さよならまで、あと何秒?

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  • 木暮

    久しぶり。元気か?
    来週末、湘北祭に赤木と行くんだけど三井も一緒に行かないか



     バスケ部の練習終了後、大学のチームメイトらとラーメンを食った帰り道に高校時代の同級生、木暮から、そんな内容のメッセージが届いた。

    三井 寿

    久しぶり。元気だ。
    そうだな、俺も行



     そこまで文章を打ちかけてピタッと手が止まった。脳裏に彼女≠フ面影が、過ぎったからだ。
     今日まで一日たりとも忘れた事なんてなかったけれど……俺なんかにアイツは会いたいと思っているのか——そんなことを考えるたび、急に臆病になってしまうのだ。俺は深く溜め息を吐いた。それでもいい、それでもいいと思える恋だった。戻れないと知っていても、繋がっていたかった。別れてからは学校でもたまにしかすれ違うことはなくなって、周りから鈍感だと称される俺でも、彼女があえて俺と距離を取っていることを認めざるを得ない状況に置かれて。
     それでも俺の中では忘れられない相手だ。叶いもしない俺のちっぽけな願い。アイツがまた俺を好きになる——そんな儚い願い。それでも俺は、いつも彼女に会いたかった。

     俺は入力した文章を消して再度打ち直すとそれを見返すこともせずに早々に送信マークをタップし、携帯をポケットへと乱暴に仕舞い込んだ。

    三井 寿

    久しぶり元気だよ。週末は練習があって行けそうにない、悪い







     —


     ——湘北祭、当日。いつも通り大学でバスケの練習を終えてロッカールームで着替えていたとき突拍子も無くチームメイトが「三井、今日母校の学祭なんだって?」と、訊いて来た。

    「……あ?なんで知ってんだよ」
    「先輩が言ってたぞ?え、行かないの?」

     そんな、俺とチームメイトの会話を聞いていたらしい他の連中も「そうなの!?」や「せっかくだしみんなで行こうぜー!」などと、興味津々に話に割って入って来る。

    「はあ?めんどくせえ、行かねーよ」

     俺は心底からめんどくさいというオーラを醸し出してそう吐き捨て、ガン!と自分のロッカーの扉を閉めた。さっさとロッカールームを出ていく俺の後を追ってきた連中たちの「なんでだよー、三井と一緒に山王工業を倒したメンバーたち紹介してよ!」と背後から投げ掛けられたその言葉に俺はハッとする。そうだこいつらに悪気はない。あいつ≠フ存在だって今のチームメイトは知らないわけだし、せっかく誘ってくれているのを、私情を挟んでいるとはいえ無遠慮に断るのも感じが悪いだろうなと思い直したからだ。

    「……まあ。じゃあ少し、顔出してみっか?」

     歩みを緩めて俺がそうぽつりと零すと、すぐに背後で「やったー!」と盛り上がっている友人達の声が背中を優しく撫でて俺は思わず苦笑した。

     湘北に向かうまでのあいだに宮城や桜木、流川なんかの話で盛り上がり、徐々に母校へ近づくにつれて、人足も増えてきたように感じる。今年も相変わらず大賑わいのようだな母校の学校祭は、と、思えば少し誇らしくもある。
     見慣れた正門を潜って一番最初に目が合ったのは、俺たちの卒業式に送辞を読み上げてくれた現三年生の生徒会長だった。すぐに、俺と気付いたのか遠目からでもぺこりと頭を下げられて反射的に俺含む、全員で軽く頭を下げ返す。
     風船なんだかビニールボールなんだかよく分からないが、正門の先『湘北高校学校祭』と看板の立ったアーチを潜ったとき、ああ、俺はもうこの学校の生徒ではないんだなと改めて実感し、少しだけ寂しい気持ちになった。

     チームメイトがいちいち全部の屋台を覗くもんだからなかなかお目当ての目的地にまで辿り着くことが出来ない。俺と違って社交的なチームメイトらは現役女子高生、ちまたではJKなんて呼ぶらしいがそんなJK相手に鼻の下を伸ばしている始末。
     いつもは体力造りに余念がないこいつらも今日だけはその余念とやらを取っ払ったのか、珍しく甘い物……綿あめなんて買ってはしゃぐその姿を見て、俺も自然と頬が綻んでしまう。そしてその綿あめの屋台でチームメイトの相手をする法被を着た一人の女子生徒が少し離れた位置に突っ立ってチームメイトを待っていた俺の存在に気付き、ぱたぱたと駆け寄って来る。

