一月の初旬、神奈川県は毎年変わらず乾燥注意報発令中。リップクリームを塗り忘れでもしたら簡単にくちびるが切れてしまう、そんな季節だ。
「痛った……!」
キッチンに立って晩御飯の準備をしていたとき私はまた油断して、くちびるを切ってしまった。ついさきほどリップクリームを塗ろうと思いつつめんどうだからと後回しにしたツケが回って来たのだ。
「どうした!!」
ソファーで寛いでいた寿が、飛び上がってキッチンへと駆け寄ってくる。私が「へ?」と間抜けな声を発している間に彼は私の肩を思い切りつかんで自分の方へと振り向かせる。
「指でも切ったか?!」
「あ、ううん——くちびる、が……ね?」
「あ?くちびる?」
私が自分のひとさし指でくちびるを指し示すと寿が私の口元を凝視する。すぐに、はぁと溜め息をついて「ったく、またかよ」と呆れたように声を漏らす。
「やっちゃった。ねえ、切れてるでしょー?」
「……ああ、切れてんな」
リップクリーム——と、言いかけてリビングのテーブルに置きっぱなしになっていたはずのそれを取りに向かおうとした私の腕を、寿がぐいっと後ろから掴む。うおっ、と思わず声を発した私はすぐに寿と距離がまた縮まった。至近距離にある寿の顔を私も凝視する。
「……な、なに?」
「治療してやろうか?」
言いながらニヤリとほくそ笑む彼が私の了承も得ないままに私のくちびるをついばんだ。
寿のくちびるが触れた瞬間、わずかに彼の唇がしっとりと潤っているのを感じてまた勝手に私のリップ使ったな……と、このときはじめて知る。
「また——勝手にっ……使ったで、しょ……」
寿のペースに流されるまま、くちびるを這わせながら私は言う。「ああ、いちご味のな」とキスの合間に繋ぐ寿の返答に「あれ——ピーチ味なんだけ、ど」と、しっかり訂正しておく。
こやつの脳みそは甘い味ならみんな一緒なんかとぼんやり思いながらも降って来るキスに、私はどんどん溺れていく。
舌を入れないギリギリを攻めて来る寿に抗って私から舌を入れようとすると、かすかに寿の口角が吊り上がった気がした。それでも、舌を入れることは許されず、私が無理やりにキスから逃れるように寿から顔を離す。
「……あ?なんだ、どうした?」
涼しい顔をしてそう言ってのける寿は未だ口角を吊り上げたまま。そうして私を抱きしめる腕の力も緩めぬままで。
「ガスに火、……かけてるから……さぁ」
「ンなもん……止めりゃいいだろ」
すぐ真後ろがガス台だったこともあり寿が長い腕を伸ばしてガスの火を止める。その仕草をぼんやりと眺めていたとき突如、高校時代の古い記憶が蘇ってきて私はハッとした。そんな私の様子を見た寿が怪訝な顔をして「今度はなんだ?」と、問う。
「あ、いや……」
「なに?」
「ちょっと、急に思い出したんだけどさ」
「ああ?だから、なんだよ?」
「高校の頃さ……」
寿とクリスマスイブにお別れをしてからすでに一ヶ月が経とうとしていた。それと同時に、寿の卒業が目の前に迫って来ていることにも気付く。
今日は彩子とリョータくんが担任に呼び出されてしまったので久しぶりに一人で食堂に向かう。きっと、彼らもいるだろうと思ったからだ。予想は的中。案の定、一年生の桜木くんと桜木軍団が食堂の一番後ろのテーブルを陣取っていた。私の姿を見るや否や、みんなが個々に手を翳して声を掛けてよこす。それに手を振り返して、みんなと一緒にお昼ご飯を食べているとき不意に桜木くんから質問を投げ掛けられる。
「名前さん、なんでバスケ見に来ないんスか?」
その桜木くんの言葉に桜木くん以外のみんながぎょっとして桜木くんを見やる。それを見て見ぬふりをした私は気を遣わせまいとすかさず弁解に入る。
「最近、課題とか多くてさあ……それに桜木くんは、晴子ちゃんの声援があれば十分でしょー?」
そんな私の切り返しに桜木軍団が、ほっと胸を撫でおろした刹那、桜木くんが当たり前のように言い放つ。
「女性の声援は、いくらあってもいいのですよ、天才にとっては!」
「……あ、そ……そっか」
