12月30日。寿と別れてから、六日が経った。一日一日がとても長く感じられて寝付きも悪く、眠れない夜が続いていることでせっかくの冬休みだというのにも関わらず、すこぶる寝不足だ。
 明日は大晦日。本来なら寿と一緒に初詣に行く約束をしていたんだろう、なんて思うと、堪らず溜め息が出る。すぐそばにいるであろう彼の元に行きたいのに行けない哀しさを乗り越えてもっと強くならなきゃ、強くならなくちゃと自分に言い聞かせながらこうしてベッドに寝転んでじーっと天井を眺めること一時間。

 二人が出会ったことにもしも意味があるとするなら、こんなに苦しいのは今だけだって胸に言い聞かせている。それでもこうして耐えることなく押し寄せてくる胸の痛みが、彼をどれだけ好きか伝えている。抑えきれない気持ちはどこヘ行く事もなく時計の針のように戻る事なんて出来ない。ただこうして彼だけに向かって今もまだ私は恋をしているのだ……と、一人脳内会議を無理やりに打ち切ることとし、徐にベッドから起き上がったとき、一階からお父さんの呼ぶ声が聞こえた。
 気だるげに降りていくとお父さんに夕飯の買い物を頼まれてしまった事でなんと四日ぶりに外に出る羽目になった。久しぶりの外出。それでも、運気は味方してくれないようで、ことごとく嫌な事が重なった。まず、お店について財布を忘れた事に気付き、一度家に戻ってから買い物を済ませその帰り道でスーパーの袋が破れて、買った物を道路にぶちまけて。通行人は当たり前に見て見ぬふりをするし、どこかの部活帰りの中学生軍団には鼻で笑われるし。なぜか分かんないけど薬指が切れて血が出ていたし。挙句の果てには拾い終わった頃に天気予報では曇りと言っていたはずが、突然雨が降って来るし。
 思わず彩子に電話して愚痴ってやろうかと思ったけど、きっと、部活だろうなと思ってやめた。帰ったらお父さんに話そうかとも思ったが、誰に話してもなんだか切なくなってしまいそうでもう自分の中で消化させようと早々に諦める。
 こんなときいつも思う。ねぇ、もしも寿だったら優しく聞いてくれたのかな……って。いつもの見慣れた帰り道なのにどうしてこんなに遠く感じるんだろう。ねぇ、もしも寿が隣にいたら一瞬で着いてしまったのかな。なんて、無意識に考えてしまってまた深く溜め息を吐く。私はいったい、一日に何回ため息を吐けば気が済むのだろうか。
 そうしてようやく買い物を終え、自宅に帰るとお父さんがバタバタと忙しくしていた。

「ただいまー、なにしてんの?」
「ん?年末の大掃除だ。いらない物があったら、玄関に出しておきなさい」
「うん……わかった」

 私は台所に破れたスーパーの袋ごと買ってきた荷物を置いて自分の部屋へと戻った。部屋の中、いらないものはあったかなと思って見渡してみたけれど特になかった。あ、でも……と私は寿から借りたままでいる洗濯済みのTシャツを、そっと手に取る。いつ頃のだっけ?夏休みだったかな。なんでこれ借りたんだっけ……勝手に寿の部屋にあったやつを着てそのまま帰ってきたような気もする。よく覚えてないや。
 私はそれを元の置いてあったところに戻して、ベッドに寝そべり携帯を開く。彼とのメールも、写真もぜんぶ消そうと思ったのは、六日前の夜。彼に別れを告げたあとだった。でも思い出は消せないままで、メールも写真も何もかも削除できなくて、今に至る。
 もうメールは見ないし思い出の写真のフォルダも開かない。だから残しておくことだけは神様も許してくれるかなって。今でもそんな都合のいい自分の思考に苦笑いしながら、携帯を閉じかけたそのとき。ふいに鳴り響くメール受信を知らせる音。七色に光るこのリズムは、紛れもなく元彼、寿からだ。同時に設定を初期値に戻し忘れていたことをこのとき知る。一瞬、動きが止まってしまった私だったが、「コホン!」と咳ばらいをして身体を勢いよく起こした。