    「三井先輩ですよね?!」
    「あ?……あ、ああ。おう」

     そんな挙動不審みたいな挨拶しか返せない自分に情けなくなりながらも彼女に視線を落とすと、よく見れば元カノ——幼馴染と仲の良かった生徒だったことを知る。ということは目の前の彼女ももう三年生か、なんて年寄りくさくも思い耽る。
     今度はチラとその手元を見れば薬指にシンプルな指輪がはめられていて「ませガキ」と言いそうになった口を噤んだ。

    「名前、バスケ部の屋台にいますよ?」
    「………は?」

     躊躇いも迷いもせずに飄々と言ってのける彼女に、素っ頓狂な返事を返してしまった。ポカンと口を開けたまま固まっている俺をよそに彼女は、「大丈夫です!あの子、いま彼氏いないんで!」とか「あ、でもモテるんですよー?だけど大丈夫ですから!」と勝手に自己解決させられて当たり前に返す言葉が見つからない。それは……なんの忠告なんだよ。なんでアイツの友人はみなこうも素直で明るく、そして無遠慮なのか。彩子しかりあのクソ生意気な、宮城の野郎しかり……。

    「……あっそ。情報どーも」
    「いえ!あっ、じゃあ私は屋台に戻りますね!」

     ぺこっ、と頭を下げて屋台の方に戻って行った彼女と入れ替わるようにしてチームメイトたちが俺のところへと歩いて来た。その手には、ピンクやら水色やらと体に悪そうな色をした砂糖菓子の袋が持たれている。「三井も食べる?」と、歩きながら言われたが「いらね」と言うように、手を軽く翳して断った。
     そのとき、軽音部の演奏がバラードに切り替わったのを聞いてチームメイトらが「おお」なんて歓声をあげる。なんだそれ、と突っ込む代わりに俺は小さくため息を吐いた。
     しかし、一年前と同じ伴奏に思わず心臓がぎゅっと鷲掴みされたように苦しくなって息を呑むが努めて周りにバレないように平然を装う。背後では「俺も高校ん頃、ギターかじった」とか「軽音部ってかっこいいよな」とか、そんな会話が繰り広げられている。
     歩きながら懐かしい校舎を眺めてみたり、やっぱり学祭なんて関係ねえ、みたいな感じで元気にグラウンドで鬼ごっこなんかをしてる男子生徒を目の端で追って、正面を向き直ったとき。母校の風景なんかよりも見慣れた——脳裏に焼き付いて離れない仲間たちの姿が目に映った。昔から視力だけはいいと豪語している俺の視線の先、そんな憎たらしくも愛らしい後輩たちの中に、一番会いたくてたまらなかった相手、幼馴染の彼女の姿を発見した。今でもこうして変わらずに思い続けている俺の幼馴染は俺の宿敵、いや天敵——そんな後輩と一緒に踊っているんだか、躍らされているんだか、楽し気に笑っている彼女の笑顔に、胸が詰まる。
     俺がいなくても楽しそうでよかった。俺なんかがいなくたって、そうやって、笑っていてくれてよかった。俺なんかがいなくても、もう、大丈夫なんだもんな。なあ、名前、俺がいなくても……寂しくねえのかよ——。


    「——オイ。」

     俺のその声に今まで呑気に笑っていた後輩ら、宮城と彩子が、一緒になってこちらを振り返る。ぎょっとした顔。そんな言葉がまさにぴったりというふうな風貌で、俺を見て固まっている。

    「……なに騒いでんだ、おめーら」

     宮城と彩子がガタンと椅子から立ちあがって、「これは違うくて」とか「運命のカードの効果」とか、何やらしどろもどろになって、一生懸命に弁解をしてくる。だが、こいつらは忘れている。俺が、そういう態度を取られると、もっと機嫌を損ねるということを——。

    「運命のカードだぁ?」
    「あ!そうそう、魔法にかけられちまったんスよあの二人」
    「そうそう、言わば幻想です。ファンタジー!」

     俺は当たり前に納得しないような顔つきで片眉を吊り上げながら二人を見下ろす。その間もBGMにはこの状況に似つかわしくない軽音部の演奏するバラードが屋外スピーカーを通して鳴り響いている。
     俺は視線を、仲良く手を取り合って踊っていた水戸と彼女の方に向けた。いつもと変わらぬ表情で、俺を見てるんだか見てないんだか感情の掴めない雰囲気を纏っている水戸と、急に挙動不審になっている幼馴染の彼女。そのまま一度俺は舌を打ち鳴らしてから、二人の元に歩み寄って行く。二人の目の前に俺が立ったとき水戸が軽い口調で言った。

