「どうしたんですかー?神先生。」
ソファーに座って物思いにふける神に看護婦が声をかけた。神がそのままの体勢でつぶやく。
「婚約していた人と別れて、すぐに別の人と結婚するって……すごいことだよねえ」
「ええ?でも、あるんじゃないですか?よく聞きません?略奪婚って」
「……略奪婚、か。」
神が自分に言い聞かせるように言ったときポンと後ろから肩を叩かれる。相手は、以前アンナを診ていた主治医だった。
「よかったな」
「え……」
「アンナちゃんのお兄さん結婚したんだって?」
「あ……はい。」
「お兄さんの奥さんがドナーになってくれることになったって聞いたよ」
「……」
「いやあ、俺も嬉しいよー、アンナちゃんのことは小さい頃から診てきたからなあ」
「……。」
「神先生? どうした?」
「え……?いや、」
「これで、アンナちゃんが助かるんだ。しっかり頼むぞ、神先生。」
「……はい。」
夕方、彩子が歩道橋を歩いていると携帯の着信が鳴った。立ち止まってディスプレイを見ると、『アンナちゃん』と表示されている。彩子はためらいながらもボタンを押した。
「……もしもし?」
『——あ! もしもしっ?彩子さん?』
「……ええ。どうしたのよ、急に」
『えー? べつにどうもしないけど?久しぶりに話したくなっちゃってさー』
「……そう」
彩子は歩道橋の手すりに移動し両肘を手すりにあずけ寄り掛かるようにしてオレンジ色の夕陽を眺めた。
『彩子さん、最近ぜーんぜんお見舞いに来てくれないんだもーん』
「……そうよね、ごめんなさい」
『ううん、あ!結婚式の準備すすんでる?誰かがお尻叩かないと、なにもしないでしょ〜?』
「……うんっ、そうね……」
『彩子さんドレス似合ってたからなあ〜!あー!楽しみっ!』
「……」
『あ、そうそう!このあいだね?ネイルやってもらったの!彩子さんにも見せたいな〜』
彩子はまだアンナが自分たちのことを知らされていないことを彼女の反応から悟った。どうすることもできない自分が情けなくて、彩子は小さく溜め息をつき、彼女の名をそっと呼ぶ。
「……アンナちゃん、」
『ん?』
「……ごめんね。」
『え?……彩子さん?』
「早く……元気になってね」
『うん! 結婚式までには治してみせますっ!』
「——うんっ……じゃあね?」
『うん!彩子さん、またね!』
彩子は涙を堪えて電話を切った。そうして暫く歩道橋の上から、沈みゆく夕陽を眺めていた。
*
宮城が水槽の魚の観察をしていると三井が神妙な面持ちでやってくる。三井は宮城の隣に並んでそっと声を掛けた。
「……宮城」
「はい?」
「おまえ、本当に大丈夫か?」
「ええ? なに?」
「このまえ、水族館によ……」
「ん?」
そう聞き返して、宮城が水槽から視線を三井に向けた。
「あ、いや……。つか、変なことに巻き込まれてるとかじゃ、ねーよな?」
「えー?ないっスよ?」
「そうか……だったら、いーんだけどよ」
そう言ったきり三井は気まずそうにしてその場を去って行った。宮城は不思議に思いながらも、去って行く三井の背中を見つめていた。
その日の晩、彼女は宮城の部屋で一緒にクラゲを眺めていた。宮城が水槽を見入りながら、ふと思い出したように言う。
「あ、そうそう。このあいださ、流れ星ってクラゲみたいに消えてなくなるって言ったでしょー?」
「あー、うん……言ってたね」
「海に潜ると消えない流れ星が見られるんだよ」
「へえ……」
「沖縄の海に潜ったときに、スカシテンジクダイっていう魚の群れに出会ってさあ」
「なにそれ、難しい名前」
「フハハっ。透き通った身体が太陽の光で、きらきら輝いてんの」
「へえー」
「たくさんの星が降って来るみたいでさあー」
「いいなあー、めちゃくちゃ願い事できるじゃん」
「そーだね」と、悲しげに笑った宮城に彼女が冗談めかして言った。
「じゃあ、新婚旅行で連れてってよ」
「え……」
「はは、ウソウソ。」
「……行ってみる? 手術が終わったら。」
宮城の返答に少し驚いた彼女が宮城を見やる。だが、すぐに水槽に視線を戻して「本気で思ってないくせに……」と揶揄うような目で再度宮城を見た。
「ほんと芝居下手だよねー。そんなんじゃ、神って先生騙せないよ?」
「えっ、そんな……ヘタ?俺。」
「うん。……でも、アリガトウ。」
「ん?」
「こんなことでもなかったら——わたし、やり直せなかった」
寂しげに水槽を眺めて言う彼女を見て宮城が、
「あのさ……」と言いにくそうに聞いた。彼女は宮城のほうを訝しげに見やる。
「兄さんのこと、なにがあったの?」
「……」
急に宮城がそんな事を言い出したのには理由があった。実はその前日、突然竜が宮城の水族館を訪ねてきたのだ。
そのとき竜本人の口から高校時代体育館で起きた暴行事件のときに自分もその場に居たと言われ彼女のアパートで会ったときの違和感と、記憶の中の竜が合致したのだ。合わせて数日前にここで三井にも会ったと告げられ三井からとくになんの報告もなかったことに、宮城はあえて三井がそうしたのだろうと思った。
十数年ぶりに再会したとはいえ、その目の奥になにか得体のしれない空恐ろしいものを感じて、宮城は仕事があるからと早々に持ち場に戻ったのだが、後味の悪さがいつまでも残っていた。もちろん彼女に兄である竜を知っているとも言えず、
ただ、彼女と彼の間になにがあったのか、純粋に知っておきたかった。
「……って、やっぱ聞いちゃマズイ、よね?」
「……」
「ごめん。」
『兄さん』という言葉に明らかに表情を曇らせた彼女に「言いたくなければ言わなくていいよ」と付け加えた宮城に、彼女がためらいがちに話し始めた。
「うちはさあ、この家の兄妹とは真逆なんだよ」
「……」
「借金作るわ、嘘つくわ。もう散々でさあー」
「……」
「……あっ、そうそう。高校の頃なんてすっごく荒れててさ、手つけらんなかったからね」
「……デショーネ。」
「ん?」
「いや!……なんでもねーデス。」
そうして彼女は、小さく自嘲するように笑って言う。
「もう、関わりたくない……」
「……」
「……ま、もう会うこともないけどね。」
「そっか……」
「そういえば、このあいだアンナが言ってたよ」
「え? なにを?」
「無駄なイケメンだ〜って。��リョーちゃん�≠フこと」
「あいつ……」
不服そうに唇を尖らせた宮城に、彼女がフッと笑うと、続けてぽつりぽつりと言った。
「だからさあ……あんたら兄妹は、隠し事なんかしないでさ、ぜんぶ話しちゃえばいいじゃん。」
「……」
「ショック受けるだろうけど家族なんだから、
わかってくれるよ。いい、家族なんだからさ。」
隠し事なんかしないで全部話せ、ってか……。
宮城は、心の中で彼女からの言葉を繰り返した。
「どうしたの?」
その声で宮城はハッとしたように彼女を見る。
「え、なに?」
「いや、ボーッとしてたから」
「あ……いや、ううん。アンナにいつ話そうかなって、考えてたから」
言葉を濁す宮城に彼女は、「おやすみっ!」と言って、宮城の部屋をあとにした。