春だったと思う。兄が傷だらけで帰って来た日と同じシチュエーションだと思った。あのときも、いま言ったような台詞を零していた。あの日を境にして兄、竜は家に帰って来なくなった。あのときも彼女は思った。『また、一人にするの?』——と。
保護者として居候させてくれていた親戚宛に、何度も警察や学校から連絡があって、自分たちはついに愛想を尽かされて追い出された。あの日、兄のために自分が作ったチャーハンを最後に食べ終えたあと、兄がなんと言ったのかをずっと思い出せずにいた。
『名前』
『……ん?』
『お前だけは、幸せになれよ――』
あ……そうだ。そう言ったんだった、あいつ。
目が覚めた彼女は、涙を流していた。しばらくそのまま低い天井を呆然と眺めていたのだった。