    「どーも、みっちー。久しぶり」
    「……返せ」

     心の中で言ったつもりが、怒りが先行して思わず、口をついて出てしまっていたことに自分でも驚きを隠せない。それでもそんな心情を悟られないように努めて無表情を作ることに意識を向ける。しかし、俺の声は目の前に立つ彼女にも聞こえていたのようで彼女は水戸をチラと見上げていた。逆に水戸は何のことかと言いたげに、きょとんとしている。その背後では宮城たちバスケ部員が「いま、返せって言った?」や「いや、貸せって言ったんじゃないすか」なんてこそこそと会議を始めているが、すべてここまで丸聞こえだ。
     水戸が宮城たちをチラ見して彼女の手を掴んだまま、フッとひとつ浅く笑う。俺はそんな水戸の態度にまた眉を顰めた。そして無理やりに水戸が握ったままでいた彼女の手をぐいっと引っ張る。
     水戸から俺へ、もはや強引に引き渡された彼女のその小さな手の温もりに懐かしさを感じながら今俺は、約一年ぶりに彼女と繋がっているという何とも表し難い感情に押し潰されそうになった。

     愛しいという感情が剥き出しにならないよう、気を引き締めて彼女を見下ろしている刹那、水戸が「タコ焼きあまってる?」なんて言って俺たちを置き去りに、桜木たちのほうへと歩いて行ってしまった。
     ようやく邪魔者が排除できて、このまま彼女の手を引き、抱きしめたい衝動に駆られたがここは冷静で大人な自分を演じるべく一度彼女から視線を解いた俺は、その矛先をグラウンドにぐりんと回してからまた目線を彼女へと戻し一呼吸置いてぼそりと呟いた。

    「……ったくよォ、仕方ねえな。踊ろーぜ」

     天邪鬼が全面に出ていますとでもいうような、そんな憎まれ口に目を見開かせた彼女は案の定、すぐにその大きな瞳を細めてから唇を尖らせて「なんで仕方ねーな、なんて言われて踊らないといけないわけ!?」と、プリプリを怒っていた。

    「あン?うっせ、踊れよ」
    「ヤダ。踊らない」

     手は繋がれたままで、言い合いをおっぱじめる俺たちの背後からは笑い声に混じって数名の溜め息が聞こえた気がした。それを見兼ねたのか水戸の「ハイハイ!さっさと踊る!」と叫んだ、呆れ口調のようなその声が背中に突き刺さり、それを待っていたかのように次いで野郎達からの野次も飛んできて、俺は高校時代に戻ったかのように、げんなりする。またひとつ、チッと舌打ちをした俺が余っていた手を、彼女の腰にそっと回した。そのおかげもあって彼女との距離がぐんと縮まった。懐かしい香りで目の前がいっぱいになって、匂いフェチかよ、ヘンタイだな、と自分で自分を笑いそうになるのを必死に抑え込む。
     俺に着いて来たチームメイトらも加わった野次と軽音部の演奏に合わせて奏でる新入生達の歌声古参衆の奴らの笑い声を背負いながら見様見真似でやってみたものの緊張しているのか何なのか、顔を真っ赤にした目の前の幼馴染は、ずっと俺の足を踏んでいるという、何とも彼女らしい展開。

    「……あのなあ、足!」
    「はい?」
    「ずっと踏んでんだよ!」
    「え、あ……ごめん」

     俺を見上げた彼女のそのタコみたいに真っ赤な顔を見て乱暴に吐いてしまった言葉とは裏腹に、自然と穏やかな表情を浮かべてしまう。俺が口の端を吊り上げて「バーカ」と囁けば、彼女は頬を赤らめながら綺麗に笑った。またもこのまま自分のほうへ抱き寄せてしまいたい衝動を俺は、なんとか必死に抑えることに成功する。
     実はここに到着するまでのあいだに流れていた曲は俺の家で彼女と一緒に観たDVDのひとつ、少女趣味な映画の中で流れていた曲だった。序盤でグーグーと寝てしまった俺。そのあと、彼女に何度も叩き起こされて、なんとか最後まで観賞し切った思い出の映画だ。さっき流れていた演奏を思い返しながら俺はよく幼馴染が口ずさんでいたあの歌詞と、目の前の相手を重ね合わせてみる。


