二月の最終日。神奈川はあいにくの雨だった。そのおかげで寒気によって気温は下がり、翌日の朝、歩く人たちは防寒具の襟に顔を埋め吐く息を白くしていた。
 しかし……さすがに今日≠ニいう日だけはとお天道様が味方をしてくれたのか、朝方の気温はさておき、空は快晴。雲ひとつない青空だった。

 卒業式——。いつも汗を流して走り回った体育館。浮かない顔も、晴れやかな顔も入り混じる、まだ暖房のきかない湘北高校の体育館を今日は、紅白の布が、艶やかな色に変えていた。
 そして湘北高校の卒業式が窓の外に青色の空を映したまま静かに始まった。体育館は、在校生、来賓者、そして卒業生の保護者で埋まる。体育館の前方ステージの前にはこれから入場する俺たち卒業生を待つようにしてパイプ椅子が綺麗に距離を取って並べられていた。
 何度見渡しても彼女の姿を見つけることは出来なかった。最後に何か……伝えなければいけないことがあった気がするのに。

 体育館の端に並ぶ吹奏楽部が、楽器を構える。指揮者のタクトが挙げられると我が校の教頭が、「卒業生、入場」と、マイクを使って、固い声で言う。それを待ってゆっくりとした曲調の入場曲の演奏が流れた。
 胸に赤や白のリボンで出来た花をつけて、三年一組の生徒から順に入場を始める。見れば在校生の一年生と二年生の間にある通路を、いつもより胸を張って歩く生徒が多いような気がした。
 三組の俺が在校生の間を通ると顔の知れた野郎達の誰かしらの声が「ミッチー!」と呼びかけてくる。いつもなら「やめろ」とすかさず突っ込みを入れる俺も、今日は思わず顔が綻んでしまう。
 六組の赤木と木暮が通ったときも同様に「ゴリー!」やら「メガネくーん!」やらと黄色いとは言いがたい声援が飛び交う。チラと赤木を見やれば、赤木はいかにも「バカばっかりだ」と言いたげな顔をして逆に木暮は楽しそうに笑っていた。
 三年生全員が椅子につくと式が進行する。開式の言葉、何かしらの挨拶、そして卒業証書授与。三年一組の出席番号が一番最初の生徒。会場中の視線を総なめするその大役に、呑気にも損だな、なんて思ってしまう。そして次からは担任が名前だけを読み上げていく。一組が終わり二組。二組が終わり俺のクラス、三組へ。同じクラスの連中の名を聞き捨てている刹那、担任教師が「三井、寿」と、半分より後ろの出席番号だった俺の名を読み上げた。

「はい」

 立ち上がった俺はいつもの気だるげな少し猫背の姿勢ではなく、緊張気味に背筋を張っていた。少しすましたその顔に、背後から聞こえる微かな笑い声はきっとバスケ部のメンバーや野郎軍団の笑い声なのだろう。形だけの卒業証書を受け取った俺はそのすました顔のまま、また自分の席へと戻った。
 三年六組。赤木はいつもどおり模範生徒らしい顔つき。木暮もいつもどおりの柔和な顔で、同じように卒業証書を受け取り席に戻る。きっともう流川なんかは、この辺りから寝ていただろうな。
 校長の長い式辞、来賓祝辞、祝電など、あまり在校生にも卒業生らにも興味の薄い内容が続く中自分たちの晴れ舞台、形式ばった式には必要なものだとわかっていても、つまらないものはつまらないのだ。あくびを堪える卒業生も多いが寝ないだけましだろうなと思う。

 式が在校生の送辞に移る。送辞を読むのは新しい生徒会長になった二年生だった。真面目な雰囲気のその生徒は見た目どおり真面目な送辞をしっかりと読み上げた。とりあえずの拍手が体育館にぱちぱちと響く。
 次は三年生、卒業生からの答辞だ。インターハイにも出場したし、赤木あたりがやってくれないかな、と卒業生やバスケ部員あたりは思っていたことだろう。悪く言えば堅物、よく言えば、礼儀正しい奴。赤木の教師連中からの信頼もそこそこ厚いらしいし、まあ、ありえなくもねえ。


 ―


 在校生の席、二年一組の列。少し後ろには彩ちゃん。そしてその隣は空席のままだった。そう、名前ちゃんの席だけが、ぽかんと空いているのだ。きっと、卒業生の中にいるあの人も序盤で気付いたんじゃないだろうかな、とは思うけど。

