そのころ宮城は、三井に呼び出されて水族館のポンプ室に来ていた。
「宮城ー、悪ィな〜。休みなのにこんな時間に呼び出しちまって」
「いースよ、慣れてますんでー」
「や、このポンプ。いつもわかんなくてよー」
三井がそう言いながら、黙々と濾過器を磨いている宮城をチラッと見やってから問いかける。
「なんか、あったかぁ?」
「え……?」
「いや、彩子ともめてるとかよ」
「チガイマス。」
「なんかあったら相談に乗るぜ? 俺、結構いいこと言うぞ?」
「ありがとーございます。じゃ本当に困ったときは三井サン頼りまーす」
「おう。」
いつの間にか日が暮れて、東の空には三日月が浮かんでいた。
彼女が、近くにあったコンクリートブロックに腰を下ろしビニール袋の中身を探っていると視界の隅で人影が動いた気がした。見ると少し離れたところで男性がひとり、同じように地べたに座り込んだのだが、背中を丸めたその姿はどことなく寂しそうで悲しげだった。なにか、嫌なことでもあったのだろうか。もしそうだとしたら仲間だと彼女は思った。
「一緒に、……飲みます?」
なにか考え事をしていたらしく男性は一瞬びっくりした表情を浮かべたがすぐに不審者でも見るような視線で流し見て「いや……」と言葉を濁しブロックから立ち上がった。
「……ねえ、知ってる?クラゲって脳みそがないんだよー。辛いとか悲しいとか、感情がないの」
向こうに行きかけた男性が「えっ?」と言って足を止めて、彼女のほうを見る。彼女は首を突き出すようにして目を細めながら男性の顔をじっと見て言った。
「あれ?もしかして、こないだのクラゲの人?」
その言葉に宮城が思わずクスリと笑った。
「え、なんで笑ったの?」
「や、だって。俺が教えたこと自慢げに話してんだもん」
「いーじゃん、べつにー。」
「……、なにしてんの?こんなとこで」
「んー?クラゲ見に来たんだけどさあ、開いてなくてさあ……」
「……」
「もー! いいじゃん。飲もうよ、一緒に!」
そう言って彼女は立ち上がると、宮城の上着の裾を引っ張った。突然のことに反応が遅れ宮城が無様にもふらつく。
彼女が差し出した缶ビールを宮城が受け取ると彼女は無理やり宮城を座らせ自分も隣に座った。丁度そのとき彼女の携帯がけたたましく鳴り響いた。液晶を見ると『兄』の文字が——。
「あー、もう! うっさいなー!」
憎々しげに携帯の電源を切ってそれを宙に放り投げる彼女。咄嗟に「あぶねっ」と言い、それをナイスキャッチした宮城が手の中に捉えた彼女の携帯をそっと地面に置く。すると彼女が、溜め息まじりにつぶやいた。
「アホにつきまとわれててさあ〜。借金まみれのアホに。」
「借金?」
「あーあー、や〜っと返し終わったって思ったのになあ……」
「へえー」
「あ、バカにした。」
「え、ううん?」
「いま、なんだこの女、って思ったでしょー」
それに対してどう返事をすればよいのか分からないという顔でこっちを見ている宮城を意地悪く揶揄ってみたくなった彼女が唐突に言う。
「あっ、じゃあじゃあ……! これは、どう?」
彼女は財布から風俗店の名刺を一枚抜き出して宮城に向かって仰々しく両手で指し出す。
「どうぞよろしくお願いしまーす。自己紹介も書いてまーす」
「……カエデ?」
「そうー、源氏名。楓チャン。」
「……」
「引いたでしょ?……引くよねー、そりゃあ」
暗がりでじっと名刺に目を凝らしていた宮城が口の中でつぶやくように言う。
「O型……なんだね」
「そっ。大雑把のオー!ってね!」
宮城はなにを感心しているのか大きく首を傾げ海の先を見つめながら独り言のようにつぶやく。
「そこら中にいるんだよねぇー」
「えっ?A型なんか、もっと多いじゃん」
「いや、そういう意味じゃなくてさ……」
彼女は訝しげに宮城の横顔を見ていた。すると宮城は、地平線の彼方を見据えて目を細めながら思い出したように言った。
「いるよ、俺の知り合いにも。」
「え?」
「おなじ名前。カエデ。まぁ……男だけどね。」
「へえ〜、運命じゃん!」
「……運命、ねぇ……」
やや訪れた沈黙。今度は彼女が思いついたように宮城に尋ねた。
「ねえ、」
「ん?」
「やっぱり、ダメぇ?」
「……えっ?」
少し酔っているからか潤んだ彼女の瞳が宮城を見上げる。なんとなく要望していることを察した宮城は悩んだ末、そのまま館内へと彼女を連れて行った。
*
足早にクラゲ・ファンタジーホールへと向かう彼女の後を着いて行く宮城。先日見ていたものと同じクラゲの水槽の前に辿り着いた彼女は両膝を床につけて至近距離で瞳を輝かせ水槽を眺める。
「ねえねえ、クラゲってさあ、」
「うん?」
「……死んだら、どうなるの?」
宮城も彼女の隣に並んでしゃがみ込むと一緒に水槽を見上げた。
「ミズクラゲはねえ、……溶けてなくなんの」
「マジで……? すごいねー……」
彼女は驚きの声を上げたあと嬉しそうに微笑むと、また水槽に視線を戻した。
「わたし、クラゲになりたいなあ……」
「えー? ハハハ。」
思わず笑った宮城に彼女が無心に水槽を揺蕩うクラゲを見つめたままポツリと言う。
「水にふらふら漂って、死んだら溶けてなくなるなんて、最高じゃん」
それは、彼女が思い付きで言った言葉だったが本当にそうなればいいと思った。死ぬのではなく水に溶けていくようにこの世から存在が消える。
そしてまるで、自分など最初から存在していなかったように、世界はそのまま果てしなく続いて行くのだ——。
「なるほどねえ……」
そうつぶやいた宮城に彼女が唐突に聞いた。
「お兄さんは?」
「え……?オレ? 生まれ変わったら?」
彼女はそのまま唇を真一文字に結んでじいっとクラゲの泳いでいる水槽を眺めている宮城の横顔を見ていた。刹那、宮城が呟くように言った。
「クラゲ、かなぁ……」
この人もきっと心のどこかに自分と同じような埋められないほどの大きな穴がぽっかりと空いている。彼女は、そんな確信めいたものを無意識に感じていたのだった。