     ♪あなたと二人で踊れば
     忘れてしまう 何もかも
     見つめ合う ただそれだけで
     胸がときめく

     時は流れ 夢は色あせ
     消えていった どこかへ
     今 あなたの腕の中で
     夢とまた出会えた

     抱きしめたい 愛をこめて♪



     彼女がゆっくりと俺を見上げる。言ってしまいそうになる。なんで連絡よこさねえんだよとか、元気にしてたのかとか、好きな奴はできたのかよとか……会いたかった、って——。
     けれど、そんなことを易々と言える勇気なんて持ち合わせてなくて、唇を固く結び直すと俺は、言い掛けた言葉を、ぜんぶ飲み込んだ。


     ♪あと少しで手が届くのに
     やっと本当の幸せに
     このまま いつまでも
     ずっと一緒にいたいのに

     あなたのいない世界なんて
     悲しすぎる

     もう あと少しで手が届くのに
     やっと本当の幸せに
     ふたりで見た 美しい夢

     どうか まだ覚めないで♪



     これ以上、この距離感はまずい——。と、俺は彼女の腰に回していた手をパッと放した。けれど繋がれていた手だけは、離したくなかったんだ。

    「なぁ……校内、案内しろよ」

     ——もうすこし、一緒にいたい。その気持ちを伝えるのにはそんなぶっきら棒で優しさの欠片もない言葉を投げ掛けるくらいしか出来ない今の俺にはそれ以外の最善の方法は思いつかなかった。

    「え、なんで私が……」

     そう言うだろうなとは思っていたけれど俺は「いいじゃねーか」と彼女とさらに距離を取ってその手を繋いだままで振り返ると宮城らに「ちょい、借りていいか?コイツ」と投げかけ、繋いでいた彼女の手を上にあげて見せた。どーぞどーぞと即返事をしたのは彩子だった。両手で促すように「さあ、行った行った」と言わんばかりにその手を高く挙げて上下に揺らしている。
     俺はそれを目の端で流して、スタスタと彼女の手を引き、生徒入り口のほうに向かった。


     —


     生徒入り口でスニーカーを脱ぎ去り靴下のまま校舎に入る。そのときですら握った手を離さないでいてくれた彼女に素直に嬉しいという感情だけが心の中に湧き上がって来る。
     しばらく各教室をチラ見しながら肩を並べて一緒に廊下を歩く。途中、世話になった先生たちと出会し軽く挨拶していたその時に繋いでいた手をスッと離されてしまった。話し終わった後も再度繋ぎ直すわけにもいかず、手持ち無沙汰になった両手を俺は、羽織っていた大学のバスケ部専用のジャケットに突っ込んだ。
     刹那「ほっといちゃっていいの?お友達」と、無言で歩いていた俺の顔を伺うようにして、心配そうな声で投げ掛けられた。

    「あ?ああ、どーせ仲良くやってんだろーしな」
    「ふうん、そっか……」
    「アイツらが来てーって言ったんだし勝手にうまいことやってんだろ」
    「……寿は、来る予定なかったの?」
    「え?あ、まあ……うん」

     そのまま彼女はなにも話しかけてこなかった。だよな、感じ悪かったよな、いま絶対、とひとり反省会をする。俺は来たくなかった。そう聞こえてしまったのだろうと察する。けれど弁解するのもなんか変だよな……と、考えあぐねる。まあ、練習があったってのは嘘じゃないんだけれども。
     そんなことを悶々と考えながら歩いていたら、自然と、屋上へ続く階段を登ってしまっていた。しかし突如さっきまで隣を歩いてくれていた彼女の足が、屋上の階段前でぴたりと止まる。不意に俺も足を止めて階段の途中で振り返り見下ろしたとき、彼女がなぜか得意げに言った。

    「もう、屋上はダメだよ?」
    「あ?なんで」
    「なんでって……だって」

     言ってゆっくりと止めていた足を階段に向けた彼女が、すぐに俺の隣に並んだ。そうして怪訝な顔をする俺をチラ見したあと、続く屋上の階段を見据えて「もう新しいカップルの溜まり場だよ?屋上」と、密やかな声音で言う。

    「新しいカップル?」
    「そう。もう古株≠ヘ入っちゃいけません」
    「古株だあ?よし、今の湘北を支えてるカップルでもおちょくりに行ってやっか」

     そう意気揚々と言って俺はそのまま屋上へ続く階段を一段越しで登っていく。その後ろからくすくすと笑いながらもゆっくりとした足取りで着いてきた彼女の上履きの音を聞きながらそんな音ですら心地よいと感じてしまうのは、そばに他でもない名前≠ニいう存在がいるからだと改めて再確認する。
     こうして俺は今でも恐いくらいに覚えている。匂いや仕草すべてを。おかしいって、そう言って笑う顔まで容易に想像できる。やっぱり好きだなと勝手に心の中で思ってしまうことくらい今だけは許して欲しいと思った。