「答辞」

 俺の隣にはヤスが座っていて、教頭がマイクを通して目次を読み上げたあと、一息置く。


「——卒業生代表、三井 寿。」


 その名前が読み上げられると俺含む、在校生の席がざわついた。想像もできなかった名前を呼ばれて仰天したからだ。名前を呼ばれた三井サンは先ほどと同じように「はい」と真面目ぶった返事をして、自分の椅子から立ち上がる。
 同じ名前の別人かと一瞬疑いもしたが誰がどう見てもやはり登壇したのはついこの間まで一緒にプレイをしていた三井寿、本人だった。
 三井サンは登壇して一礼したあと、自分の背に合わせてマイクを上げる。送辞を読んだ二年生の生徒に比べると三井サンの上背は、十センチ以上高いだろう。
 スイッチを入れたマイクに、三井サンは小さく咳払いをして、答辞の書かれているであろう白い紙を広げた。


「答辞。」


 三井サンの聞き慣れた低い声がマイクを通して静かな体育館の後ろまで響いてこだまする。

「いつもの道をいつも通りに登校する。そのありがたみを私たちは苦しいほどよく知っています。花の香りに鳥の声に、春を感じるようになりました。今年の桜も、いよいよ咲こうとしています」

 いつもの三井サンの声なはずなのに一度も使ったことのないような『私』だなんて言葉に思わず俺含む、バスケ部員たちは笑ってしまった。姿勢正しく座る生徒の中で、肩が小刻みに揺れる輩が数名いるもんだから、すぐにバスケ部員ってわかったってのもあったけれど。

「わたしは本来であれば、答辞を任されるような優秀な生徒ではありません」

 いつも一緒に、下品な声で笑い合っていた三井サンとは程遠い。一体三井サンが何を話すのか。三井サンをよく知る人間たちはわくわくしながらけれど違う人間のような三井サンによそよそしさを感じつつもその少し硬い表情のすまし顔を見つめていた。

「部活を引退してすぐのころ、担任の先生が私にこう言いました。『卒業式の答辞をやらないか。お前は人より少し、感謝を述べたい人間が多いんじゃないか』と。今日ここに私が立っているのは担任の先生のお陰です」

 目の前で声を出しているのは後輩にすぐ蹴りを入れる三井サンでも、すぐバテて文句を言いだす三井サンでもなかった。

「三年前、私は期待と共にずっと憧れだった湘北高校の正門をくぐりました。初めて見た知らない名前たち。教室で、放課後で、部活で。なんども呼んだいまでは一生忘れない名前になりました。そんな順調だった私の学校生活は、ぷつんといきなり中断しました」

 三井サンはいったん深く息を吐いてからすうっと吸った。

「中学時代、部活に打ち込んでいた私は県の大会でMVPを頂いたこともありました。当時の私にとって、バスケットは、人生のすべてでした」

 三井サンのその言葉に一部の人間は、ひゅ、と息を吸った。三井サンはバスケ部に復帰したあとでも過去のことはあまり話さなかった。
 三井サンがバスケにどれだけ執着して熱を持っているのかはあの襲撃事件とその後の三井サンを知る部員なら周知の事実ではあったけれど。三井サンの口から「バスケットが人生のすべてだ」と語られることなんかなかったから。

「バスケットボールのために息をして飯を食い、心臓を動かしていました。大袈裟でも何でもなくバスケットボールのために、生きていました」

 俺はふと、インターハイ初戦での山王戦を思い出す。強敵、山王工業のエース、沢北に対して『十七年間、バスケのことだけ考えて生きてきたんだろうな』と、試合中に思ったこと。同時に、一緒にコートで戦っていたルーキー流川に対しても同じようなことを思うシーンがあり三井サンにもきっとそんな未来があったんだよなと思った。

「それはもちろんこの湘北高校に入学してからも変わらず、私は迷わずバスケ部に入部しました。周りにはこれから手を取り合って頼りになる部員だってたくさんいました。けれど私は自分がこのチームを引っ張っていかないと。そう誰に頼まれたわけでもない無駄な使命を一人で背負っていたのです」

