こんな肌寒い朝は起きるのが尚のこと困難だ。昔から朝にはめっぽう弱いことで有名な私。モゾモゾと布団の中で縮こまり、うぅ〜と唸ったあと仕方なくベッドから起き上がることにした。毎朝のお決まりのルーティンでもある。

 すこし前までの私の日課と言えば、幼馴染から恋人に昇格した彼から必ず毎日早朝に届いていた『おはよう』だけの短い文章の綴られたメールを開くことだった。そこから私の一日がはじまる。なんだかんだ言ってそのメールを開くのが楽しみになっていたので、朝起きるのが苦だったなんてこと、忘れていたけれど。もう、その早朝メールが届くこともない。だからなのか今時期の寒さも相まって最近は起きるのに一苦労かかる。もはやお父さんはそんな私に呆れ果てたのか二階に起こしにすら来てくれなくなった。


「いってきまぁーす……」

 ああ、寒い……とにかく寒い。死ぬほど寒い。この時期の最寄り駅までの距離はまじで地獄だ。
 いつものように、幼馴染の彼の家を通り越す。ここ最近では、ようやく彼の部屋をチラッと確認する癖も、減ったように思う。いつも当たり前に一緒に歩いたこの道をひとりきりで歩くのにも、ようやく慣れて来た。
 彼の部屋の白く曇った窓硝子に、二人の名前を書いて怒られたあの日。不意に触れた肩の温もりを感じた。この瞬間が、いつまでも続くと信じていた。
 


 —


『お客様には大変ご迷惑をおかけ致します——』

 寒い……殺す気か、死ぬ、とひとりでブツブツ文句を垂れながら何とか最寄り駅へと到着するとまさかの最悪の事態を告げる駅のアナウンスが、静かなホーム内に響き渡っていた。
「うっそ……でしょ」と思わず心の声が漏れる。どうやら電車が遅れているらしい。最寄りの駅は無人駅で待合小屋すら無い。あるのは自販機と、古びた赤いベンチだけ。
 あまりの寒さと底なしの運の悪さにさらにイライラが募ってきた私は、とりあえず気持ちを落ち着かせようと、自販機でホットココアを買った。そして、半ばヤケになりながらドンっとベンチに腰をおろす。

「はぁ……」

 たまらず溜め息が零れてしまう。この駅では、親しい友人も居ないし、元から利用者も多いほうではなかったため閑散とした駅のホームを眺めて私はもう一度、深く溜め息を吐いた。
 先ほど購入したホットココアの缶をホッカイロ替わりにグルグル巻きにして首に巻いてきた長めのマフラーに顔を埋める。ふと、幼馴染が自分のマフラーを取って私の首に巻いてくれたあの日の温もりが蘇ってきた。あのときはこの瞬間がいつまでも続きますようにって、願っていたのに。
 溢れ出した想いが、ただ胸の奥に降り積もっていく。ずっとそばにいたかった。いつまでも——


「——遅れてんのか?」

 突如、頭上から低い声が降って来たので、声のするほうへ、そっと顔をあげた。そこには電車の来る方角を眺める、学ラン姿の生徒がひとり。

「……うん、そうみたい」
「ったく、ツイてねぇな」

「あーあ、もっと寝とけばよかった」と文句を漏らしながらもその男子生徒は遠慮がちに一人分のスペースを開けて、私の座っていたベンチに腰を下ろした。それでも不意に、肩の温もりを感じた気がした。この瞬間をいつまでも忘れないようにと、私はそのまま先ほどと同様にマフラーに深く埋まるように顔を背け、そっと目を瞑る。
 なんとなく隣の彼が屈んだような気配を感じ、気づかれないように横目で確認してみる。すると彼は腕組みをしながら、ずっと電車が来るはずの方角を眺めているみたいだった。わずかに、彼の口元から白い息が吐かれる。

 彼氏と別れてから今日までの日々を思い返せばどうしようもないくらいに、泣ける夜もあった。素直になれない自分が悪いのだと、わかっているからこそ悔しかった。
 恋って幸せなことばかりじゃないって寿と別れたことで学んだ。恋っていうものは不安にもなるし悲しくもなるしきっと楽しいばかりじゃない。私は不器用だから上手く言えなくて結局、別れを選ぶしかなかった。でも、それでも、理解の上で成り立つ恋を、想い合うことで深まる愛を寿にも気づいてほしかったの。だけど寿とだから、私はここまで来れたんだって、そう思うよ。


「——寿。」

 ……聞こえなければ、それでもいい——そんな小さな声のトーンでポツリと名を呼ぶと彼は驚いた表情でこちらを向いた。どうやら聞こえていたらしい。

「今日は……早いんだね」

 彼に会わないようにと電車の時間をすこし早めたのは、冬休みが明けてすぐの話だ。彼の身なりが軽いところを見ると、どうやら朝練に顔を出すわけではなさそうだなと察する。
「ああ」と、そう小さく返して来た彼は、気まずそうに後頭部を掻く。昔から変わらないその仕草に私は自然と頬が緩むのを咳払いで誤魔化した。

「今日は早く起きたからなァ」

 そう言って組んでいた両手を解いてポケットにしまうと今度はベンチにだらしなく背を預けた。
 二人の空間だけ時間が止まったかのような沈黙の中、彼が大きく欠伸をして目を閉じたのが目の端に映った。

「寒いな」

 ぽつり、その言葉に私は、反射的に彼のほうに身体ごと向けてしまった。よかった、気づかれてはいないみたいだ。だって彼の目は、閉じられたままだったから。
 私はふう、と小さく息を吐く。そうしてそっと正面に向き直ってから「…寒いね」と、返した。
 私が小さい声で言ったとき、何となくだけれど彼が閉じていた瞼を開けたような気がした。見ていなくても、なぜか、そう感じ取ったのだ。

『——大変お待たせ致しました。まもなく1番線に……』

 尚も続いていた静寂の中、ホームにアナウンスが響き渡ると、彼は重い腰を上げて立ち上がり「んー!」と背伸びをする。その姿を、チラッと見上げてから私も立ち上がった。丁度そのとき、電車が目の前に停車してプシューと扉が開いた。呆然と開いた電車の扉を私が眺めていると、彼が歩き出したことに気づき、ハッと我にかえる。


「名前、風邪ひくなよ」

 私には背を向けたまま彼はそう言い置いて開いたばかりの目の前の扉を素通りする。そのまま、一つ後ろの車両へと入って行った彼。きっと気を遣ってくれたんだろうな、と思った。昔からそうだった、寿は。だからわかってる。恥ずかしがり屋のあなただから、きっと上手く言いたいことを言えないんだなってこと。

 でも……だけどね、いつもより早く起きたからって、大好きなバスケット∴ネ外の目的もなく早朝に学校に行くことなんて無いことくらい……私には、わかってるよ——。










 寒いのはのせい



(寿も風邪、ひきませんように——。)


※『 あなた/HY 』を題材に。

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