     古いアルミ調のドアノブに手を掛けようとしたとき勢いよくバンッ!とその扉が開け放たれた。驚いている間もなく女子生徒が猛スピードで俺と彼女の間を割って階段を降りて行った。
     思わず二人して、その場に固まってしまったがややあって、ゆっくりと屋上の外を見やればそこには男子生徒がひとり、歯をギリギリと食いしばるようにして突っ立って、下を向いている。

    「戻ろうよ……」

     そう耳打ちされたが、俺はチラと彼女を見て「俺もうここの生徒じゃねーからな」と口の端を吊り上げ屋上に足を踏み入れれば背後から、はぁという溜め息が聞こえた。

    「——喧嘩したのか?」

     突っ立ったままでいる生徒を追い越し地べたにあぐらを掻いてから言った俺の言葉にその生徒がキュッ、と俺のほうに足を向けた気配を感じた。

    「……誰?」
    「あ!ごめんね!ここの卒業生なの!」

     明らかに不審者扱いしている生徒を見て彼女が慌てるように、パタパタと屋上に入って来た音が背後から聞こえる。「誰かと思ったら名字先輩じゃないスか」とか「あ!なんだ、屋上にいたの?みんな探してたよ?」とかいう会話を聞く限り、ふたりとも顔見知りのようだ。

    「すんません、サボるつもりなかったンすけど」
    「……ははーん。さては。また喧嘩したなぁ?」
    「喧嘩っつーか、アイツ、なんか勘違いしてて」

     不意にそんな会話が風に乗って遅れて俺の耳にも届いてきた。そこで俺はあぐらをかいたままで姿勢を二人のほうへと向ける。

    「なんだよ、もしかしてお前バスケ部なのか?」

     そんな俺の質問に先に顔を青ざめたのはなぜか彼女だった。こちらに目を見開かせている生徒の背後で彼女が「それ以上はダメ」というように、プルプルと首を横に振っている。それでも俺は、探ることを止める気はなかったので、鼻先で笑い「なんだ、ワケありかよ?」と、吐き捨てた。

    「……もう、バスケ部じゃねーっス」
    「ふうん?……怪我でもしたのか?」
    「……」
    「……まぁ、俺には関係ねーけどな」

     生徒はそんな俺の態度に明から様におもしろくなさそうな面持ちでプイッと俺から顔を背けた。「喧嘩したんなら男からちゃんと謝らねーとな」と両手を地面に付きながら秋晴れの空を仰ぎ見て言った俺に「……はっ?」と男子生徒が息を吐くように声を漏らす。

    「ちょ、待って!寿がそれ言える立場?!」

     急に背後にいた彼女が声を張ったのに驚いたのか、その男子生徒はぎょっとして彼女を見やる。「理想と現実は違うっつーの」「は?なにそれ」と応酬している俺たちを交互に見ていた生徒が、
    「ちょ、マジなんなんすか先輩、あの人」と無遠慮にも、俺を指差し不審者でも見る目でこちらを見る。それに対して俺は少し首を傾げて言った。

    「俺、そこの名字先輩と、付き合ってたんだぜ」
    「ちょ!!寿!?」
    「えっ!!!!!」
    「一年前にな」

     固まっている彼女をよそに男子生徒は「えっ、え……えっ!!?」と百面相みたいにコロコロと表情を変えて見せる。そんな彼は驚愕したまま、最後にはゆっくりと彼女の方を見た。

    「俺らもよくここで喧嘩してよぅ……」
    「ちょっと!ストップ!」

     痺れをきかせたらしい彼女がそう叫んで、ずかずかと俺の元まで歩み寄ってくると勢いよくしゃがみ込んだ。そうして「そこまで!」と俺の口を小さな手のひらで覆った。それをやんわりと避けた俺は先の言葉を続ける。

    「彼女が悪くても、勘違い起こしてたとしても、とりあえずお前から謝ってやれよ」
    「……だって」
    「だってもヘチマもねえ!謝ってキスでも抱擁でもすりゃあ落ち着くからよ、女は。たぶん」

     言ってケラケラと笑っている俺を目の前の彼女は呆れを通り越して、もはや軽蔑するような視線を、じとっと送って来る。

    「……わかりました」
    「ちょっと!納得しないで、こんな人の意見!」

     しっかりと乗り突っ込みをかます彼女に俺は、その場で腹を抱えて笑った。


     —


     あのあとすぐに、男子生徒は屋上を走って出て行った。きっと、彼女の後を追ったのだと思う。ああ、いいな青春って、なんて感慨深くなりつつ俺はフェンスを目の前にして地べたに足を伸ばし両手を後ろにつき、ただただ青い空を、じーっと眺めていた。真横では彼女が俺の携帯を手にして中の写真を楽し気に見ている。ほぼ、バスケ関連しかないので、そんなに楽しいものでもないだろうに。

