宮城たちが湖に到着したのはそれから一時間半後の午後の三時を少し過ぎたころだった。小高い山の裾野にあるその湖は、まだ明るい時間帯だと言うのにほとんど人気もなくて寂しい空気に包まれていた。一周、一キロほどの小さな湖だったがざっと見回したところアンナらしき人影もない。
とりあえずその湖の岸辺に沿って一周してから宮城と彼女はいったん車に戻った。それから更に二時間ほど経過したころだった。フロントガラス越しに湖の方を見ていた宮城の目がふいに細められた。
「あれ……そーじゃね?」
その声に彼女も、宮城の視線の先を見る。二人から見てちょうど左側の林の間からセーター姿のアンナが出て来たのだ。しかしアンナは、夕陽を反射してきらきらと輝く湖のほとりをふらふらとした足取りで歩きはじめた。車から下りて宮城は「アンナ!」と大声で叫ぶと弾かれたように駆け出して行った。
「——え、……足……はやっ、」
思わずそう口に出して、ポカンと見ていた彼女だったが、ハッと我に返り急いで車を下りる。
とつぜん目の前に現れた宮城を見てもアンナはそれほど驚いた様子はなかった。淡々とした口調で「リョーちゃん。わたし、決めたよ」と言うと宮城のあとからやってきた彼女のほうをまっすぐ見て言った。
「わたし、名前さんからなにももらいたくない。移植しない。」
「……」
「ドナーなんていらない」
「ええ?……どーしてだよ?」
その宮城の問いに、なにか言い掛けたアンナがふと視線をはずして「お母さん」とつぶやいた。宮城と彼女が同時に後ろを振り返った。そこにはカオルが立っていた。よほど急いで来たのだろう髪は乱れ、足元はサンダル履きだった。
そのときアンナが、湖のほうへ身体を向けて、いきなり岸辺に向かって歩き出した。
「やめろって!」
宮城が叫んだがアンナは止まるそぶりも見せずそのまま、水の中へと入っていく。つかんだ手を振り払おうとするアンナを、抱きかかえるようにしながら宮城が言った。
「ヤケ起こすなって!お前は、手術すれば助かるんだって!」
「私がいるとみんなの迷惑になるだけなんだからもういいって!」
「いいわけねーだろっ!」
宮城が声を張り上げると、アンナが一瞬驚いたような表情を見せる。そうしてすぐにうつむいて言った。
「じゃあ……どうして話してくれなかったの?」「え?」
「移植が必要だって、ドナーになる人が、だれもいなかったって」
「それは……」
「かわいそうで、言えなかった?」
「……」
アンナのその言葉に、ぐっと眉間に力を込めた宮城がはっきりと、力強い口調で言った。
「——生きてて、欲しーからだろ。」
「え……」
「どんなことをしても。」
ふとアンナが抵抗するのをやめて実の兄である宮城を見た。そして、悲しそうな表情で問う。
「それって、誰のため?」
「……」
「お父さんのため?それとも、お母さん?」
「……、」
「ソーちゃんのためでしょ……?」
「アンナ……」
「リョーちゃん。もう私に責任感じなくていい。そーいうのもう、うんざり」
そのときだった。とつぜん彼女が水を蹴散らすようにして水の中に入って来てアンナのセーターの襟をつかんで、そのまま水の中に投げ倒した。
「——バッカじゃないのっ!」
バシャン!と水飛沫が上がる音と同時に彼女が声を荒げてアンナに向かって言った。
「やってらんない。もう、こんな家族ごっこ付き合ってらんないんだけど。」
「……」
「あんた、移植しないって言ったよね?」
「……、」
浅瀬に尻餅をついたままアンナは無言で彼女を睨みつけた。それでも彼女は淡々と続ける。
「死んでもいいってことだよね!? どうなの?ねえ!」
「そんなの……そんなの、死にたくないに決まってんじゃん!」
「……」
「だからってリョーちゃんに偽装結婚なんてして欲しくない!」
「……」
「どーせ……お金、もらってるんでしょ?」
肩で息をしながら、じっとアンナを見下ろして睨みつけていた彼女がボソリと言った。
「——もらったよ、三百万。……だからなに?」
「最低。そんな汚いことまでして生きようなんて思ってないから」
「は? あんたのそれは、きれいごとなんだよ!生きるのに、きれいも汚いもないでしょ!」
「……」
「医者がタダで手術してくれると思ってんの!?どんな手術だって、お金がかかるんだよ!」
「……っ」
「どんな奴のだろうが、脳死のドナーだろうが、命は一緒なんだよっ!」
「……」
「そういうのが嫌なら、おとなしく死ぬしかないの!」
「もう、やめてくれ……」と、宮城がふたりのあいだに割って入った。
「これは、家族のことなんだ……だから君は、」
宮城のその言葉を、彼女の怒声がさえぎる。
「なんなの!」
「え……」
「ひとりで背負って、ひとりで悩んで……なにが家族だよ、バッカみたい!」
「じゃあ——」
「……」
「どーすればいいの?俺は、どうすればよかったって言うんだよ!」
二人の言い争いから逃れるように再び水の中に入っていこうとするアンナを宮城が引き寄せ抱きすくめると、アンナが声を出して泣いた。すると今度はカオル走って来てまるで翼を広げて子供を守る親鳥のように、ふたりの背中に両手を回して言った。
「……帰りましょ、ね?」
その言葉を待っていたかのように山の向こうに沈みかけた太陽が、水面に三人と一人の長い影を描き出していた。
第五章 完