「だから今日は!見に来てください、この天才の勇姿を!」
思わず、水戸くんと目を合わせてしまった私に水戸くんは参ったというふうな顔をさらけ出す。なんか、申し訳ねーな、みたいな顔にも見えた。
「わかったよ——」
私の言葉になぜか桜木軍団が「え」と、一斉にハモる。桜木くんはそれを見て「あ?」とやっぱり何も知らない雰囲気を醸し出す。
「わかったよ、今日は応援行くね」
「はい!天才、いつまでも待っております!」
元気いっぱいな桜木くんの声と笑顔に私も微笑み返して「うん」と頷いた。心配そうな顔をして私を見やる水戸くんと再び目を合わせて「大丈夫」と口パクで伝えたら水戸くんは「そうか」と言いたげに浅く首を縦に振った。
その日の放課後、彩子とリョータくんにも今日は久しぶりに見学に行く旨を伝え私はすこし遅れてから体育館に向かった。
すでにバスケ部の練習は始まっているようで、耳をすましてみればあの彼の聞き慣れた声もその中に混じっていることに、思わず溜め息を零す。
引退後も、こうして彼はバスケ部に顔を出していたことはリョータくんから報告済みなので知ってはいたけれど……躊躇いながらも、とぼとぼと体育館の外を歩いていた私は目の前から来る集団に気付いていなかった。
——バッシャーン!!
気が付いたころには、後の祭りセールと言ってもいいような状況に陥っている始末。「す、すんません!!!」と大声で謝罪の言葉を発した集団の中の一人が深く頭をさげている。見れば、サッカー部の部員数名が、ユニホーム姿で呆然と私を見て立ち尽くしていた。どうやら水を張ったバケツを持った生徒とぶつかり、その水を豪快に私はかぶってしまったらしい。
「——つっ、めた!」
状況を把握したときずぶ濡れの私はここではじめて体が冷えたことを察知して、反射的に大きな声を発してしまう。それを聞いたサッカー部の人たちも硬直していた体を起動させて、わたわたと焦り始めた。
冬だというのに体育館の入り口が開きっぱなしになっていて、その騒ぎが聞こえたらしい入り口メンバーの桜木軍団が、こちらを振り返って声をあげた。
「名前さんっ?!」
「うお、名前姐さんがずぶ濡れてる!」
水戸くんと高宮くんの声が私にも、ぼんやりと聞こえたてきた時、それまで体育館に響き渡っていたバスケ部の掛け声やボールの弾む音も同時にピタッと消え去った。桜木軍団含む、バスケ部員数名の見知った顔ぶれが体育館の入り口から顔を出し、目の前にいたサッカー部の一人が、一緒に顔を出してきたリョータくんに向かって声を張った。
「宮城!名字さんに、水ぶっかけちまった!!」
私もずぶ濡れのままで体育館の入り口を、ゆっくりと見やる。きょとんと私を見ているみんなの中から一人、ズカズカとこちらに歩み寄ってくる影が見える。その正体は、まさかの桜木くんだった。歩きながら自分の着ていた黒いタンクトップを脱ぎ去って、私に手渡してくれたのだ。
「名前さん、大丈夫すかー?これ、どーぞ」
反射的にそれを受け取った私は自分の胸元あたりに視線を落とす。うっすらと下着が透けかけているのを見て、急いで「ありがと!桜木くん!」と言って受け取ったタンクトップを胸の前に抱えた。
「私もちゃんと前見てなかったの、」
ごめんなさい、と頭を下げながらサッカー部員達を見れば、バケツを持っていた生徒は、一年生なのか見慣れない人物だったが、他は顔の知れた同級生たちだったことに気付いた。
私の言葉に全員が個々に「ごめん」だの「すみませんでした」と謝って来たので、大丈夫だから練習に戻ってと促せば、気まずそうに全員がその場から立ち去って行った。
私と桜木くんが一緒に体育館の入り口に向かえば、桜木軍団とリョータくんや彩子、晴子ちゃんに安田くんが入り口で待ってくれている。
「大丈夫?名前ちゃん……」
「うん、桜木くんから借りたから隠せるかと…」
「名前さん!風邪引いちゃうわよぅ」
「名前、乾燥機に掛けて来なさいよ。いま、洗い場、誰もいないから」
