母校、武石中学校。中学時代は川沿いに咲いていたサクラ並木を見ながら二人で一緒に歩いた。あの頃は幼いながらにもただずっと、そばにいたくて。もっともっともっと、近づきたくて——。
 それでも彼が武石中を去ると同時に私も彼との思い出の地から立ち去った。

 高校生になって二年生の初夏、私はその大切にしていた大好きだった彼と同じ高校に転入した。幼なじみ≠フレッテルを見事取り払ってくれた私の初恋の相手にして最愛の人、三井寿。その彼との関係を断ち切ったのは私だった。クリスマスイブの日、思い出の詰まったあの海で、私は寿に別れを告げた。
 たった数ヶ月の間にも色んなことがあったけど時間の流れと愛の狭間に落ちた私は今でもずっとあなたを失ったままでいる。

 今日は、その最愛の人の晴れ舞台、神奈川県立湘北高等学校、卒業式だ——。





 —


 一足先に在校生が体育館に椅子を持っていく。暗黙で決められている、出席番号順に並ぶというルールも今日は皆スルーでリョータくんなんかは当たり前に安田くんと、隣合わせで椅子を並べていた。
 それを見てか彩子に「一緒に並んで座りましょ」と言われて、微笑み返したが、申し訳ない。私は今日、卒業式には出席しないつもりなので。

 椅子を置いたあと散り散りに教室に戻る在校生の中、見慣れた集団を発見した。目が合った瞬間その中のひとりが、私と彩子の元へと歩み寄ってくる。

「よっ!アネゴ、名前さん」
「あら、水戸洋平じゃない」

「どーもっ」と、ポケットに手を突っ込んで屈む仕草の水戸くんに私は笑みを浮かべる。そのまま三人並んで、体育館を出た。

「いよいよ卒業式って感じだなー」
「そうね。あっ!」
「ん、どうした?アネゴ」
「卒業式が終わったら体育館でバスケ部が集まって、三年生を激励するからアンタ達も来なさい」

 彩子の言葉に私を挟んで並ぶように歩いていた水戸くんが一瞬だけ目を見開かせる。彩子の続く「アンタ達もバスケ部みたいなもんだからねー」と言う言葉に水戸くんは優し気に表情を緩ませて「アイツらにも言っとくよ」と、言った。

 教室に戻ってしばらくしてから在校生が体育館に来るようにとの校内放送が流れる。「ごめん、トイレ」と言い置いて私は彩子とリョータくんを先に行かせた。……よし、うまく騙せたな。
 一応、振りだけでもと思い、トイレに行って、戻って向かった先は体育館ではなく、自身の二年一組の教室。先生たちも皆、体育館に向かった為二年生の校舎はシンとしていた。窓を全開に開け放ち、心地よい春の風を浴びていた刹那、上階がガタガタと騒がしくなる。卒業生、三年生の生徒たちが体育館に移動しはじめたのだろう。
 数十分後、微かに風に乗って聞こえて来ていた足音も止み卒業生が全員体育館へと入り席に着いたことを読んだ私は、ゆっくりとその足を上階に向けた。

 誰ひとりとして居ない、静まり返った三年生の校舎。三年三組の教室を覗けば、黒板に在校生が書いたであろう『卒業おめでとう』のチョークの文字とともに美術部員が手掛けたであろう綺麗な桜の木の絵。
 ふと、元彼——寿の机に視線を向けて私はその席へと、ゆっくりとした足取りで向かう。
 ……綺麗な机。半年足らずしか使用しなかったのであろうから当たり前だけど。傷もなく落書きもない。その机をサッと掌で撫でたとき、不意に胸がつまって涙が溢れてきそうになる。ダメだなぁ……最近、涙もろくて。

 しばらくそのまま三年三組の教室の窓からグラウンドを眺めたあと今度は階段を降りて一年生の教室の廊下を歩いてみる。一番体育館に近かったからか、静かな校舎内に体育館でのマイクの音が微かに聞こえて来る。
 今はちょうど、在校生が送辞を呼んでいる真っ最中のようだ。どんどん足を、体育館に近づけていけばマイクの音が鮮明にここまで届いて来た。
 生徒の靴棚が並ぶ生徒入り口の正面に腰を掛けて、晴れ渡る春の空を見上げたとき……体育館の入り口が開け放たれているのかシンとなっている体育館のほうから「答辞」と言う教頭先生のマイクの声が聞こえた。不意に、目を閉じた刹那——