 赤木はそんな俺の言葉に少し苦虫を嚙み潰したような顔をしたし、木暮は眉を少しだけひそめていた。当時、一番近くにいたのは自分たちだったからだろう。

「入学当時、すでに180近くあった身長の伸びが止まらず毎日変わる体のバランスにシュートフォームが崩れ、私は四苦八苦していました。当時の私は中学の部活引退時から高校入学まで500本以上のシュート練習や基礎練習を毎日行っていました」

「ええ、」と思わず驚愕の声を漏らす在校生たちの声が体育館に小さく響く。三井サンの自主練の練習量がどれほどかは、本人しか知らない。それでも、バスケ部員たちにとっては、シュートを500本こなす三井サンなど今となれば容易に想像がつくだろう。

「待ちに待った入部初日、成長期で不安定でもあった私の膝は激痛と共に突然壊れました。病名はバスケットに最も多い怪我と言われる、膝前十字靭帯損傷でした。先も見えない部活の仲間とも会えない私の恐怖と戦う日々がはじまったのです」

 少し低くなった三井サンの声がマイクを通して静かな体育館に響く。

「それからの私は、とてもお話できるようなものではなく、たくさんの人を傷つけ、困らせ、目も当てられないような人間でした」 

 自分の失敗を人に話すのは誰だって嫌なものであり、触れられたくない、古傷のようなものだ。どうしてこの男は、それを人前にさらけ出せるのだろうかと思ったとき、不意に体育館で「バスケがしたいです」と、泣き崩れた三井サンの姿を、俺は思い出した。
 自分の過去こそ人に言えるほど立派なものではない。ましてや卒業式の日に全校生徒の前で言えるような神経はさすがの俺でも持ち合わせてはいない。単純に「やっぱ、すげえな」って思った。

「自暴自棄の二年間、とにかく、たくさんの人に迷惑をかけて生きてきました。消えた部活動、消えた自主練、消えた試合。私にとっての青春とはバスケットボールそのものだったのです」

 きっと、沢北や流川のようにバスケのことだけを考えて生きてきた三井サンもいたんだろうな。そんなことを思ったのは彼にとって高校生活最後のバスケット、ウインターカップでの試合終了後コートに深々と頭をさげていた、三井サンの姿を見てだ。

「それでも落ちぶれたとき側で支えてくれた仲間には本当に感謝しています。私の過去には触れず笑い合ってくれたことは忘れません。だからこそかつての日常が、どれだけ幸せで貴重な事だったのかを私は知ることが出来ました」

 そのとき、たぶん堀田あたりのズズッと鼻をすする音が響いて一年の野郎達、桜木軍団の連中が「汚ったねえ」と小声で言った事で少し緊張していた場の空気が和む。

「そして、きっかけを経て私はまたバスケに戻ることができました。本当に、たくさんの人の手を借り、なんとか今、バスケができています」

 三井サンは手元の紙を長い指でめくり、ふう、と、小さく息を吐いた。

「最初にバスケ部に戻る事を話したのは、両親でした。髪を切りに行き今度こそ諦めない、どうかまたバスケをやらせてくれ、と頭を下げました。父は無言で私の手首をつかみそのまま外に連れて行かれました。父の力は強く手首に跡が残るほどで、このまま殴られてついに家を追い出されるのだと思いました」

 体育館に、またいくつか笑い声が響いた。三井サンもそれにつられたのか、少し目を細めたあと先を続けた。

「父は私の手首をつかんだまま話しかけても返事をしません。しばらくして私の手首を離した父はこう言いました。寿、お前はそれでいいんだな、と。そのときの父の声は、少し震えていました」

 一度、まっすぐに前を見る三井サンは、きっと保護者席の両親を見ていたのかもしれない。

「母は部活に復帰してから毎日、父より大きな弁当を作って持たせてくれました。ずっと欲しかったバスケットシューズ。雑誌のページに丸を付けていたのを見たのか帰宅すると新品の私の欲しかったバスケットシューズがテーブルに置かれていました。今でもしっかりと履いています。ボロボロになるまで大学でも練習に励み愛用させていただくつもりです」