「え……、どうしよう」

 勢いよく起き上がったはいいがやっぱり動揺が先行して、メールを開く勇気が持てない。悩んでいてもどうしようもない。開くしか、ないよね?うん、よしっ!と、意を決してベッドの上で正座に座り直した私は、じわっと手に汗をにじませながら両手で携帯を握った。彼とのツーショットの写真を待ち受け画面にしていたが、私の今の待ち受けはとりあえずで設定し直した初期値のデフォルトの、風景画だ。そのシンプルな画面に映る『受信メール1件』の文字。ごくんと生唾を飲み込んでから、心なしか震える指で受信ボックスを開いた。


 ――――――――――――――――
  
  🕑 12/30 14:07
  FROM 三井 寿
  件名
  本文

  突然、連絡して悪い。
  家に置いたままになってる
  お前の物返したいんだけど。

 ――――――――――――――――


 ……なんてことない。ただ「物を返したい」とメッセージをよこしてくれただけだ。なのになんだか冷たいな、と感じてしまう。別れてしまったからか、もう、特別な立ち位置ではないからそう思わせるのか。それは定かではないけれど無性に泣きたくなった。文章の淡白さに泣きたくなったのか、それともやっぱりもう別れてしまったと再確認させられたからなのかは私でもわからない。だからもう連絡は取りたくなかったんだ。こんなふうになることを、自分でもわかっていたから。そして、寿はやっぱりずるいと思った。だって「返したいんだけど」だけでは持ってくるのか、取りに行けばよいのかさっぱりわからない。ということは自然に考えれば返事をしなければいけないという流れになる。けれど彼の事だ、それを計算高くやっているわけではないのだろうと思う。とりあえず伝えたいことを——返すためには何かアクションは起こさないといけないよな、とか、そんな配慮から、連絡をしてきただけ。メールの冒頭の「突然、連絡して悪い」という一文がそのすべてを物語っている。連絡するつもりはなかった、要件だけ伝えたい。そんなふうに言われてる気がするから。
 私はどう返そうか少し迷って何度も文章を打ち直して、結局は悩んだ候補の中から、当たり障りのないような返信内容を選んだ。


 ――――――――――――――――
  
  🕑 12/30 14:21
  FROM 名字 名前
  件名
  本文

  置きっぱなしの物たくさんある
  よね?外にでも出してくれれば
  勝手に取りに行くよ!

 ――――――――――――――――


 へたに絵文字は付けないほうがいい。しかし、記号は大切だ。気まずくないよ、ごめんねー置きっぱなしで!という、あなたからの連絡に、動揺なんてしてませんよー的な空気感を伝えたかったからだ。でも「勝手に取りに行く」は、それこそ冷たい言い方だったかな。けれど向こうにも予定はあるだろうし。ああ、なんだか別れてしまっただけでこうも気を遣ってしまうようになるのかと思えば、それはそれで悲しいものだ。
 『送信』を押して、どっと疲れた私は、またも深く溜め息を吐く。すると今度はメールの着信音とは別のメロディー……電話がかかってきたのを知らせる着信音が室内に響き渡って思わず携帯をお手玉する。見事落とさずにキャッチした自身の携帯電話。躊躇う私をよそにずっと着信音が鳴り響いている。携帯を閉じた表の小窓には無機質な『三井寿』の文字が表示されているし……ああ、どうしよう。いつもだったら、いや——いままでだったらものの数秒もすれば切れるはずの着信が今日は延々と鳴り続いているし。