彩子にそう促されて私は、うん、と頷く。それを確認してマネージャーの二人と安田くん、桜木くんはコートに戻って行く。残ったのは、そばに座って見学していた桜木軍団と、リョータくんと
……元カレ、寿だった。
「あっ!三井サン」
リョータくんがコートに戻って行こうとする彼を呼び止めたことで、その彼もぴたりと足を止めて、また振り返った。すごくめんどくさそうに。
「あそこにまとめてある洗いモン、名前ちゃんに付き添いながら一緒に持ってって」
「はっ?なんで俺が……」
「いーじゃねぇスかぁーもう、ただ遊びに来てるだけでしょ?」
「バカ野郎!俺はな、受験生の貴重な時間をお前らに裂いてだな……」
「だって、女の子がずぶ濡れで歩いてたら心配じゃん」
リョータくんのその、あかるげな声に私も寿も押し黙ってしまう。そして、それを見かねた水戸くんがコート上で流川くんと相も変わらず喧嘩をしている桜木くんを見ながら言った。
「みっちー身長高いしな、かくまってやんなよ。名前さんのこと」
「はぁ?ンなこと言ったってよぉ……」
「いくら花道の借りたからって、そんな姿で一人行かせらんないだろー?ずぶ濡れだし」
淡々と言ってのける水戸くんに私と寿は思わず目を合わせてしまう。しかし、すぐに互いにパッとその視線を逸らした。それを見ていたリョータくんは「じゃ、三井サン頼んだよ!」と、言い置いて、コートのほうへと戻って行ってしまった。ややあった沈黙の中、私が思い切って口を開く。
「……三井先輩——、」
あまり大きな声ではなかったはずなのに、寿を含む桜木軍団の視線が、一気に私に向いた気配を感じる。変な緊張感が走ったが、努めて平常心を装って小声で言った。
「お願いしても……いい、ですか?」
うんでもすんでもなく無言の中で聞こえてくるのは、体育館で大声を出して練習をしているバスケ部員の掛け声とボールの音、それとバッシュの音。いくら待っても何も返事が返ってこないので「やっぱり大丈夫です」と言いかけたとき、そのバスケ部員の声にまじって「ああ」と小さく低い声が耳に届いてきて、私は顔をあげた。彼は目を逸らしながら後頭部に手を当てて「行くぞ」と、言い置くと、体育館を出て行く。私もとりあえず急いで後を追った。
彼を先頭にして無事に洗い場の部屋に到着すると、彼が慣れた手つきでドアを開ける。その洗い場の部屋の中には彩子の言ったとおり人っこ一人居なかった。「ここまで送ってくれてありがとうございました」と、やや早口でお礼を言い、さっさと中に入ろうとした私よりも先に寿が中に入り込む。思わず「え」と言いそうになったが、なんとかそれを飲み込んで私も中に入って静かにドアを閉めた。私に背を向けたままの寿に私が、遠慮がちに問いかける。
「そのまま……そっち向いててもらっても、いいですか?」
「……」
「着替えちゃうんで……」
やっぱり、うんもすんも返してこないので急いでジャケットとブラウスを脱ぎ去り桜木くんから借りたタンクトップを頭からかぶる。……やばい
やっぱ、めっちゃデカイわ。これは彼氏の大きめなシャツを着て、エロいとか萌えるとかいう謎の男性論以前の問題だ。抑えていないと、胸元が、がっつり見えてしまうスタイル。そんな事を一人脳内会議している私が顔をあげるといつのまにかこちらを向いていたらしい彼と目が合う。寿は、それはそれは不機嫌そうな顔で私の全身をチラと一瞥してから、視線をまた私の顔に向けた。それが気まずくて視線を逸らすとすぐに乾燥機にブレザーとブラウスを投げ込み、ボタンを押す。
室内に虚しく鳴り響いたピッ、という機械音。このあたりで「じゃあ俺、戻る」とでも言って、去って行くのを期待していたがどうやら彼はまだこの部屋に滞在するらしい雰囲気が満載だった。
「……ったく、世話の焼ける女だぜ」
姿勢も視線もどこに向けていいのか分からず、ずっと乾燥機の中を眺めているふりをして立っていた私の背後から呆れたような、ため息交じりの声が聞こえてきた。背筋がひんやりする。
「同じ女でも、彩子や赤木の妹とは大違いだな」