 俺は三井サンに愛用のバッシュを蹴飛ばされた屋上でのことを、ふと思い出して苦笑する。

「部活を終えて帰宅してから膝が痛みかかりつけの病院に無理をいって連れて行ってもらった事も一度や二度ではありませんでした」

 三井サン、もし怪我がなければ。一度目の怪我で復帰できていたなら……。

「申し訳なさから、ずっと車の外を見ている私がごめん、と謝っても、返事はいつも同じでした」

 もしそうだったら三井サンにもきっと、違った未来があったんじゃないかな……。

「楽しそうにバスケをしている姿を見れて嬉しいから平気だ、と。二人にはこの先一生感謝してもしきれません。沢山、ありがとうございました。そして、これからもよろしくお願いします」

 また紙をめくった三井サンが一息着いてから、先の言葉を続ける。その間は、今までの中で一番長いような気がした。

「——安西先生。先生がいなければ、私はバスケットを続けることは、なかったでしょう」

 俺は思わず、安西先生の座っている席を見る。安西先生も真っ直ぐに三井サンを見つめていた。

「自暴自棄になっていた私は、バスケがなければ命すら投げ出していたかもしれません。大げさでもなんでもなく、先生は、命の恩人です」

 そのまま俺は視線を三井サンから一年の在校生に向けてみる。花道含む軍団がクラスも違うくせに同じ空間に座っていて水戸は椅子に右足を乗せ気怠く左腕を椅子の背に投げて、三井サンを見ている。

「先生の期待に応えられず自分を責める日もありました。自宅に何度も訪れてくれた三年生の先生方に合わせる顔がなく家に帰らなくなった時期もありました。けれどまた再びバスケができたのは先生の言葉があったからです」

 目を瞑るとあの日の体育館での出来事が蘇ってきそうだ。血祭と三井サンの苦しみ、涙。そして決意と覚悟が——。

「『諦めたら、そこで試合終了だよ』その言葉を私は一生背負って生きていくでしょう。先生、私にバスケットを教えてくださって、バスケットをできる場所を作ってくださって、バスケットを続けさせてくださって、本当にありがとうございました。私は、洗脳されたのが、安西先生で幸せでした」

 三井サンが安西先生を見やると先生は三井サンに向かって、律儀にも小さく頭を下げていた。

「バスケ部、三年。赤木と木暮。二人は、チームメイトであり、迷惑もかけましたが戦友です」

 俺の座るこの位置からでも、木暮さんの背筋がビクンとしたのが見えた。

「私にとってこの二人は例えるならば夜の海から見る灯台でした。お前の道はこっちだろ。なにをしている、さっさと戻れ。そういつだって教えてくれた二人でした」

 ダンナは相変わらずといったように姿勢正しく凛と正面を向いているように見える。

「道を外した私にはまぶしすぎて、まっすぐ見れないときもありました。けれどずっとそこにいてくれた。居続けてくれた。私が前を向けたのは、そこに道を示す、二人がいたからです」

「——ありがとう」と、三井サンが少し柔らかい声で言ったとき、木暮さんは猫背になって眼鏡をはずしていた。目じりから落ちた涙が眼鏡に垂れてしまったからだろう。ダンナはやっぱり、泣きはしていなかったけれど頭を少し下げていたから奥歯を少し噛んでたとか、そんな感じかな。

「バスケ部、二年、一年。問題を起こした私を、受け入れてくれて、一緒に練習し、プレイをしてくれた、かけがえの無い仲間です」

 その言葉につい俺も予想だにせずビクンと肩を揺らしてしまった。それは隣に座っていたヤスも同じだったらしく、思わず俺とヤスは目を見合わせた。

「本当にここにいていいのだろうかと迷うことが何度もありました。けれどそんなことにくよくよする暇もなく私の背中をしっかりと、その沢山の手で支えてくれました」

 待って……マジか。俺ダメかも。うっわ、泣きそう、なんだけど。くそ、目の上のタンコブめ。

「よそ見なんてする暇あると思うなよと言いたげなぐらいしっかりと。もう道に迷うことすら許さないぞと言うように、力強く——」

 落涙しそうになって、体育館の高い天井を仰ぎ見たとき隣でヤスのグスグスと鼻を啜る音が聞こえて脱力して、ついに自分も涙が零れてしまい、へへっと、鼻で笑った。

「私はなんど怒りを、涙を堪えたことでしょう。でも、いつだって私を救ってくれるのは二年間の空白に遮られても消えることのなかった、最高の仲間たちの、その笑顔でした」


 ——三井サン……。


「こんな自分を先輩と呼んでくれてありがとう。パスを、たくさん出してくれてありがとう——。お前らなら大丈夫。一人じゃなくて誰かに頼り、支え合い、パスを出しながら私を支えてくれたようにこれから先も誰かを支えてやってください。本当に楽しかった。ありがとう」