「……取る、か。」

 私は降参、とでも言いたげにそう呟きまた溜め息を一つ吐いてから携帯を開き受話器のボタンを押した。

『……もしもし?』
「うん……もしもし」

 先に寿からの言葉を待って私も同じ台詞をオウム返しする。『……ああー、悪いな』と、歯切れ悪く言う彼に対し「ううん、だ、大丈夫……」とこちらも歯切れ悪く応答する。

『あのー......今、母親と大掃除しててよ』
「……うん、家もしてた」
『あ、そうだったのか。——いや……で、どうする?荷物』
「あ……うん、ね。荷物ね」

 ——気まずい……激しく気まずいし、何か聞き慣れていたはずの幼馴染の声が、どこか別の知らない人のように聞こえる。いままではどんな喧嘩でも「ゴメン」って言えたら、すぐに笑い合っていたのに。
 世界中でこんなにたくさんの人がいるのに寿と出会って恋に落ちて、同じ気持ちになれたのに、私がそれを終わらせた。それでも今、意味もなく「ゴメン」って言ったら寿は、笑って許してくれる?自分から別れを切り出したのにまだこうして彼の優しさに甘えすぎている私って、本当にバカみたいだ。でも——あの日、クリスマスイブの、あの海でちゃんと素直になれていたら……どんな不安でも我慢していたら今でも寿は側にいてくれたのかなって。もしも、あの日の言葉を消せたらって。勝手に振って勝手に終わらせた私が、結局こんな事を未だに未練たらしく悶々と考えちゃってるんだ。ほんと、嫌になっちゃう。
 湿っぽくなったことがバレませんようにと願いながら私が鼻をすすれば、寿は目敏くそれに気づいて「……風邪か?」と、こんなときですら変わらず優しく聞いてくる。

「ううん、ちょっと……部屋の中、寒くてさ」
『そうか……あ、あのよ』
「……うん?」
『……取りに、来るか?俺、今日いるし』
「えっ——」

 それは、その。玄関の外に置いておくとかではなくて、中におじゃましますと入って行って直接自分で片付けて持って帰れ、という事……?え、え。待って、同じ空間に、いるということ……?とか色々考えて思考の追っつかない私を置き去りにして無言の私をスルーした寿が言葉を続ける。

『渡し忘れとかあったら、めんどう……だしな』

 ……会えない、会いたい。今すぐに会いたい。ただ、寿に会いたいと思っていたのは、やっぱり私だけだった。『めんどうだしな』の言葉が重くのしかかってくる。だよね、そうだ。私たちもう別れてるんだった——。
『……あ、そのっ』と言う、寿の言葉をさえぎるように「うん、わかった。いま取りに行く」と、私はやや低い声で返した。彼は私のその早口に押し黙っていたけれど私はそのまま続けた。もはや投げやりに近かった。

「めんどくさいよね女の子のもの品定めするの。無駄に置きっぱにしちゃっててほんとごめんね」
『いや、別に……いいんだけどよ』
「バスケの練習行ってないってことは、あ。勉強してた?ほんとごめん、私なんかの物片付けるのに時間裂かせちゃって、迷惑だよね別れた女の物そのまま置かれてちゃ。そもそも——」
『——名前!』

 誰が見てもヤケになっているとわかるような口調で矢継ぎ早に言う私の言葉を寿がさえぎった。今度は私が押し黙ってしまう番だった。

『名前……、』
「……ッ、」

 ——ああ、ダメだ。わたし、涙腺がきっと壊れてしまったんだな。もう六日経った今でもすぐに涙が溢れ出てくる。ほんと、泣きっぱなしだ……どれだけ優しくされても、もう先は分からない。もう私は寿の特別ではない。寿との未来は真っ白になった。不安もこの先消える事は無いだろう。それでも会いたい、会いたい——いま寿に会いたい。会いたくて、たまらないの——。