「……」
私はカチンと来て「当たり前ですよ、あの二人はマネージャーなんですから」と返したが思ったよりも、低い声が出てしまった気がする。絶対に振り返らない。いま顔を見たら迷わず引っ叩いてしまいそうだから。
乾燥機に乗せていた手で無意識に拳をつくった自分の手を見たとき、いま私は心底頭にきているんだと、しっかりと自分自身で認識した。
「……そうかよ。じゃあ見習って、ちっとは慎ましくしてみろ」
「……」
「つーか、おまえがどうせちゃんと前見て歩いてなかったから——」
「やっぱ頼まなきゃよかった」
呆れ口調で偉そうに話していた彼の言葉を遮って、尚も冷たい声色のまま私がそう吐き捨てた。案の定「あン?!」と、ドスの効いた声で不満を露わにする彼を置き去りに、言葉を続ける。
「桜木くんは優しいよね、すぐに駆け寄ってきてくれて自分の服なんか差し出してさ」
「……はいはい。わかったよ——」
「……」
「じゃあ付き添いも、自分で桜木に頼めよな」
「……そうだね、そうすればよかったですね」
「……。じゃあ……俺は戻るぞ」
その言葉には何も返さず、ずっとそこに、立ち尽くしていた私の頭に突如、ポン……と、優しく手を乗せられた。なぜかその行動に、一気に頭に血がのぼり、私は顔を真っ赤にしてその手を勢いよく振り払った。
「——さわらないでっ!!」
「……」
「……あ、」
「……はあ?」
「……ご、ごめん……」
「お前は俺に——、どうして欲しいんだよ」
不機嫌マックスの、寿の声が返って来る。私の背後、彼との距離はそう遠くはないはず。それはなんとなく分かる。
一気にシン、となった空間に乾燥機の音だけが虚しく鳴り響いている。
「お前がお願いするっつーから来たんだぞっ!」
「……」
「こき使った挙句、触るなだァ?!」
「……ごめん、なさい……ちょっとびっくりしただけ……です」
「その敬語やめろよっ!腹立つんだっつの」
「大きい声……出さないで……」
「ちゃんと目ェ見て話せっ!!」
寿にぐいっと肩を掴まれ彼のほうへと向き合う体勢を取らされる。「離してっ!!」と、視線を落とし込んだまま、私が大きな声を発する。未だ寿の腕は私の生身の肩を掴んだままだ。
「そんなに……触られたくねえか……?」
下唇を噛んで言いよどむ私にもう一歩、距離を詰めた寿が私の肩を掴んでいた手を、私の背中に回したことで、私は思わず息を止める。ぐいっと体を寄せられて私は彼の胸の中へと一瞬で納まってしまった。
「ちょ、ちょっと、」
「……」
「……ッ、はなして——」
その肩を押して、離れるようにと抵抗の意志を示す。が、それでも寿は力を緩めることはせずに私を片手で抱きしめている。
「ねえ、やめてってば」
「……」
「怒ったんなら、謝るから——」
「……」
「ねえっ……、寿——!!」
すると、すーっと私の体は寿から離された。
それでも私は腰を抜かして寿に腕をつかまれたまま、ずるずると乾燥機を背に床にぺたんと座り込んでしまう。するすると、私の腕を擦り抜けていった寿の手が、いま、私の右手を握っている。
「……泣くほど、嫌かよ——」
その悲し気な声と言葉で、自分がいまはじめて涙を流していることを知った。ややあった沈黙。私はもう一度、下唇を噛みしめてから、か細い声で言う。
「………嫌か、って?……うん、……嫌だよ」
「……」
「あの二人と比べられたくらいで、バカみたいに泣いてる自分が本当に嫌」
「……」
「ちゃんと分かってるよ、私はあんな風にはなれない……ヤダよ、もう」
言って私は、掴まれていた寿の手を振り払う。振り払った寿の手は力無くぶらんと垂れ下がる。
「やだ、もう!……寿の前でだけは、こんなのは嫌だっ!」
沈黙を破るように、さきほど振り払った私の手首を、寿がまた掴んだ。
「じゃあ、誰ならいいんだよ……っ!」
驚いている間もなく、その手を乾燥機に押さえつけられ気付いたころには、しゃがみ込んだ寿のくちびるが、私のくちびるに触れていた。
「——!!」
——パシンッ!!!