「——卒業生代表、三井 寿。」


 思わず私は閉じた目を大きく見開く。「はい」と言う聞き慣れた真っ直ぐなその声が、ここまでしっかりと届いた。反射的に、首を後ろへと振り返らせてしまった。トクン、トクン……と静かな空間に、自分の心臓の音が鳴り響いている錯覚に陥る。

「答辞。いつもの道を、いつも通りに登校する。そのありがたみを私たちは苦しいほどよく知っています」

 マイクを通して、大好きな彼の声が脳裏にまで響き渡る。

「花の香りに鳥の声に春を感じるようになりました。今年の桜もいよいよ咲こうとしています」

 私は生徒入り口の先、校舎脇に立っている桜の木に視線を向けた。

「三年前、私は期待と共にずっと憧れだった湘北高校の正門をくぐりました」

 その場で寿の答辞を聞いていた。終盤あたりで重い腰をあげると寿の答辞を読み上げている声を背負いながら、その足を屋上へと向けた。
 湘北高校の屋上。色んなことがあったこの場所は、私にとっていまでは、聖地みたいなものだ。

 私は誰もいないこの空間に大の字になって真っ青な空を見つめていた。体育館の方からは卒業生の校歌斉唱が聞こえてくる。はじめてちゃんと、母校の校歌を聞いたな、なんて思えば笑いそうになってしまうけど。ひとつの雲が流れるのを目の端で追った私はふとその瞼をゆっくりと閉じた。
 校歌を歌い終えるとややあってから聴き慣れたピアノのメロディーが流れて来た。卒業生の合唱だ。心地よいその演奏に、なぜか条件反射でまた涙がじわっと溢れて来る。


 ♪白い光りの中に 山なみは萌えて
 遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ

 限りなく青い空に 心ふるわせ
 自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず♪


「……勇気を翼にこめてぇ〜、希望の風にのり」

 思わず、自然と口ずさんでしまうほどの定番の卒業ソング、旅立ちの日に=c…。

「このひろい大空に〜……夢をたくしてぇ〜」

 あの大柄な体で卒業証書片手に歌っている姿を想像してついふはっと乾いた笑いが出てしまう。
 泣いてはいないんだろうな、きっと。にやにやしながら歌ってるんだろうなあ。いや——答辞をやってのけたくらいだし、安西先生もいるだろうから、ボタンを全部しめたくらいにして、真面目腐って歌っているかもしれない。そんな姿を想像するだけで恋しくて、また目を閉じればあの頃の二人の思い出が走馬灯のように蘇って来る……。


 ♪懐かしい友の声 ふとよみがえる
 意味もないいさかいに 泣いたあのとき

 心かよったうれしさに 抱き合った日よ
 みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて♪


 歌詞に乗せて思い出すのはインターハイの広島山王戦。お父さんに無理を言って許可をもらった私は晴子ちゃんたちと一緒の新幹線に乗り込んで応援に駆け付けた。スポーツ観戦であんなに涙したのは、生まれて初めてだった。
 胸が詰まって、見ているだけで涙が止まることなく流れ続けたのは、きっとこれから先、生きていく人生の中でもあれが最初で最後なのだろう。

 寿から離れてはじめて自分を知った。
 もっともっと、あなたを夢に近づけたくて……ずっと、ずっと、ずっと——笑顔でいてほしかったから。
 私の選んだ選択肢を周りから否定の言葉に押しつぶされても、はい上がって今日まで自分と戦い続けてきた。卒業式なんて、休んでやろうって、絶対出ないつもりでいたけれど……ちゃんと来たよ。ちゃんと来たから……体育館に行けずにいるこんな弱っちい未熟な私のこと、今日だけは許して欲しいって思う。
 でも、しっかりと聞いたからね。寿の、答辞。高校生活の苦楽すべてを詰め込んだ立派な三年間の想いを綴った答辞だった。さすがだな、って。やっぱり三井寿≠セなって、思ったよ。

 苦しくて目を閉じればあの頃の私がいる……。母を失ったときの私と、あなたに「さよなら」を言った中学二年生の私。
 そして、寿に別れを告げた、あの日の弱い私。現実から逃げた、そんな自分が、ずっと私の中を今でもなお、支配し続けている。