『……、名前……』

 強がっていることに気づいているなら、お願いやさしくしないで……本当に、抑えられなくなっちゃう。会って、強く抱きしめてほしいって思っちゃうから……。

『そういうんじゃねえから。別れた……奴のとこに置きっぱじゃあ、迷惑かけると思ったんだよ』
「……ッ」
『だから、俺が思っただけだ……名前に迷惑かけちまうよなって、勝手に』
「……」
『ほんと。俺が思った、だけだからな……?』

 もう要件はとうに済んでいる……なのに、どうして?いま二人、終われない電話に戸惑っているんだろう。たとえ、どんなにどんなに強く願ったっても、もう戻れないけれど。きっとメールをするのも電話をするのも、これが最後だろう。切りたくない——これは私が望んだ結果だ、だから泣く権利なんてない。そんなの卑怯だ。それなのに気持ちを打ち明けてしまいそうで、会いたいのに寿に会うのが怖い。でも、もう迷わない。寿には幸せになってもらいたい。このまま夢を追いかけてほしい。だから切らなきゃ。もう過去には戻れないんだ——。


「じゃあ……電話、切るね」

 口に出したら、思ったよりも弱々しい声が出てしまった。『ああ。今すぐ、来れるんだよな?』と問う寿に、すぐ出れる旨を伝える。
『わかった、気を付けてな』と言われて、思わず噴き出してしまった私に電話の向こうできょとんとしているであろう寿の姿が目に浮かんだ。

『あ?なんか変なこと言ったか、俺?』
「いや、気を付けてって……すぐそこなのにさ」
『あ、いや……でも、気をつけてだろ。何あるかわかんねーし』
「ええ?たとえば?」

 今度は私が問えば彼は「ええ?」と、私と同じ反応をして急に真面目に「んー」とか言って悩みはじめた。『……通り魔、とか?』「いないでしょ!こんなとこに」『じゃあ、ヤクルトの勧誘?とか……?』「あー、ありうるね」と応酬して、先に話を打ち切ったのは、彼のほうだった。

『と、とにかくっ!……気ィ付けてな!』
「うん、わかったよ。じゃあね」
『——ああ、……じゃあな』

 私はその返事を待ってそっと携帯を耳から離し終話ボタンを押した。一呼吸置いた後、よしっと心の中で気合を入れて立ち上がり一階に降りる。玄関で未だ片づけをしていたお父さんに「出かけて来る」と言ったとき、そばにあった紙袋が目に入った。

「お父さんコレ、もらっていい?」
「ああ、もう捨てるやつだ、いいぞ」
「うん、じゃあ……行ってきます」
「……どこに?」

 紙袋を持って玄関のドアノブに手をかけたときお父さんにそう声を掛けられた。振り向かずに「寿んち」と言い置いて玄関のドアを開け放ったら「寿くんによろしく、いってらしゃい」と笑顔で言ったお父さんの雰囲気を背中に感じながらもやっぱり振り返ることはせずに私は幼馴染宅——寿の家まで駆け足で向かった。


 —— ピーンポーン……

 玄関前でインターホンを押したらほどなくして彼のお母さんが出迎えてくれた。本当に、年末の大掃除真っ最中と言う感じで、汚れたエプロンにゴム手袋をつけていた寿のお母さん。
「あら、名前ちゃん。いらっしゃい!」と、眩い笑顔に出迎えられ、思わず苦笑いを返す。

「寿なら部屋よ〜。あがってあがって」

「いま大掃除してたのよね」なんていつもと変わらぬ寿のお母さんの態度を見てまだ別れたことは言っていないんだと諭す。とは言っても私もまだお父さんに言えてないけど。

「おじゃまします……」

 靴を脱いで二階に上がるべく一段、階段を踏み込んだとき「寿にお菓子取りに来なさいって言って?」と声をかけられ「ハイ」と今できる精一杯の笑顔で振り返って言ったあと、私はそそくさと二階に上がった。
 寿の部屋を目の前にして何でドア閉めてんの、開けておいてよね……と小言を心の中で呟きつつゆっくりと三回、コンコンコン、とノックした。ノックしたと同時にトクトクトク、と心臓が音を立て始める。しばらくするとガチャとドアが開けられた。目の前にはTシャツにスウェットといういつもの部屋着姿で立っている、元カレの姿。