 ぐひ、と独特な嗚咽をこぼしたのは一年の石井だったと聞いたのはもう少し先の話。桜木は鼻をすすったくせして真っ赤な顔で泣いていないフリをするし流川は、ただまっすぐに答辞を読み上げている俺を見据えていた。
 宮城は前を向いたまま瞬きに合わせて落ちる涙をやっぱり桜木同様に、知らないふりをしたし、その隣に座る安田は学生服の袖で目元をごしごしと擦っている。
 
「バスケ部の部員じゃないのに毎日応援にやってきた物好きな者達もいました。彼らもまた私がバスケ部に戻るきっかけをくれた大切な仲間です」

 俺はヤスの先を見越してチラと再度、一年生のほうを見やると三井サンをじっと見ていた水戸らが少し驚いたように目を見開かせていた。

「そしてお前の道はそっちだろ、とバスケットの道に戻してくれました。少し乱暴な方法をとったことは今、この場を借りて葬ることにしますが、とても救われました」

 体育館がまた、クスクスと小さな笑いに包まれる。俺もヤスも思わず笑ってしまった。

「試合が苦しいときの『イケイケ湘北』と大きな声での声援は、何度も力をくれました。ありがとう。これからも湘北バスケ部のことを、その持ち前の明るさで応援してあげてください」

 俺がふと目の前の答辞の用紙から、一年の席のほうに顔を上げると、水戸は小さく笑って、同じように笑った大楠らと顔を見合わせて、肩をすくめている。

「手作りの応援団旗まで作って来た奴らもいました。野太い声での声援、少し笑ってしまってそれで肩の力が抜ける事もありましたが、嬉しかったです。いつもありがとう。一緒に卒業できてよかった。これからも私のこと、よろしく頼みます」

「おうよ」と三人、離れた席からでも号泣しながら、奴らの中の誰かがそう返事をして、俺も少し笑ってしまった。徳男にいたっては俺が登壇した時点で、もう泣き始めていたので返事をする事は叶わなかったけどな。

「私が得意とするスリーポイントシュートは、約七メートル離れた場所からゴールにむかって打つシュートです。試合での成功率の平均は、日本のプロバスケット選手でも、四割を切ると言われています。高校生ともなれば、二割から三割程度でしょう」

「なに!」と、声を上げたのは花道の声だろう。けれどその陰に隠れて同じく驚いた生徒は何人もいた。今まで湘北高校のバスケ部の試合に出場した三井サンを見たことがあるならば、うめきたくもなる。
 インターハイ予選の翔陽戦、海南戦はもちろんだがインターハイ、山王戦での三井サンのスリーポイントの成功率は、どう考えても三割などでは収まらなかったから。
 調子の差が大きい三井サンは、もちろん外したシュートも多々あるが、そもそも湘北のバスケ部メンバーは三井サンが練習時にスリーポイントを外している姿をあまり想像できない。それほど、三井サンのシュートは凄かったんだなと、俺含むバスケ部員はじんわりと噛みしめたことだろう。悔しいけどね。

「けれど私は、スリーポイントシュートは決して難しいとは思いません。入るまで打てばちゃんと入るからです」

 三井サンが言ったことは当たり前のことすぎるけどきっとほとんどの生徒には理解ができない。バスケ部員にとってはある意味、嫌味かと思った生徒もいただろうけど。

「外れたら誰かがそれを拾ってくれる。シュートを打てるように誰かが……仲間が必ずパスを回してくれる。俺のスリーポイントシュートは、入るまで打つから、入るんです」

 三井サンはマイクから少し顔を上げて体育館の奥の方まで視線を送る。そしてまたマイクに近づくように少し背をかがめた。

「今日一緒に卒業する卒業生の皆さんも在校生の皆さんも、そして私自身も。これからたくさんの壁や問題にぶち当たることでしょう」

 三井サンの声は初めの緊張はすでに無くなっていて冷静で、それでいて自分に言い聞かせているようでもあった。

「そんなときは思い出してみてください。怪我をして勝手に絶望して、人に散々迷惑をかけてそれでも再び大好きなバスケをしている馬鹿な卒業生がいたなあ、と」

 保護者含む、体育館にいる者たちが笑う。……なんだよ、つかみバッチリじゃねーか。元不良もどきのくせして。こンの、マイルドヤンキーが。

「疲れたら休んでください。前に出る勇気がなければ、足を止めてください。しゃがみ込んでもいい。そして、周りを見てみてください。あなたに道を示す誰か。支えてくれる誰か。隣にいてくれる誰かが、必ずいると思います」