    「似合うね、大学のユニホーム」
    「あったりめーよ、俺の為に作られたようなもんだぜ」
    「なにそれ、すごいね。あいかわらずの自信家」
    「バーカ。そうでも言ってなきゃやってらんねーつーの、練習きつ過ぎて」
    「ハハ、そっか」

     しばらく独り言みたいに「この人身長高いね」とか「仲いいんだね、チームメイトと」とか言いながら携帯の中の写真を見ていた彼女の声がピタッと止んだ。不思議に思って横目に見れば「まあ散々、遊び呆けてるみたいだけどね……」なんて唇を尖らせた彼女が持っていた携帯の画面を翳して見せてきた。
     そこには以前、大学の連中がおもしろがってネットで拾ってきた女子の写真を上手く合成させて俺とのツーショットみたいに作った一枚だった。やっべ、消すの忘れてた……と俺は顔を青ざめさせる。決して神に——いや幼馴染に誓って恋人のいない侘しさをこんな形でしか埋められないわけじゃないと声を大にして言いたい。勝手に作られたんだ、勝手に。頼んだ訳でもない、いやこれ、まじで、勝手に!とにかく弁解を——!

    「あ……!違え!それはっ」

     言って携帯を取りかえそうと後ろについていた手をバッ、と勢いよく彼女の前に持って行けば、サッと携帯を高く掲げられて回収に失敗。
     ——けど、そのとき悪戯心で、ふと思ってしまった。こっちの苦労も知らずに因縁の相手、水戸なんかと呑気にダンスをしていたコイツに、少しくらい仕返しをしてやりたいって。そう思うのは極めて、当然の流れといえるんじゃないかって。
     俺もコイツも恋愛経験が互いしかいない、残念高校生(俺は元高校生だけど)だからな……先を越されたと、ひどく焦燥感に駆られるはずだ。
     そして、その先は俺が今この瞬間に思いついた作り話を展開し彼女に焦りを覚えさせていく手筈でいくのはどうだ。んで、プンスカ怒って屋上を出て行こうとする彼女を待って最後にネタバラシという流れ——完璧だ、どんな顔すっかな……。

     俺は満足げに吐息を一つこぼす。これから先の彼女の反応を想像してほくそ笑む俺を不服そうに眺めている彼女。そんな妄想を頭の中で繰り広げていたとき気付くと左手に人肌の感触を覚えた。俺は眉を寄せて、彼女を改めて見やる。

    「……つか、なんで俺の手、握ってんだよ」
    「別に……握っちゃだめ?」
    「ダメ、じゃねぇけど……なんつーか」
    「はっきり言ってくんなきゃわかんない」
    「あ、えっと……照れくせぇので、やめてくださいと、言いますか」
    「さっきは水戸くんから奪ったくせに」
    「なっ……?!」
    「本当に、それが理由なわけ?」

     いつになく彼女の機嫌が悪い気がする。それよりも、こいつの手ってこんな柔らかかったっけ。さっき下では緊張してて手の感触なんて考えてる暇もなかった。もう今では、ただの幼馴染という関係性でしかないと言い聞かせていたとはいえ、さすがの俺も段々と変な気持ちになってくる。

    「と、とにかく離そーぜ、その手……」
    「やだ」
    「な、なんでだよ!」
    「さっきみんなの前であんなんしといて今更私と手を繋いでたらダメな理由なんかあるの?」
    「ね……ねーけど」
    「……嘘つき」

     彼女は微かに歯ぎしりをするとあさっての方を向いて吐き捨てるように、そう呟いた。
     一年前にもこの同じ場所で、そんな台詞を吐かれたなってことを不意に思い出してしまって笑いそうになるのを必死に抑える。
     それにしても、だ。こいつは一体、俺になにを言わせてぇんだ……生憎、俺は彼女に嘘を吐いた覚えは何もない。と、そこで彼女のもう一つの手が地面に置かれたままの俺の携帯に重ねられていることに気付く。しかも画面を覆い隠すように。
     ——そうか。さっきの写真を見たからこいつの様子がおかしいのか。俺の新しい彼女だと思ってんのか、なるほどな。