「……よぅ」
「……うん」

 お互い見つめ合って突っ立ったまま、先に寿が口を開いたのでとりあえず目をそらしながら私も短く返事をした。中に入ると外の寒さとは打って変わって暖房をつけていたのか暖かかった。あぁだからドア閉めてたのか、と思った。

「おばさん、お菓子取りに来いってさ?」
「……ああー」

 なぜか微妙な反応を返す彼を不思議に思って「ん?」と振り返ってみれば、入口付近に突っ立ったままでいる寿が、後頭部に手を添えながら、気まずそうに目をそらして言った。

「……そんなに長く居ねえだろ。あ、そこら辺に適当にまとめといたぜ」

 ええ。別にいないけど……さ?すぐ、帰りますけどもさ?そんな冷たくさぁ言わなくたっていいじゃん、と、眉間に皺を寄せながらプイッと顔を背けた私。

「まだ他にもあるかも知んねーけどな」

 まとめておいた荷物を確認するためにしゃがみこんだ寿が何の反応も示さない私を不思議そうに見やって「あ?」と言う。

「……まあ、すぐ帰るからお菓子いいけどさ」

 そう呟いて私も寿の隣にしゃがみ込み、持って来た紙袋に荷物を詰めはじめる。少し考えるみたいにしていた彼が「あ、もしかして」と何か閃いたように声のトーンをあげたので私は一応、ん?と、まだ不機嫌な表情を残しつつ、彼を見やる。

「菓子……食いたかったか?」

 真面目腐ってそんなことを言うもんだから思わず「違うわ!」と軽く寿の頭をチョップをするとヘラッと笑ってみせた彼から私は反射的に視線を逸らした。
 それでも、荷物を確認しながら袋に詰めている私の横でクックックと頭をうな垂れさせて、肩を震わせ笑っている彼にげんなりして思わず「はあああああー」と大きな溜め息が出てしまった。
 今度はそんな私の顔を覗き込んで「あいかわらず食い意地すげえな」って言った彼を、見向きもせずに真横にドンッと押し退けてやった。大袈裟に転ぶ仕草をするのも無視してやった。彼は笑いながら「よいしょ」と言って立ち上がり、CDの積みあがっている棚の方に歩いて行く。その後ろ姿を見つめながら心の中で「好きだよ」と呟いたとき彼が「……俺も」と振り返って、言い返してきたのでぎょっとして手に持っていたほぼ新品のハンドクリームを床に落としてしまった。

「……あ?」

「あ、ううん……手が滑った」と上手く誤魔化し気を取り直してまた、袋に物を詰めはじめる私。なにか話さなければ気まずいと分かっていても、こういうときに限って何もネタが思いつかないのだから、救いようがない。ほんとボキャブラリーが乏しすぎて泣けてくる。

「——俺もよ、この曲好きで」

 会話を探していた私をよそに、彼はそう言ってCDジャケットを翳して見せてきた。目を細めて見返せばそれは私が以前に貸したまま忘れていたCDだった。なんだ、「俺も」って曲のことか。だよね。わたし、なにを期待してたんだろ……。

「なぁ、これだけ借りてていいか?」

 言われて私は、ゆっくりとまた視線を目の前の荷物に落とし込み、ぽつりとつぶやく。

「……あげるよ」
「……あ?」

 それ、と私は寿に視線を合わせて、あげるよともう一度言い微笑んだ。寿はしばらく瞬きをしていたけれどややあって「ああ、じゃあ……貰う」と手に持っていたCDをそばにあった週刊バスケットボールの本の上にポンッと置いた。私は荷物の中にあった少女漫画の一冊、なぜか8巻だけという中途半端なそれを手に取って中をパラパラと捲る。チラッと寿を横目に見れば今度はベッドに腰を掛けて大股を広げながらこともあろうに参考書を読んでいて、その姿に笑いそうになった。