私は思わず寿を平手打ちする。一度その反動で寿の顔が横を向いたが、寿は余った手で私の顎をつかみ上げて今度は舌を入れてキスを再開する。
「ん——!!!……い、」
「……っ」
「——や、……だっ……!!」
ガリッ…!という鈍い音とともに私はドン!と勢いよく寿を突き飛ばした。寿が、後ろに尻餅をつく形で、私と彼との距離はようやく保たれた。どうやら、さきほどのガリッという音は私が寿の唇の端を噛んでしまったときの音だったらしい。彼の唇の端に血が滲んでいる。私も唾を呑んだらなんだか、微かに鉄の味がした。
「……痛み分けだ」
親指の腹で自分の唇の端の血を拭い取った寿がそんなことを口走るので、私はカッとなって言い返した。
「——最っ、低……!自分に、気があるかもって思ったら誰彼かまわずさっそく手ぇ出すわけね」
「……」
「三井先輩≠煦ト外——底が知れてるね」
「……」
私と目を合わせずツン、として、なにも返してこない彼の姿に、どんどん頭に血がのぼってくるのが自分でもわかる。
「もう……顔も見たくないけど、同じ学校じゃ、そういうわけにはいかないから」
「……」
「今日ここであったことは、ぜんぶ忘れる——」
「……ッ」
「そっちも——」
「うるせえ!!」
「……は?」
寿は一度ギリッと歯を食いしばってから、更に大きな声を発した。私は、当たり前に驚いて目を見開かせる。
「うるせえんだよっ!うるせえ、うるっせえ!」
「……」
「クソっ——、なんで、うまくいかねえ……」
寿は拳を握って一度大きくそれを振りかざしたあと、私をギロリと睨んだ。
「いったいなんだんだよ、お前はっ!」
「なに言って……」
「ちくしょう、……」
寿はさっき振りかざした手を今度は自分の額に当てて、目元を覆い隠すようにして俯く。
「期待……すんだよ、普通は」
「……え?」
「俺の前だけで……ンな格好されたら」
「——!ちが……そんな、」
「わかってる!!」
寿は隠していた目元を露わにして、私をじっと見据えた。視線を、反らせなかった。眉間に皺を寄せて、切なげな……その瞳から。
「わかってんだよ、ンなこと。俺が、一番……」
寿は大切なものを扱うみたいにして私の右手をつかんだ。
「勝手に期待して、勝手にいらついただけだ…」
そう言って、つかんだ私の指先にそっとキスをした。刹那、「なあ……」と彼が私の手をつかんだまま、また距離を縮めて来る。私は、ビクンとなったが寿の私を掴む力が強すぎて手を振り払えなかった。
「や……っ、」
「——悪かったよ」
今度は寿が私の両肩を優しくつかんで私の額と自分の額をくっつける。
「嫌な言い方してよ……」
「……」
「天然タラシ炸裂させて、他の野郎の服着て」
「……」
「別れてからお前が——あんまりにも俺を眼中に入れねえから、」
「……」
「俺の言葉で傷ついて、身も世もなく……泣けばいいのにって、馬鹿なこと、考えちまった……」
寿の息がダイレクトに私の肌に降り注がれる。まるで……キスしているみたいに——。
「そしたらお前が、あんなこと言って泣くから、たまらなかったんだよ……」
今にも泣き出しそうなその寿の声は痛々しくてもどかしくて。私の心臓も痛くて、ずっと悲鳴をあげている。喉の奥が詰まって、息が止まりそうだ。どうにか声を振り絞って「……私は——」と発した私の声は、掠れていた。
「あんな言い方されてバカみたいに泣いて、みっともなくまた、寿とはじまるなんて……」
「……」
「そんなの、嫌だよ——」
私は、ゆっくりと立ち上がる。そして寿と距離を取って、背を向けたまま言った。
「ぜんぶ、忘れて——」
「……」
「また、縁≠ェあったら、」
「……」
「そのとき、やりなおして……。」
こんなふうにして、いつも手放してきたこと。大切なものを信じ続けることは、とても容易くはなかったけれど、こうして離れている間に、寿が少しずつ変わってしまっても、私はずっと、想い続けたかった。
——あのとき、寿がどんな顔をしていたのかは分からない。自分が、なぜにそんなことを言ってしまったのかも分からない。ただ、はっきり言えるのは——......