 ♪いま 別れのとき
 飛び立とう 未来信じて
 弾む若い力信じて

 このひろい
 このひろい 大空に♪


 今日は泣かないと決めていたんだ。昨日の夜、眠れず散々泣き腫らしたこの瞼。今朝、リョータくんからのビッグニュースのおかげでその決意は一瞬で打ちひしがれたけれど。
 でも、よかったね大学に受かって。またバスケットと共に歩める未来みちが出来て——。





 —


 卒業生の合唱を屋上で聴いたあと私は寝不足もあって少しばかり眠りに落ちていた。
 しばらくすると体育館の方から、人の往来する音が聞こえてきて私は目を覚ます。どうやら滞りなく式は終了したみたいだ。屋上の真下、在校生や卒業生の楽し気な声がここまで聞こえて来る。そのときガチャと屋上の古い扉の開く音がした。思わず体を起こした私の目にはいつも通りビシッとリーゼントを決め込んだ一年生——水戸くんの姿が映る。

「不良娘」
「水戸くんには絶対言われたくないね」

 水戸くんはそんな私の返しに「ハッハッハ」と高らかに笑いながら扉を閉めた。壁に背を預けて当たり前にポケットからセブンスターのタバコを取り出した水戸くんに噴き出してしまう。

「なーんか、疲れたサラリーマンみたい」
「え?」

 座ったまま水戸くんに背を向けて言う私の言葉に水戸くんがきょとんとしているような声を漏らす。私はくるっと座ったままで姿勢を水戸くんのほうに向けた。煙草姿、似合うなぁ。モデルさんみたいだなぁ不良漫画の。とは言わないでおこうと思う。
 水戸くんは慣れたようにフーっと空に向かって煙を吐くと私の方に一度、視線を寄越す。そしてすぐにまた自分の足元に視線を落として言った。

「……体育館で、バスケ部集まるってよ?」
「ふーん」
「行かない感じね」
「うん」

 水戸くんはやっぱり締めには「ハハハ」と情けなく笑ってみせる。
 水戸くんはそれ以上、何も言わなかった。だから私も、何も言葉は発しなかった。けれど煙草を吸い終わって扉を開ける直前に一度こちらを振り返って、ひと言だけ言い残した。

「意地ばっか張ってっと、幸せ逃げちまうぞ」

 って。過去にも同じ言葉を投げられた事を思い返しながら苦笑する私。その言葉を言い置いて、屋上をあとにした水戸くんの残像を私はしばらくのあいだ眺めていた。
 数分後、また扉に背を向けて体育座りしていた私の耳にガチャ——と屋上の扉の開く音が聞こえて来る。振り返った視線の先には初めて二人きりになったであろう、堀田先輩の姿があった。

「……」
「……」

 屋上のアルミの扉のドアノブを持ったまま固まる彼と、じっと彼を見据える私。躊躇いながらも来た階段に戻ろうとする彼に私は思わず「あ、あの——!」と、声を掛けた。
 届いた私の声にゆっくりと振り向いたその表情は仮にも番長≠ニ呼ばれた彼には似つかわしくない、なんだか情けない顔をしていた。

「気にしないで、ゆっくりしてってください?」

 その私の言葉に気まずそうにもこちらに歩いてくる堀田先輩にくすっと笑ってしまった私に一瞬目を見開いて見て「ハハ」と、彼もひとつ笑う。そうして彼は、私と少し距離をあけて隣にどかんと胡坐をかいて座った。

「——卒業、おめでとうございます。」

 気まずすぎる沈黙を破るように言った私を勢いよく見た堀田先輩に少し、ひいっと身を引いたけれど、めげずにその目を見返す。

「あ、お……、おう、ありがとう」
「……。」

 ——いい人なのだ、もうそれはちゃんと知っている。だって寿の親友だもんね。悪い人なわけがない。

「やっぱ——」

 刹那、堀田先輩が、ドスの効いた声で口を開いた。これは威嚇しているのではなく彼の地声だということも、今ではちゃんと知っている。

「来てたんだな……」
「はい?」

 私がその呟きに堀田先輩を見やれば前を向いたまま、彼は少しはにかんだ感じで言葉を続けた。

「三っちゃんが……たぶん今日——来てねえって言ってたもんでな……」
「あ……、ああ……」

「はい、来てました……」と尻すぼみして小声で言ったけど、この静寂の中ではしっかりと聞こえてしまっていたであろう。
 またも流れる沈黙の中、今度は切なげにも心苦しそうな声で彼が言う。