「それ、楽しい?」

 私も手に持っていた少女漫画を読んでいるふりをしつつ問う。彼は「あン?全然楽しくねえよ」と不機嫌そうに言い一瞬だけ顔を上げたのが目の端に見えた。それでもすぐに参考書に視線を落とし今度はパラパラと適当にページを捲っている。

「絶望って感じだな。目が合っても絶望」
「え、目って?」

 私は彼のほうは見ずに、未だ漫画を読んでいるふりをする。

「お前と。目が合っても絶望だって言ってんの」

 そう?と、私が彼のほうを見れば参考書を閉じたあと自分の真横にそれを置いていた。ついで、両手の指を交互に絡めて、両肘を大股で開きっぱなしの膝に付き私を真っ直ぐに見据えてぽつりと言葉をこぼす。

「——で、どうする?」
「……なにを?」
「別れんのか?」

 すこし目を細めながら訊ねてきたまさかのその質問に私は一瞬返す言葉に詰まって息を呑んだ。言い淀んで目を逸らした私。それでも彼はじっと私を見つめたままだった。

「別れるよ……」
「はぁ……マジかよ」

「うん、マジだよ」と振り絞って声を発した私は手に持っていた漫画、8巻を袋の中に入れた。

「え、つーかこれって、もう別れてんのか?この今の状況」
「……別れてるよ」

 刹那、ベッドがギシッと鳴ったので、チラッと見れば寿は絡めていた指を解いて今度はベッドに両手を付き、天井を仰ぎ見ていた。

「別れてんのかー何だよ、ギリ付き合ってんのかと思ってたぜ」
「……ギリ、別れてるよ」
「へえ」

 そのとき一階から聞こえていた物音がぴたりと止んで一瞬シン、とした空気が私と彼のあいだを漂う。その空気を破るみたいにして私から言葉を紡ぐ。

「言ってたじゃん、自分で。さっき」
「なにが?」
「電話で、別れたヤツのとこに置きっぱじゃあって……」
「ああ……そうだ。言ったわ、言った。ほんとに別れたんだな、俺ら……」

 私はそれには特に何も返さずに荷物を詰め終えて立ち上がる。「これでたぶん全部かな…」と、呟いた言葉を聞いて寿もベッドからゆっくりと立ち上がった。部屋を見回して忘れ物がないかと確認をしているとき、ふと彼のベッドの枕元に置きっぱなしにしていたキャラクター物のヘアピンが目に付いた。「あ、ヘアピン…」と、それを取りに行こうと彼の横を通り過ぎたとき突如ガシッと腕をつかまれた。

「……え。……な、なに?」
「……」

 ……痛い。痛い痛い痛い痛い、腕も……胸も、ぜんぶ——。苦しい、痛いよ、寿。いくらお互いが想っていたって、もう決して繋がる事はないのに。なんでこんなことするの——!

「——痛い……って!」

 私が抵抗しても彼は力を緩めることはせずに、目をそらしたままで、ぽつりと「最後によ…」と言った。私は「え?」と寿を見る。

「最後に、抱きしめても……いいか?」

 ゆっくりと私に視線をよこした彼から私は目を逸らすことが出来なかった。

「……」
「……」
「………、ダメだよ——」

 私はようやく視線を逸らし、自分の足元にその視線を落とし込んだ。そして、か細い声で言う。

「そういうの、ダメだよ……」
「……」
「だって、そんなことしたら——」

 私の言葉をさえぎるように掴まれたままでいた腕を思い切り引かれて、驚く間もなく、私は寿の胸の中に引き寄せられていた。

「……ひさ……、……離して」
「……」
「ひさ、……キャッ!」

 気が付いたら私はベッドを背にして、彼に組み敷かれていた。目の前には幼馴染の顔があって、私は状況も把握できず、そして言葉も出ずにせわしなく瞬きをするしかなかった。一階からは寿のお母さんが掃除機をかけている音が、この部屋にまで響いていて、至近距離で、見つめ合っていた刹那——寿は私を押しつぶす勢いで、枕元に手を伸ばした。