 言ったあと、ふ、と俺は表情を緩めた。体育館には小さいけれどすすり泣く声がいくつか聞こえてくる。その正体はもしかすると新マネージャーや、俺たちより声のでけえ、あの一個下のマネージャーあたりかもしれない。
 そして、その一個下のマネージャーの席の横。空白のままのその席をじっと見据えて俺は視線をまた答辞の用紙に戻す。

「私の人生は、無駄にした二年間を悔やみ続け、そして、怪我に怯え続ける人生になるでしょう。けれどそれは人生を悲観しているからではありません。私が夢を諦めない、それだけです。諦めたら、そこで試合は終了です。もしかしたら諦めてそこでやめても何も変わらないかもしれない」

 俺が彩ちゃんの席のほうを見たとき泣いている彩ちゃんと不意に目が合った。俺が思っている事をさとしたかのように彩ちゃんは「戻って来ないわ」と言いたげに、首を横に振った。

「けれど諦めなければ、ほんの少しだけかもしれないけれど、何か変わるはずだと、私は信じています」

 俺は彩ちゃんが首を横に振ったのを確認して、ハアと溜め息を小さく吐いて首を正面に戻した。そのとき、こちらを見た三井サンと一瞬だけ目が合った気がした。

「大人のみなさんが思うような青春じゃなかったかもしれません。でも私は——私たちは、失ってばかりではありません。代わりに得た大切なものだって、たくさんありました」

 三井サンは読んでいた用紙から顔を上げ正面をしっかりと見据えて、最後の言葉を締めくくる。

「誓います。この時代を逞しく乗り越え、遠く、遥か遠く羽ばたいていくことを。以上で、答辞とさせていただきます」

 三井サンは、手にしていた白い紙をたたむ。

「卒業生代表、湘北高校——」

 そこまで言って三井サンが、急に黙り込んだ。そして、少し胸を張ってマイクへと向き直った。

「湘北高校、バスケットボール部、三井寿。」

 マイクのスイッチを切り一歩下がった三井サンが深く頭を下げる。しばらくして頭を上げ、自分の席へとゆっくりとした足取りで戻る体勢を取った。拍手が鳴り響く体育館の中で、隣同士の俺とヤスは同時に涙の筋がいくつもある顔を見合わせる。一瞬で同じ気持ちなのをお互いが悟りそしてやはり同時に勢いよく一緒に立ち上がった。勢いが良すぎて、ガタン!と椅子が鳴る。
 周りを見回せば今思いついたことなのに、同じことを思ったのかバスケ部の二年、花道や流川も含めた一年、バスケ部全員きちんと立っている。思わず「いいチームプレイじゃねえの」と心の中でつぶやいて、俺は満足した。
 むろん、急に立ち上がったバスケ部員たちに、周りの生徒たちは何事かとざわつく。俺はいつもうるさい部員全員に通るように体育館に張り上げる声を今はただ一人のために響かせるため大きく肺一杯に、息を吸い込んだ。


「三井サン!今までありがとうございました!」


 俺の声に続くようにして「ありがとうございました!」と、バスケ部員全員が声を響かせ、頭を勢い良く下げる。三井サンは降りようとしていた壇上で一瞬立ち止まり呆気にとられた顔をした。


「あいつら……」

 一度シン、となった体育館に再び湧く拍手の中顔を上げたバスケ部員を見た俺は目頭が熱くなりそれを誤魔化すように、窓の外に視線を向けた。
 零れ落ちそうになる涙をこらえながらそこから覗く空の青に俺は目を細めた。そしてその日差しのような、晴れやかな気分になったのだった。





