それから二日後——。水槽の中の観察をしていた宮城のもとへ、男性スタッフが駆け寄って来た。そのスタッフは以前彼女が水族館に来たときにも宮城のそばにいた内の一人だった。

「そー言えば、宮城さん。」
「んー?」
「クリオネちゃんと、いとこなんですよね?」
「え?」
「三井さんから聞きました!俺、めっちゃタイプなんですよねーやっぱ彼氏とかいるんですか?」

 そう言った若い男性スタッフの頭を三井が背後から小突く。

「なんですかー!?三井さん!」
「お前は、ほんっとーに空気が読めねー奴だな」
「三井さんには言われたくないですねー」

 そう言ってその場を立ち去っていくスタッフを見送った三井が宮城に声を掛ける。

「宮城、あのよ……」
「……ん?」
「ほかに、方法はねぇんだろ?」
「……」
「ぜんぶ、彩子から聞いたぜ。」
「……、」
「手術が終わってからも、あの子とずっと一緒にいる気なのか?」
「……。」

 なにも答えない宮城に三井は、小さく溜め息をつくと、そばにあった宮城の作った観察ノートを開きながら言った。

「——手術、いつなんだよ。」
「……え?」
「シフトとか、考えるからよ」
「いや……まだ、決まってなくて……」
「あんま無理すんなよ。お前が倒れたらアンナもお袋さんも困るだろーが」
「……三井サン、」
「あ?」
「責めねーの?俺のこと。バカなことしたって」

 すると三井は持っていた観察ノートをパタンと閉じると、首を横に振って応えた。

「俺がおまえの立場だったら、きっとおなじことするぜ」
「……」
「だから、あんま自分のことばっか責めんな」

 そう言い置いて宮城の肩をポンと叩くと三井はその場をあとにした。
 仕事を終え、自分の部屋で水槽のクラゲを眺めながら宮城は、仕事中に交わした三井との会話を思い返していた。昨日、神に投げかけられた言葉が棘のように心に刺さったままだったので三井のあのひと言は、宮城を強く勇気づけた。

「なんか、ごめんね」

 不意に背後から聞こえたその声にうしろを振り返ると部屋の入り口のところで彼女が神妙な顔をして立っていた。

「……ん、なにが?」
「お金のこと医者にバレたんでしょ。手術、できないんでしょ?」
「……」
「さっきおばさんに話してるとこ聞いちゃった」
「そっか……」
「私がアンナに言ったからだよね、ゴメン……」
「べつに、君が謝ることじゃないって」
「もし手術ができなかったら、契約違反?」
「……」
「まあ、もうお金もらっちゃったし……私としてはどうでもいいんだけどね」

 強がったように吐き捨てる彼女に宮城はフッと笑みをこぼしながら言った。

「どーでもいい相手を、大声で怒鳴ったりはできないんじゃない?」
「え?」
「湖で、アンナに怒ってくれたじゃん」

 宮城の言葉に、照れくさそうに彼女が笑った。

「あれは——ちょっと……ムカついただけだし」
「へえ、そっか」
「……でも、本当はうらやましかったのかも」
「え?」
「みんなに大切にされているあの子が、アンナが羨ましい、って」
「うん」
「ねえ。私さあ、この家にいる意味あるのかな」
「……ん? どして?」
「だって、もし手術できないんだったら私なんかもう用無しじゃん」

 宮城はそんなことはないと言うように、静かに首を横に振る。

「家族のごたごたに巻き込んじゃって申し訳ねーけど」

 宮城はまっすぐに彼女の目を見て言った。

「——君には、ここにいて欲しい。」

 たとえそれがどんな形であれ宮城のその一言はいままで生きていて必要とされたことがなかった彼女の心をふんわりと包み込んで、温かくしたのだった。

 翌日彼女は病院へ行き食堂の片隅でひとり遅い昼食をとっていた神をつかまえた。とつぜん目の前に現れた彼女を見て一瞬驚いた表情を見せたが神は冷静だった。そうして手術をしてくれるよう頼み込む彼女に神が言った。

「宮城さんにも言いましたが、金銭の受け渡しがあったことがわかった以上、それはできません」
「なんで?友達なんでしょ昔からの。私がいいって言ってんだから、いいじゃん」
「わかってるんですか?自分の身体をお金で売ることになるんですよ?」
「そんなのべつに、風俗で働いてるときからそうだったけど」
「いや、それとこれとは……」
「じゃあ、お金返せば手術できる?」
「え……」
「その——金銭の授受ってやつがなければいいんでしょ?だったらお金返せばいいんじゃないの?」
「それは……」

 冷静だった神が急に言葉に詰まる様子を見て、彼女が不意に目を細めた。

「なんだかんだ言って、犯罪の片棒かつがされるのが嫌なだけでしょ?」
「……」
「守りたいのはアンナじゃなくて、医者としての自分なんじゃないの?」
「……」
「たとえば、私の目の前に死にそうな人がいたとしてだよ?」
「え……」
「注射一本打てば助けられることがわかっててもお前は医者の免許がないから打っちゃダメだってあんた、私に言える?」
「それは……」
「法律違反だからダメだって言うわけ?」
「……」
「人ひとり助けられないで、なにが医者だよ!」

 吐き捨てるようにそう言うと、彼女は荒々しい足取りで食堂を出ていった。


 *


 その日、仕事を終えた宮城は病院へと行ったがアンナは病室のカーテン向こうから「眠いから」と、ひと言だけ言って中には入れてくれず、病室を訪れた宮城を追い返した。もう三回連続になる。病院を出てもそのまま真っ直ぐ家に帰る気になれず宮城は海岸に行った。堤防沿いの砂浜を歩いていると、コンクリートの壁にもたれて膝を抱えるようにして、海を眺めている人影があった。彼女だった。そのまま彼女のいるほうへ行き横に腰を下ろしてしばらく無言で海を眺めていた宮城に、ぽつりと彼女が言った。

「今日もアンナと話せなかった?」
「……うん」
「そっか」
「俺は……神の言うとおりの人間かもしんない」
「……」
「結局、俺のやってることってただのエゴでさ」

 彼女がその言葉の続きをうながすように宮城を見た。

「俺ってさ、自分のことしか考えてねーんだよな、きっと」
「……」
「アンナにだって……自分の気持ちを押し付けて苦しめてるだけなのかもしんねーなあ、ってさ」
「……押しつけでもなんでも、生きて欲しいって思ってる気持ちは本物じゃん」
「……」
「私も、そう思ってるよ?」
「え……?」
「お金のためだけじゃなくて、あの子を助けたいって……」

 彼女のその言葉に嘘はなかった。アンナを知れば知るほど、アンナが抱えている孤独や居場所のない寂しさ、いたたまれなさがまるで自分のことのように、理解できるようになっていた。
 そんなアンナに対して深い愛情を注ぎなりふりかまわず助けようとする宮城のことも、ひとりの人間として尊敬もしていたし、自分のことを必要だと言ってくれたことにも感謝していた。

(それに——。)

 だが彼女は、それ以上のことを考えないように自分で自分を戒めた。
 所詮、自分は期限が来たら捨てられる形だけの家族なのだから、と……。


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