「ちょ……待って、寿——!」

 焦る私をよそに寿は「ん」と言って、私を組み敷いたまま、いま手に取ったであろう小さな箱を私の目の前に翳してくる。

「……え?」
「ゴム」

 たしかに、その言葉の通りそれはコンドームの箱だった。焦りから一変きょとんとしている私に寿はあたりまえかのように吐き捨てる。

「持って帰れよ」
「………、は?」

 そのまま私の右手を持ち上げて箱を握らせた。「俺、もうそれ使わねえからよ」と言い置いて。どうやら冗談でもなさそうだった。眉間に寄せられた皺、不機嫌そうなその顔。それを見たら冗談で言ったんじゃないんだろうなってことは分かった。分かった、けど——。

「……、最低……」
「は?」

 今度は寿がきょとんとする番だった。私は彼に組み敷かれている状態のまま顔をぷいっとそむけて、言葉を続ける。

「これから遊び人になりますよって宣言してんの?」
「はあ?お前なに言ってんだ?」

 私はそむけていた顔を寿にむけて、少し口調を荒くして言う。

「もう使いませんって、こんなの使わないで遊びまくりますって?」
「バッカ、違え……!」
「じゃあなんでわざわざ女の子にこんなもの渡すの!?別れたとは言えさ……嫌味?なに?自分で買ったくせして……」

 勢いのまま言い切った私に向かって「ハァ」と小さく溜め息をついた彼が、ようやく私の上からよけてくれた。先に立ちあがって手を差し伸べてくれたけど完全スルーで私はストンと自らベッドから起き上がった。行き場をなくした彼の手が、そのまま後頭部に当てられて、ガシガシと強めに自身の髪を掻いたあと、その手を乱暴に下ろして彼も荒い口調で矢継ぎ早に言う。

「お前以外と使う気がねーから、責任もって持ち帰れよって意味だっつーの!」
「……え」
「今後も、ずっと。使う相手なんていねえって」
「……」
「……わかれよ、ったく……」

 とたんになぜか、じわっと目の前が霞んできて私はぐっと歯を食いしばる。ここで泣いたらだめだと思った。負けると思った。しかし彼は、はっと浅く笑ってから投げやりに吐き捨てる。

「まあ、仕方ねえか……嫌われちまったんだからそう思われても」
「……」
「俺のこと嫌いになって、それで——」
「やめてよっ!!」

 私はぐっと眉間に皺を寄せて彼を睨む。突然の私の大声に、寿は目を丸くしていた。

「嫌い嫌いってさ、そんなこと一言も言ってないじゃん!」
「……」
「別れたあとでも、こうして喧嘩してないといけないわけ?!嫌いなんて私、ひと言も——」
「俺は好きだぜ」

 やけに低くて、それでも、真っ直ぐに通った声だった。ずっと昔から私が大好きな、声だった。

「俺は名前が好きだ……今でも。お前に嫌われたとしても、俺はずっとお前が好きだ」
「……」
「片思いでも、いい。名前が、好きなんだよ」

 泣いたら、ダメだって……。ここで泣いたら、ぜんぶ、振り出しに戻っちゃう——。

「捨ててくれて……いいからよ。つーか代わりに捨てて欲しい」
「……」
「お前との思い出のモン一個にしたって、自分で捨てる勇気がよ……いまの俺には、ねえ……」


 ——会いたかったよ。ずっと、寂しかった。
 寿の声をすこしでも聞きたくて、別れを告げた次の日、実は隠れて体育館に行ったの。でもなにひとつ寿には言えなかった。声もかけられなかった。逃げたんだよ、わたし。
 ねえ、寿……そんなこと言わないで。もう……やさしくしないでよ。