    「——あ、ああ。そうだ、俺よ」
    「……ん」
    「彼女できてな。だからなんつーか、こうやって手を繋がれるのは、少し問題がよ……」

     ついさっき自分からみんなの前でこの手を奪っておいて、と思いながらもとりあえずネタバラシはまだ先だろうと、俺は、微かに口角を上げる。しかしそんなことを企んでいる俺をよそに彼女は「……初めからそう言えばいいじゃん。下手に隠そうとしなくていいよ」と独り言のように漏らすと名残惜しくもその手を俺から、そっと手を離した。俺は呆気に取られてポカンとしてしまう。

    「彼女いるのにさ、他の子に手を握られても断らないなんて、チャラすぎ」
    「……」
    「彼女さん悲しむよ?まさか女の子泣かせるのが趣味なわけ?ほんと……信じらんない」
    「……」

     な、なんだ。この罪悪感は。しかもなんか……今すごく、傷ついたぞ。
     俺に彼女ができたドッキリを仕掛けて抜け駆けされたと焦燥感を覚えさせるつもりだった、ついさっきまでは。ただ、どうにも明るい感じで進められる雰囲気ではなさそうだと静かに焦りが襲ってくる。

    「いつできたの?」
    「……い、一週間くらい前、だったっけな?」
    「その日って、試合だったでしょ?」
    「え」
    「さっき自分で言ってた」
    「あ、まあ。ああ、試合だった、気ィすっけど」
    「じゃあ、その後に会ったりしたんだ?」
    「お、おお」

     ……なんだこれ、尋問か?彼女の俺を見る目が怖すぎる。俺を目で殺す勢いと言っても過言じゃない。しかし彼女は途端にカラッとした声色で「よかったじゃん」と言った。俺は安定で、あ?と聞き返す。

    「ずっと彼女ほしいって言ってたんでしょ?」
    「……いや、」
    「リョータくんから前に聞いた」
    「あ、ああ……まぁな」

     なんか、すっげえまずい空気になってねえか。と、俺は嫌な汗をかく。せっかく久しぶりに会えたのに。もっと話したいこととかいっぱいあったはずなんだけどな。あーあ、何やってんだ、俺。

    「じゃあこれからは私、寿の部屋に行かない方がいいよね?」
    「は?!てかいや……別れてから来たこと一度もねーじゃねぇかよ」
    「だっていないじゃん、行ったって」
    「まあ、いねえけど。今は一人暮らしだからな」
    「だって彼女できたんでしょ?仮に他の女の子が寿の実家に出入りしてたら、彼女さんいい気持ちしないじゃん」
    「それは、そうかもだけどよ……」

     彼女は腰を上げると、屋上の扉の方に向かっていく。そうして「気になってる人がいるなら……ダンスなんて誘ってほしくなかった」とこちらにには一切、目を向けないまま寂しそうにぼやく。途端に、噴水のように俺の中で悔恨の念が一気に芽生えた。

    「ま、待てって、名前!」

     と、思わず声を張れば、彼女がドアノブに手をかけたままで動きを止めたので彼女の元に急いで駆け寄った。

    「さ、さっきの写真な?大学の奴が合成して作ったやつなんだって」
    「……」
    「だ、だから!なんつーか俺、彼女とかできてねーし!」
    「…………はっ?」

     緊張しきった屋上の空気が弛緩していく。彼女の呆けた声だけが、小さくこだましていた。


     —


     ——数分後。俺たちはまたフェンスの前に今度は向かいあって座っていた。「ば、ばっかじゃないの?!」と俺の弁明を聞き終えたあと、彼女はヒクヒクと頬を歪ませながら、心底呆れたように罵倒してくる。

    「……悪い。ただ少しくらい仕返ししてやりてーなって」
    「仕返し?」
    「なんか、すっげー楽しそうに学生ライフ送ってんなーって……」
    「待って」
    「あ?」
    「仕返しとか、大学生にもなってやること?」

     大きな目を見開かせて正論を述べて来る彼女に俺は一瞬ぐっと押し黙る。それでもこちらにも、言い分はあるわけで、とりあえず、拙い言葉でも彼女に必死に伝えようと矢継ぎ早に言った。

    「うっ。でもよ、こっちがバスケ漬けなってる時に呑気に他の野郎とダンスなんか踊ってっから」
    「……」
    「ちょっと練習もガチでハードすぎて、フラストレーション溜まってたんだよ」

     俺が、はぁと溜め息をついてうな垂れるように頭を下げて後頭部をガシガシと掻くと、ぽつり、「仕返しするにしたって、こんなやり方しないでほしかった」と彼女が言った。そしてその落とした声のトーンと同じように俯く。