—
「——って、ことがあったの。覚えてる?」
いつの間にか過去の思い出を語っているうちに一緒にソファーに腰をかけて寿に話していた。
「あー。覚えてないなあ、その反応は〜」
私は、話を聞いてるんだか聞いて無いんだか、呆然と天井を見上げている寿の顎を、すりすりと擦る。それに反応した寿が、ゆっくりと顔を私のほうへと持ってくる。驚いて身を引いた私に彼は言った。
「……覚えて、ねえな」
ぽつりとなんだかちょっと寂し気に寿が呟く。
「だよねー。なんかあの日のこと、私たちの中で無かったことになってるなーって感じてた」
私は寿の反応に特に落ち込むことも喜ぶこともせずに、そう明るく言い置く。実際、私もあの日の出来事を思い出そうとしても、何だかぼんやりしていて本当はあの日、あんな出来事がなかったんじゃないかとすら思っていたからだ。
「結局さ、あのあと寿が先に部屋を出て行ったのか、それとも私が先に帰ったのか、そういうのもまったく覚えてないからさ?」
寿は眉間に皺を寄せたまま、なにか考え込んでいるように見えた。言わない方がよかっただろうかと若干の後悔を残しつつも私は気まずくならないようにソファからすくっと立ち上がって言う。
「ご飯、食べよ?きょうは、寿の大好きなオムライスだよ〜」
なぜか寿が私をじっと見てきたので、何となくニコッと微笑み返してから寿の目の前を通り過ぎてキッチンに向おうとした、そのとき。
突如、後ろから腕を引かれて私は、ソファーに座ったままでいた寿の腕の中に、すっぽりと納まる。瞬間、気付けば寿に唇を奪われていた。
「ちょっと!!なに考えてんのっ?!」
「——た、」
「へっ?」
「……やりなおした。」
「……」
じっと私を見据える寿の瞳に私が映っている。ニヤリと口角を吊り上げた彼に、あ……こいつ、覚えてんじゃん!と私は顔がカァァと赤くなってしまう。
「どこがよっ!!!」
バシッ!と思わず寿の頭を軽く叩けば寿は二ッと白い歯を見せて笑う。なおも顔を赤くして暴れ狂う私を馬でも宥めるみたいに「どうどう、」と言った寿を睨めば彼は柔らかい笑みを浮かべた。その体勢のまま「そう言や——」とぽつり、寿がつぶやいた。
「俺のために、別れたって気づいたときよ……」
「え?……うん?」
「俺、思ったんだよな」
そう言って寿は過去を懐かしむみたいな、慈しむみたいな表情で少し、目を細めた。先の言葉を待つ私の髪を、優しく撫でて寿が言う。
「たとえば……俺のためだって、おまえがついた嘘なら、俺にとっちゃあそれが本当っつーか」
「……」
「だから——想い続けようって。会えなくなった間に、名前が変わっちまったとしても」
急にしんみりしたみたいな空気になって、湿っぽくなってしまった私を見た寿は、ニヤリと笑い「……つーわけで」と開き直り私の乾燥して切れてしまった唇の端を親指の腹でなぞって言った。
「痛み分け、な?」
「……ッ!!」
まさかの、あの日と同じその台詞に困惑して、あーでもない、こーでもないと赤面して抗議する私を寿は、ぎゅうと強く抱き寄せる。
「なんで力強めるわけっ?!」
「いいじゃねえーか。減るもンでもねえし」
「……!なんじゃそりゃ」
もうこの腕を振り払うことはしなくてもいいと思えば、私も自然とその温かい腕の中に顔を埋めて微笑んだ。
これからも私が見つめる先に、寿の姿があって欲しい。いくつ歳をとっても、また同じだけ笑い合えるように。
——あのね。
ただ、はっきり言えるのは……ずっと寿の事が好きだったってこと。ただ、それだけだよ。
唇に 指 を這わせた、あの日の答え
(あのあと名前に抱き着いたら蹴飛ばされたぜ)
(え?違うよ!寿が先に出てったんだってば!)
(いーや、股間に蹴り入れられた)
(てか!あの状況で何考えてんの!?)
(あのまま、あそこで襲う計画が……)
(最低か!!0歳から出直してこい!!)
(やり直してもどうせ名前のこと好きになるぜ?)
(ぐぬ……天然タラシめ)
※『 恋文/Every Little Thing 』を題材に