「三っちゃんのこと……」
「……」
「本当に、嫌いになったのか——?」

 こちらにゆっくりと視線を向けた堀田先輩は、本当に悲しそうな苦渋した表情で私に問う。一世一代の告白をするとでも言いたげなその顔に思わず笑いを零してしまった私を、彼は不思議そうに怪訝な顔で見やる。

「いいえ?」
「……」
「愛してますよ、世界で一番。」

 そう言い切って私は体育座りをしながら微かに体を左右にゆらゆらと揺らして見せる。

「私の使命はちゃんと果たされましたので」
「……使命?」
「はい。寿——大学、受かったから」
「………。ハア、そういうことか」

 私はいっひっひと歯を出して笑って、そのまま青く澄み渡っている空を見上げた。そうして、「——でも、」と口を開き、私はゆっくりと堀田先輩のほうに顔を向ける。

「誰にも、内緒ですよっ?」

 私の親友のそれを真似て、人差し指を鼻につけながらウインクして見せればぽっと頬を赤らめた彼になんで照れた?と言いそうになる口を噤む。

「……よかった——」

 はあぁーと、やっぱり一世一代の告白かなんかをし終わったみたいに溜め息をついて言った堀田先輩と、なぜか顔を見合わせて笑った。
 堀田先輩が「下に、三っちゃんいると思うぜ」と最後に言い置いて屋上を出て行ったあと、私は豪快にも仰向けになって、しばらくまた空を仰いでいた。





 —


「お前泣いてんのか。ウケるな」
「先輩って、ほんっとデリカシーないですよね」

 両手で、抱えねばならないほどの大きな花束を彩ちゃんから受け取った三井サンは軽口を叩いていたその口から「似合わねぇし」とぼそっと呟いた。きっと、自分自身に言ったのだろう。自分にしかわからない風に独り言をもらしていたつもりだろうが、普通に丸聞こえだった。

 卒業式が終わると卒業生も含めて体育館に集合したバスケ部員は三人しかいない卒業生に花束とみっちりとメッセージを書いた色紙を贈った。
 ダンナ、木暮さん、三井サンの順で、彩ちゃんからの花束と、新キャプテンの俺から手渡された色紙と、部員全員からの激励に、木暮さんはまた少し目を潤ませていたし、ダンナも始終穏やかな顔つきだった。
 思いもよらぬ三井サンの感動の答辞のせいで、在校生の生徒は、ほぼ充血した目や鼻の頭を赤くしていた。が、本人はへらへら笑ったかと思えば急に黙りこくったりと別れを惜しむような様子ではなかった。情緒、大丈夫そ?って感じ。

「お兄ちゃん、謝恩会のバスが出るって!」

 体育館の入り口から晴子ちゃんが顔を出した。「ああ」とダンナが返事をして、いよいよお別れというときダンナ、木暮さんに続いて背を向けた三井サンの腕を花道が掴んだ。

「ミッチー。卒業すんなよ!」

 振り返った三井サンは「ああ?」と眉間に皺を寄せて花道を睨む。

「お前、俺がどんだけ苦労して大学の合格通知もらったと……」
「知らねえ!俺はまだミッチーとバスケしてえぞなんで卒業するんだ。まだいろって。一緒にバスケやろーぜ」

 花道もそれが叶うものではないとわかっているだろうけど。それよりも感情が勝ったんだろうなあ。三井サンが大学に合格して大学でもバスケを続けられるのは俺ら後輩にとっても喜ばしことだった。そのために、ウインターカップまで残った彼の努力を見てきたのだから、確かにその花道の台詞は、酷だったかもしれない。
 俺が「花道わがまま言うなよ」と、フォローを入れたとき、三井サンが「馬鹿じゃねえの…」と小さく吐き捨てるように呟いた。せっかくの晴れの日に、機嫌を損ねさせてしまったかと皆が思わず身構えるが、三井サンは花道の学生服の生地をぐしゃりと握りしめる。

「ばっかじゃねえの!」

 大声を出す三井サンの両目から、ぼろぼろと、さっき後輩の俺たちが流した涙より、まだ大きい粒の涙がこぼれていて、全員がぎょっとした。

「俺だってなァ、卒業なんかしたくねえんだよ!俺だってまだ、てめえらとバスケしてえんだよ!この先お前らとやるバスケより楽しいバスケなんかねえよ!ふざけんなよ、なんでお前ら、二年と一年なんだよ?!一緒に卒業して大学でも一緒にバスケやればいいだろーが!赤木も木暮もさっさと違う大学行っちまうしよ!ふざけんなよっ!」