    「わ、悪かったって。俺に彼女ができたら先越されたって焦るかと思ってよ」
    「焦らないよ、ちゃんと応援するよ……?」
    「応援すんのかよ……嫌だって騒げっつーの」
    「なんでよ!」
    「ンなこと、いちいち聞くんじゃねーよ!」

     ああ……声を荒げてしまった。いつもこうだ。結局、俺たちは素直になれないまま、別れたとて顔を合わせると、こうして喧嘩してばっかりなんだな、と何も成長できていない自分自身と彼女にイライラが募っていく。それでも一枚上手だったのは、やっぱり彼女の方だった。

    「わざわざ……ドッキリしなきゃわかんない?」
    「あ?どーいう意味だ?」
    「……ううん、なんでもない」
    「……とにかく悪かった。もう二度としねえよ」
    「他の子にやっちゃダメだよ、こんなこと」

     そう呟いて、スカートについた埃を払うようにして彼女は立ち上がった。ごもっとも——返す言葉もない。それでも俺が「どこ行くんだよ」と問えば「もう戻る……じゃーね」と変わらず機嫌を崩したまま彼女は踵を返してしまう。
     ドクドクと心臓の鼓動が早まっていく。このまま彼女を戻らせていいのか——いいわけがねえ!俺は固く拳を握ると、だんだんと遠ざかっていく彼女の背中に向かって「戻んなよ」と、呟いた。彼女は立ち止まってゆっくりこちらを振り返る。

    「は?」
    「さすがに、この一連の流れで何も気がつかねーほど鈍感じゃねーっつの、俺だって」

     彼女は「……っ。い、意味わかんない」と動揺したようにプイッとまたそっぽを向いたが、その頬は少し赤く染まっていた。俺は口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んでから「——なぁ」と、声を掛ける。

    「じゃあゲームで負けた方が相手の望みを叶えるってルールで、どうだ?」

     そう切り出すと「え……?」と彼女の肩がピクリと上下した。

    「なんでもありだ。ただし、一個だけな」

     数秒の硬直のあと、彼女は再度、チラリと俺に視線を送ってくる。そして「ゲームじゃずるい」と、これまた意見を述べてきたので面食らう。

    「寿の方がゲームは得意じゃん」
    「バカ、誰もバスケでケリつけようなんて言ってねーだろ」
    「でも私、絶対負けるもん」
    「じゃあハンデありにしてやるよ」
    「うーん……てか、ジャンケンでよくない?」
    「ジャンケンかよ……じゃあ、ジャンケンな」

     彼女はわずかに口角を緩めると俺の隣に戻って来た。それを確認して「名前、ハンデ」と俺が言うと「ん?」と小首を傾げながら俺の横にまた座った。俺はすぅ、と息を飲み込み真っ直ぐに彼女を見据えて言う。

    「俺はグーを出すから、お前が負けろよ、絶対」
    「はっ?!……な、なんで?」
    「ったく。この流れで分かんねーのかよ、いいか?俺が勝ったら、俺とまた——」
    「……」
    「やっぱ、勝ってからでいい。とりあえずお前が負けろ」
    「……」
    「いいな?俺はグー出すからな、神に誓って」

     優しい秋の風がふたりのあいだを通り過ぎる。フェンスの下、校庭からは聞き慣れた赤い坊主頭の後輩らの楽し気な声がここまで聞こえてくる。

    「なんか……自分勝手なルールだね」
    「おめえには言われたくねーよ」
    「ハハ……たしかに」
    「名前、」
    「ん?」
    「負けろよ?」

     自然と互いの頬が上がりその場が小さな笑い声に包まれる。俺は吊り上がった口の端を、ぐっと食いしばって拳を握った右手を差し出す。彼女も躊躇いながらおずおすと右手を差し出したところで、俺は目をやや細める。
     しっかりと彼女と視線がかち合ったとき、俺が掛け声をかけた。


    「——最初はグー、じゃんけんっ!」










     いまは 交わらない ふたつの世界。



    (なんでハンデ付けたのに勝つんだよ……)
    (いや、反射的に……寿には負けたくなかった)
    (はーあ、なんかどっと疲れたぜ)
    (……ってことで私の望み、聞いてよね?)
    (なんだ、言ってみろ)
    (もう一回……手、繋ぎたい——)
    (はあ?なんだその中学生みてぇな望みは)
    (うっ、うるさいなぁ……)
    (ま、いいけどよ。ホラ、手ぇ出せ)
    (うん……あ、花火始まるよ。戻ろっか!)
    (ハイハイ。)


    ※『366日/川崎鷹也』を題材に。
    ※Lyric by『 そばにいて/魔法にかけられて 』

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