第六章 愛と死


 山梨から戻ってきたその足でアンナを病院へと送った。そのあと自宅に戻り、自分の部屋に居た宮城のもとに彼女がやってくる。

「私さ……この家出て行ったほうがよくない?」

 部屋の入り口の柱に寄り掛かりそうつぶやいて言った彼女に宮城はうつむく。

「あの子、手術しないって言ってるじゃん」
「アンナには……もう一度、きちんと話すから。そしたら手術の日程とかも決まると思うし」
「そんな簡単にいくとは思えないんだけど……」
「……」

 彼女は、クラゲの水槽に視線を移す。顔を上げて彼女を見た宮城もつられて水槽に視線を送った。二人はそれ以上会話もなく、しばらく水槽の中を揺蕩うクラゲを黙って見つめていた。

 一方そのころ、病院のベッドで横になっているアンナが真っ暗な窓の外を眺めていると、そこへ神が入って来た。

「まったく、元気いっぱいで困っちゃうね。山梨まで行っちゃうなんてさ」
「……ごめんなさい」
「脱走はこれが最後、わかった?」
「はい……」
「ちょっと目が充血してるなあ、疲れが出ちゃったんだね。点滴しよっか」
「……神先生、」
「ん?」
「わたし……手術しないって決めたから」
「……どうして?」
「リョーちゃん、名前さんの肝臓——お金で買ったんだよ」
「え……」
「それに——」

 アンナは窓の外を眺めたまま神にいまの素直な気持ちをすべて伝えた。


 *


 翌日、カオルにすこし出かけて来ると言い残し家を出た彼女は、彩子の働く職場へと向かった。
 フロントで彩子を呼び出すと、五分後に彩子が下りて来た。突然の彼女の登場に、驚いた表情を見せた彩子ではあったが追い返すわけにもいかずとりあえず、そばにあったソファーに、二人で腰をかけた。

「あんたさ、言ってくんない?手術しろって」
「……はい?」
「手術、受けないって言ってんだよね、あの子」
「……」
「私がドナーになって手術して……それで手術が終わったら、あんたがあの人と寄り戻すってはっきり教えてあげれば、納得すると思うんだけど」
「え、そんなこと……」
「なーんか……あの人も悩んじゃってさあー。私もずっとあの家族に付き合ってらんないしさっさとケリつけたいんだよね」
「……」
「じゃあ。」

 そう言い置いて彼女は帰っていった。彩子は、去って行く彼女その後ろ姿をただずっと見つめていた。

 同じ頃、宮城がアンナの病室に行くとアンナの姿がなかった。屋上だろうと思い、宮城はすぐに屋上に向かった。やはり予想は的中し、アンナは屋上のお気に入りのベンチに腰を掛けていた。

「こんなとこいたら冷えちゃうでしょー、って」
「……」

 アンナの隣に腰を下ろす宮城。アンナは宮城を一瞥もしない。それでも宮城はいつもと変わらぬ調子で会話を続けた。

「冬物の服、今度持ってくるよ。ほかに欲しい物とかある?」
「べつに」
「アンナ」
「……」
「手術……受けてよ。頼むから……」
「イヤ。」
「アンナ、手術受けねーと……」
「——わかってる、でも嫌なの!」

 宮城の言葉をさえぎってアンナが声を荒げる。

「名前さんのこと、好きでもなんでもないんでしょ?」
「それは……」
「早くやめてよ、そんな結婚」
「……」
「だいたいおかしくない?お金もらえるからって肝臓売る? 信じらんないんだけど」
「アンナ、」
「早くさあ、もう離婚してよ!あんな人、さっさと出て行かせてよっ!」

 ——パシンッ!

 思わずアンナの頬を叩いた宮城をアンナはジロリと睨みつけると、乱暴に一枚のパンフレットを宮城の胸に叩きつける。そのパンフレットを見た宮城が目を見開く。それは『臓器移植を希望される方へ』と書かれた日本臓器移植ネットワークのパンフレットだった。

「なんだよ、これ……」
「私の意思表示。これ以上、話す気ないから」

 そう吐き捨てて、アンナは屋上を出て行った。
 案の定、山梨から戻ってからもアンナは彼女をドナーとする手術は受けないという意思は変わらなかった。その決心は固く、受け取ったパンフレットの中にはすでに署名済みの脳死ドナー移植の同意書まで自分で用意しているほどだった。
 屋上を出て重い足取りで面談室に行った宮城を待っていたのは、さらに衝撃的な話だった。

「——申し訳ありませんが、手術はできません」

 神の言葉に一瞬、宮城は自分の耳を疑った。

「えっ……」
「アンナさんから金銭の受け渡しがあったと聞きました」

 ハッとした表情を浮かべた宮城の目を、神は、じっと見返す。

「……本当なんですか?僕は、宮城さんの言葉を信じてました。だけど、アンナさんが嘘をついているとは到底思えないんです」
「どうしても……だめなの?」
「宮城。」
「……」
「……」
「とにかく……手術してほしい。お願いします」

 座ったままの宮城が深々と神に頭を下げる。

「アンナちゃんは——お兄さんを助けたいと言っていた」
「えっ……?」
「どういうことか、わかるか?手術を受けたら、家族が犯罪者になってしまうから手術はしない、そういう意味だっていうことを……」
「……」
「宮城、臓器売買は犯罪なんだよ」
 
 二人のあいだに沈黙の時間が流れる。ギリっと奥歯を噛み締めた宮城が、声を震わせて言う。
 
「だったら……だったら、アンナを見捨てろって言うのかよ!」
「違う……それは違うけど……」
「……」
「このことが公になったら今後この病院では臓器移植が出来なくなるんだ。助けられるはずの人を助けられなくなるんだぞ」
「目の前の患者を、アンナの命を助けてくれよ」
「宮城の気持ちは、十分にわかってるつもりだ。でもそれは自分たちがよければそれでいいというエゴなんだと思う」
「……」
「こちらとしても、お金のことを知らなかったら手術できたのにって……何度も思ったよ」
「じゃあ、知らなかったことにしてほしい」
「……申し訳ない、宮城。」

 そのまま、固く唇を結びじっと一点を見つめたままの宮城に、神が沈痛な表情で頭を下げた。
 またも静まり返った面談室に宮城が椅子を引く音がかすかに響いた。


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