「馬鹿じゃねえの、ふざけんなよ!」と、矢継ぎ早にまるきり駄々をこねる子供と同じ口調で三井サンは目の前の後輩たちに、つたない文句を言い続けていた。それを並んで見ていた、桜木軍団のひとり、大楠が高い声を出す。

「殴り込みに来たときより泣いてらあ!」

 その言葉に並んでいた他の軍団衆が、いつもの如く「ガハハハー!」と揶揄うように笑う。その間も三井サンの高校三年生の男が見せる泣き方ではない涙に次第に俺や花道、ヤスたちは笑った。あんなにすました顔で散々泣かせるようなことを堂々と檀上で読み上げておいて本心は俺ら後輩と同じだったみたいだ。
 しかもダンナや木暮さんが、これから謝恩会に出る三井サンを泣き止まそうと慰めるが、そんなこと構うもんかとでもいう勢いで三井サンの涙が止まらない。そもそもこの男に恥や外聞はあまりないのだろう。あまりに必死になるものがあると誰しも人は、そうなのかもしれないけど。
 しかしここまで号泣されると俺やヤス、花道もつられて涙が滲んでくるが、どうしても先行して笑いが浮かんできてしまう。
 そんなとき彩ちゃんが水戸と何かを話しているのが目の端に見えた。水戸から耳打ちされた彩ちゃんが、そばにいた晴子ちゃんになにやら断りを入れて体育館をそっと出て行ったのを見て、俺は心の中で呟いた。ははーん、ようやく見つかったのね?この号泣男の、一番感謝を述べたい人が。ってね。


「三井サン」
「ああ?!」
「木暮さんもダンナも困ってますよ」
「るせえ!てめえらのせいだろうが!」
「ミッチー、子供じゃねえんだからよお」
「うっせえ!うっせ!!」

「ばーかばーか!」と三井サンは手当たり次第に最後の握手を求めて伸びてくる、後輩の学生服の黒い袖にすがりついていた。
「誰が行くもんか!」と握りしめたその手が三井サンらしくて俺は鼻をすすりながら、眉を歪めて笑っちまった。

 謝恩会の会場に向かうバスは結局、三井サンが遅れを取ったせいでバスケ部三人を置いて、出てしまったらしい。ダンナが呆れ果てた顔をして、木暮さんが「まあまあ」とそれをなだめる。その光景はやっぱり、卒業しても変わらないんだろうな、と思わせた。
 きっと三井サンは卒業してもこうやって部活に顔を出しながら俺や花道や流川をからかっていくのだろう。膝の怪我と付き合いながら、バスケを続けていくのだろう。それがアンタが高校時代に愛した彼女≠フ犠牲があってのことだっつーのも知らずにね。

 これからも「諦めたらそこで試合終了だろ」と誰かを励ますのかもしれない。たまにはこうやって泣きながら文句を言って駄々をこねるかもしれない。
 とにかく、アンタはアンタらしくあってくれ。と、せっかくもらった花束を体育館の床に置いたまま、後輩からハンカチや、タオルやらを借りて顔を拭く三井サンを見て思う。
 三井サンにハンカチを貸して、ぐしょぐしょになって返ってきたそれを受け取ったヤスが笑っている。ヤスが大きくも、小さくもない声で言った台詞は見慣れた体育館の床に転がり、三井サンを囲む部員の学生服に吸い込まれる。
 三井サンには届かなかったかもしれない。けどヤスの隣にいた俺には聞こえたぜ。

「三井先輩……絶対に、バスケットやめないでくださいね」


 なんて、俺と中学から同級生の仲間の声が——

 俺はヤスの隣ですでに少し泣いていたが、またくしゃりと眉間に皺を寄せた。
 ……てか、べえべえ泣いてねえでさァ。さっさとアンタのもうひとつの青春≠ノ最後の感謝の答辞、述べてきやがれっちゅーの……。





 —


 カチャとゆっくりと屋上の扉の開く音がした。「アンタねぇ〜、」と言う聞き慣れたその声に、目を瞑ったままフッと笑いが漏れてしまう。屋上で彼女と二人きりになるのも、実は初めてだ。

「今朝からずっとここに居たの?」

「探したわよ」と呆れ口調の彼女がこちらに歩いてくる音がする。見なくても分かるきっと両手を腰にあてているんだろうなって。
 ふと視界が暗くなったと思ったら、頭上に現る彩子の美人顔。