 —


「 寿 」

 体育館でバスケ部に激励されたあと、謝恩会のバスがバスケ部員を置いて出てしまったらしく、俺は謝恩会に別で向かう同級生らと外で残された時間を過ごしていた。
 そのとき少し、風が吹いた。薄紅の雪が舞っている中、その春めいた匂いに混じって、優し気な香りが鼻をつく。

 だから……そこに、いる気がしたんだ——。
 ふと辺りを見渡して振り返った先、少し離れた距離に立っている、今もなお愛おしい、その彼女の姿。

「名前……」

 なんだよ……ちゃんと、居たんじゃねえか……
 俺は「ちょっとわりぃ」と、そばにいた友人に申し訳ないと言うように手を小さくあげて彼女の元へと歩いて行った。

「卒業——おめでとうございます」
「あ、……おぅ」

 向き合ったのも見つめ合ったのも本当に久しぶりで。いまこうして自然と笑い合っているのも、何だか不思議な感覚だった。俺は——ちゃんと、うまく笑えていただろうか。

「ボタン、全部もってかれた?」
「え?……あぁ、」

「今回はほぼ男子がな」なんて、不満そうに言う俺に「ファンクラブ潰れたんじゃない?」と彼女が言ったとき。その言葉で、不意に思い出した、屋上で言い合った、あの日の出来事を。


『寿が、告白されたって聞いて……それで』
『……なんだよ、そんなことかよ』
『そんなことって……、なに?』
『俺の気持ち、何も伝わってねーんだな……俺、名前しか見てねーじゃねーかよ!』
『わかんないじゃん、そんなの……』
『わかれよっ!』
『わかんない!!』



 必死になって、その小さい体で俺に不安を——想いを丈をぶつけてくる彼女の姿が鮮明に蘇ってきて、思わずフッと顔が綻んでしまう。

「お前が存続し続けろよ」

 俺が見下ろし加減で言えば彼女はその大きな瞳を一瞬だけ見開かせた。まだ、ぎこち無さが残る二人の距離感に、俺たちは視線を上手く合わせる事が出来なかった。

「名前」
「……ん?」
「合格したぜ、大学」

 彼女には、自分の口から伝えたかったのだ。
 言った後さっきまで俺と視線を合わせもしなかった彼女がじっと俺を見据えて微笑むと柔らかい口調で言った。

「そうなの?オメデト」

 そのとき、彼女の頭上には桜が舞っていて……いつか見た光景と重なる。あれは、俺の中学校の卒業式だったな。

「おう、」
「また……バスケットが出来るね」
「……ああ」

 彼女には桜と笑顔が本当によく似合う。そんなことを不意に考えていたら「三井ー!」と名前を呼ばれ、振り向く俺の背中に向かって、聞こえた気がしたんだ。 ありがとう =c…って。
 俺が勢いよく振り向けば柔らかい表情で「ホラ呼んでるよ?お友達」と促されてしまい「あ、ああ……」とぎこちなく返す俺に「私もう帰るからじゃあね」と言い置いて学校に背を向けて彼女が歩き出した。


「名前!」


 俺の声が届いたのか正門を出る間際にゆっくりと足を止めて立ち止まった彼女に俺は、目一杯の笑顔で「ありがとな!」と卒業証書の入った筒を高く掲げて言った。ひとつ綺麗な微笑みを残して彼女はそのまま、湘北高校を出て行った。
 しばらく俺はその場に立ち尽くしていた。彼女の姿が見えなくなるまで——。
「三井!」と友人に名前を呼ばれなければ、俺はあのとき、彼女に何を伝えていただろうか。

 人生の分かれ道——。それを人は分岐点≠ニ呼ぶ。いま、俺と彼女は確実にその分岐点≠ノ立っているに違いないと彼女の居なくなった母校湘北高校の正門を見つめながら思った。

 答辞の原稿を書いていたときふと調べた、桜の花言葉。
 高校生活最後の日に、その桜のような凛とした姿を見せて去って行った、かつての恋人——幼馴染の姿を目に焼き付けて俺はもう一度、心の中でありがとう、名前。≠ニ、つぶやいた。










 の花言葉は、優美な女性。



(三井サン。 )
(宮城…… )
(色々あったけどアンタが居てくれて良かったよ)
(気持ちわりーな、何だよ急に……)
(……さて、ここで)
(あ?)
(俺からのプレゼントです——。)

※『 キヲク/Every Little Thing 』を題材に。

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