 私は手に持たされたその箱を強く握ってから、彼の横を通り過ぎる。そのまま、荷物の袋の中に入れて、荷物がぱんぱんに詰められた袋を持ったとき寿が背後からそれを取り上げた。

「え……?」
「あ……?帰るんだろ?」
「……あ、うん」
「玄関まで持ってく」

 そう言って部屋の入り口に向かい、ドアノブに手を掛けた彼の背に向けて言った。「いいよ!」って。その私の声に振り返った彼の元まで行ってそっと奪われた紙袋を取り返した。

「いいって、持っていく……重いしよ、これ」
「女の子にはね、ちょっと優しくないくらいの方がモテるよ?……次の人のとき、気を付けなね」

 じっと私を見据える彼から視線を解いて、私が今度はドアノブに手をかけたとき「だからいねーんだって——!」と声を張られたのに驚いて私はドアノブに手をかけたままもう一度彼を見やる。

「名前以外いねーつってんだろ……しつけぇな、あいかわらずお前はよ……」
「………、やっぱ運んでもらおうかな」
「……あ?」
「重いし、コレ」

 ん、と言って彼の目の前に袋を翳してみれば、一瞬目を見開いたがとたんに口の端を吊り上げて鼻で笑ったあと、それを受け取ってくれた。後を着いて行って階段を降りた先に、彼のお母さんがゴミを袋に詰めている姿が目に映った。

「あら、帰るの?」
「あ、はい……おじゃましました」
「はーい、また来てね、名前ちゃん」
「……、お世話になりました。」

 ぺこっと頭を下げた私にニコッと笑顔を返してくれた寿のお母さんはそのままリビングへと入って行った。靴を履き終えて振り返れば玄関に立っている寿と向かい合わせの体勢になる。

「……ひとりで、全部持てるか?」

 私は差し出された紙袋の取っ手の部分を持つ。それで自然と寿と私の手が触れ合うかたちになった。それでも寿は取っ手から手を放してくれなかった。しばらく私と寿は手が触れ合ったままで、見つめ合っていた。
 うん、持てる。寿の未来を考えて別れを選んだことも、寿を心から、愛しているということも。ぜんぶ、自分ひとりで持って歩いて行くよ——。

「うん……持てるよ」
「そうか……」

 取っ手をつかんでいた手を寿がそっと離した。「……じゃあね」と言えば、「ああ……おぅ」と返してくれた寿。きっとこれが最後の——じゃあね、なんだろう。
 私は彼に背を向けて玄関のドアノブに手をかけた。痛いほどの視線を背中に感じる。でも、もう振り向かない。
 バタン……と閉めた寿の家の扉。一仕事終えたように私は空を見上げて、はぁと溜め息を漏らした。私の吐いた息は白く空に登って行き同じタイミングで止んでいたはずの雨がまたポタポタと、落ちて来た。

 ——ねえ、神様。どうして自分に正直な恋じゃダメなの?なんで心は想えば想うほど離れていくの……。
 たとえどんなにどんなに強く願ったって、もう戻れないけど。遠くなるあたなを、見えなくなるあなたを、想い続けることは許されますか?
 あなたからもらった幸せはずっと、これからも心の中で輝いていく。きっとこれから先も、忘れたりしないよ。

 上手くいかないこと、泣きたくなること、落ち込むこと、いっそ無かったことにしたいことなんてたくさんある。でも私はまだ自分の足で歩けるし、晴れていたら空は綺麗だと感じるし、お腹は空くし、ポケットに入れた指は、あたたかいし。

 心臓はどくどくしてるし。
だから大丈夫。生きていれば大丈夫、きっと。










 ずっと心の奥に響く



( それは、あなたの声に似ている )


※『 Song for…/HY 』を題材に。
※Lyric by『 たとえどんなに…/西野カナ 』

 Back / Top