「卒業式くらい、ちゃんと出なさい」

「この不良娘!」と言葉とは裏腹に彼女は綺麗に笑っている。「みんな下で三年生と写真撮ってるわよ?」と言った彼女を一瞥もせず私はまたゆっくりと目を瞑った。

「名前」
「……なに?」

 私の声は、さぞかし不機嫌に聞こえただろう。そんな私に彩子は大きな溜め息を吐いた。

「卒業式くらいちゃんと見送ってあげなさい」

「最後なのよ?」と言われたとき、私はゆっくりと目を開けた。

「………そうだね」

 愛する人の晴れ舞台の日に、大親友に散々説教された私はようやく重い腰を上げしぶしぶと屋上をあとにしたのだった。





 —


「 寿。 」

 久しぶりに呼んだ初恋の彼の名前。そのたった三文字を発するまで、ずいぶんと時間がかかってしまったけれど。
 みんなと笑い合う彼を、楽しそうに騒ぐ笑顔の彼を、ふと辺りを見渡し、何かを探している寿の一連の心情の流れを、今この場所からずっと見ていた。
 私を探してたらいいのにな、なんて。そんな、身勝手なことを願ってしまう私は、やっぱりどうしようもなく、いまでも寿が大好きだよ——。


「名前……」

 振り返った先に、私がいたことに驚いた様子の寿。「ちょっとわりぃ」とそばにいた友達に申し訳なさそうに小さく手をあげて、こちらへと歩いて来る。
 胸ポケットに刺された赤いコサージュ。辺りを見渡せば卒業生みんなが、それぞれの色を纏っていた。やっぱり寿は赤色を選んだんだなぁと思わず嬉しくなって、笑みがこぼれてしまう。

「卒業おめでとうございます」
「あ、……おぅ」

 向き合ったのも見つめ合ったのも本当に久しぶりで。いまこうして、自然と笑い合っているのもなんだか不思議な感覚だった。私は——ちゃんと上手に笑えていただろうか。

「ボタン、全部もってかれた?」
「え?……あぁ、」

「今回はほぼ男子がな」なんて不満そうに言う寿に「ファンクラブ潰れたんじゃない?」と、私が嫌味っぽく言えば、「お前が存続し続けろよ」と寿が偉そうにも対抗してくる。よかった、いつも通りのわたしたちだ。
 それでもまだ、ぎこち無さが残る二人の距離感に、私たちは視線を上手く合わせる事が出来なかった。

「名前」
「……ん?」
「合格したぜ」

「大学」と誇らしげに言う彼の頭上には桜が舞っていて、いつか見た光景と重なった。
 ——うん、ちゃんと……知ってるよ。

「そうなの?オメデト」
「おう、」

 私はその寿の自信満々の表情を見てふとさっき寿が読み上げた答辞を思い返す。
『バスケットボールのために、生きていました』
『バスケットは、人生のすべてでした。』
 そんな寿が、ずっと好きだった。小さい頃からずっと——。

「また……バスケットが出来るね」
「ああ」

 寿には桜とバスケットが、本当によく似合う。そんなことを考えていたら「三井ー!」と名前を呼ばれ振り向く彼の背中に向けて ありがとう ≠ニ、心の中で伝えた。


「……ホラ、呼んでるよ。お友達」

 と促すと「あ、ああ…」とぎこちなく返す寿に「私もう帰るから、じゃあね」と学校を背にして私は足を踏み出した。
 寿のいなくなったこの道を、もう寿とは一緒に並んで歩くことはない。この通い慣れた湘北高校の校庭を——私はこれから先もひとりでちゃんと歩いて行くからね。


「名前!」


 寿の最後の学生服姿を目に焼き付けて振り返った先、正門を出る手前でその大きな声に、名前を呼ばれた。
 寿に名前を呼ばれると自分の名前が特別なものになる気がしていた。寿に名前を呼ばれるのが、本当に好きだった。
 私は歩む足を止めて、ゆっくりと振り向く。


「ありがとな!」


 寿が卒業証書の入った筒を高く掲げて、大好きなその笑顔を添えて私にそう、言った。
 ——泣かない、絶対に。私は声にならず、いまできる精一杯の笑みを返し、彼に背を向けまた、歩き出した。










 君が 幸福 を、教えてくれたから。



( ありがとう、寿——。)


※『 愛のカケラ/Every Little Thing 』を題材に
※ Lyric by『 サクラ色/アンジェラ・アキ 』

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